密教について
空海の事を調べると、必ず出てくるのは密教である。
密教(みっきょう)とは、秘密の教えを意味し、一般的には、大乗仏教の中の秘密教を指し、秘密仏教の略称とも言われる。金剛乗、あるいは金剛一乗教、金剛乗教ともいう。中国語圏では一般に密宗(ミイゾン)という。
ウィキペディアにも当然載っているが、読んでも理解できない。
ネットを利用すると、自分が賢くなったと勘違いするのだが、この手の解説は、ググるだけではどうにもならない。
そこで、少しずつ調べていきたいと思う。
まず、密教は大乗仏教の中の秘密教を指すとある。
仏教には2つの考え方がある。それが大乗、小乗である。
小乗仏教とは我利我利といわれ、自分のためだけの考え方なので、仏教の教えとしては異端である。
だから一般的にいうと、仏教は大乗仏教である。
金剛乗
さて次は金剛乗ともいう言葉だ。
密教は秘密の教えという意味だが、誰にも知らせない教えという意味ではない。
密教の反対語は顕教(けんきょう)という。
顕教とは「釈迦如来が、秘密にすることなく明らかに説き顕した教え」である。
そして、密教は「真理そのものの姿で容易に現れない大日如来が説いた教え」で、その奥深い教えである故に容易に明らかにできない秘密の教えという。
なるほど。
一般的な仏教は、わかりやすく、理解されやすい教えとなっているのだが、密教は高等数学や物理学のように難解と言われている教えだということだろう。
空海の解釈では、経典をそれぞれ次のように位置づけた。
顕教の経典 - 『華厳経』・『法華経』・『般若経』(一部を除く)・『涅槃経』など。
密教の経典 - 『大日経』・『金剛頂経』・『理趣経』など。
ウィキペディア
ここで空海が出てくる。
話が飛ぶが、空海といえば最澄(さいちょう)である。
共に中国に渡った仏教者だが、日本に戻って空海に密教の教えを請うている。
最澄は比叡山延暦寺そして天台宗の開祖である。
天台宗は「人は誰でも仏になれる。人間の他に、この世の全てのものが仏になることができる」という教えだ。
それまでの仏教は、人は生まれた家柄によって仏にもなれる人もいれば、なれない人もいるという法相宗(ほっそうしゅう)の教えが主流だった。
それを打ち砕いた最澄は日本に庶民の為の仏教を広めたパイオニアだったのだ。
その最澄が、空海に密教について教えを請うというのだから、密教の難解さがとてつもないのだろう。
密教はなぜ難解なのか
ここが一番むずかしい。
なぜ難しいかというと、難しい事というのが理解できないからである。
それなので、まともな比喩をしようもないが、例えばアインシュタインの事で例えてみる。
アインシュタインの相対性理論、そしてE=MC2
かなり噛み砕いた本でなんとかわかったような気がするのだが、多分その解り方は幼稚なものだ。
そんな感じだろう。
密教では「真言」を唱えたり、「印を結ぶ」と言った行をおこなう。
それは、ある側面禍々しく見え、恐ろしげである。
なぜ、真言密教はこのような行をおこなうかというと、生きながらにして仏になるという教えだからである。
一般の仏教では釈迦如来を拝む。
なぜなら釈迦さまは、人々を救うためにこの世に生まれた人だからだ。
しかし密教は「大日如来」を中心と考える。
曼荼羅でいうと、中心は大日如来で、お釈迦様は薬師如来、阿弥陀如来と同格であり、大日如来の回りを囲む仏様なのだ。
空海の説く大日如来は宇宙の根源仏という事になる。
やはり真言密教は広くて深い。
お遍路とは
弘法大師を祀った四国88箇所の寺に参拝に行くことをお遍路という。
何故四国かというと空海が讃岐出身であり、若き日に四国で修行した場所が四国だったからだ。
密教では、誰でも仏になれるというわけではなく、修業が必要でその修業を積んだ者たちだけにその秘法を伝える。
そこで一般の人達は、修行をする代わりに、お寺を回り真言を唱えることで、仏に縁を重ねることが出来るというわけである。
となれば全て真言宗のお寺かというといくつか違う宗派のお寺もあるし、お遍路する人たちも真言宗ばかりというわけでもない。
このあたりが日本らしい。
霊場を参拝するというのは、真言宗以外でも行われている。
江戸時代頃から西国三十三所観音霊場、熊野詣、善光寺参りなど庶民の間で巡礼が流行った。
四国で巡礼することを特にお遍路というのだが、結局厳しい境がなかったのはご存知のとおりである。
まあ、真言宗も仏教のひとつなので、大きな信仰のくくりとしてお遍路を捉えているのだ。
唱える真言の例
光明真言
「おん あぼきゃ べいろしゃのう
(オーム (聖音) 不空なる御方よ 毘盧遮那仏(大日如来)よ)
まかぼだら まに はんどま
(偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ)じんばら はらばりたや うん」
(光明を 放ち給え フーン (聖音)
なかなか馴染みのない音ばかりで、結構覚えるのに苦労しそうだ。
同じ真言でも、「のうまく さんまんだ ぼだなん ばく」の「のうまく さんまんだ」は何処かで聞いたことがある。
これはお釈迦様のことである。
お遍路さんでは、いろんなお寺で、その寺の御本尊に合わせて唱えるという。
密教は7世紀後半,インドで成立した《大日経》《金剛頂経》によって興り,8世紀に善無畏(ぜんむい)〔637-735〕,金剛智〔671-741〕,不空〔705-774〕によって中国に伝えられた。ウィキペディア
もともとはインド仏教である。
さらに8世紀にチベットに伝えられた密教はラマ教(チベット仏教)の根幹となった。
真言という言葉はサンスクリット語のマントラの訳語で、「(仏の)真実の言葉、秘密の言葉」という意である。
このマントラは「密言」、「呪」、「明呪」とも訳される。不可思議力を有する呪文もすべてマントラと呼んでいたとある。
また治歯・治毒・悪鬼羅刹からの護身・延命など現世利益のための「mantra」が用いられるようになった。
真言(マントラ)の起源は仏教成立以前に遡る。
アーリヤ人がインドに侵入する以前のインド・イラン共通時代に、彼らは火神(アグニ)にマントラを捧げて敵を退け病を癒し害毒を除くことを祈っていた。
古代より、真言は強力な呪文として認識されていたのだ。
釈迦は当初呪術的行為を禁止したとされるが 、教団が拡張するにつれ、日常生活の中に習慣づけられている呪文を厳禁することが難儀になったとともに、広く民衆に布教するための方便として旧来の信仰と調和しこれを善導するために、仏教修行の妨げにならない限りは、世俗の呪文を用いることが容認された。
お釈迦様は、民衆の中にある真言に関して悩んだと思う。しかしそれらを取り込まなければ布教できなかったのだ。
「怪力乱神を語らず」と言う論語の言葉がある。
孔子はこうした人知では推し量れないこと、理性では説明できないことがらについては語らなかったと言う意味である。
お釈迦様も同じような思いではなかったのだろうか。
台密と東密
空海と共に渡った最澄も密教は持ち帰っている。これを台密という。
空海の真言密教は東密と呼ばれている。
違いは、大日如来の位置づけである。空海の真言密教では大日如来は最高神で釈迦如来は別の仏様だが、台密では大日如来と釈迦如来は同一の仏であると説き、釈迦如来の異名が大日如来であるとする。
まあ違うのが当たり前だが、密教に関しては空海のほうが上だと最澄も認めている。
一般人はそれだけを知ればいいと思われる。
セックスの肯定について
真言密教と一般の仏教の決定的な違いは、現世の幸福を承認し、呪文とセックスの肯定する事であると思う。
ただ、セックスの肯定と言う言い方も難しい。それは理趣経(りしゅきょう)にセックスを肯定する事が書かれていることから起こっている。
空海と最澄は共に宗教の推進に協力しあっていたのだが、結局仲違いしてしまう。
その原因が理趣経(りしゅきょう)である。
空海は、どんなに最澄が優秀でも、理趣経(りしゅきょう)に書かれていることを文字だけで理解してほしくなかったので、最澄にこのお経を貸さなかったのである。
十七清浄句(せいじょうく)
妙適淸淨句是菩薩位
男女交合(こうごう)の妙なる恍惚(こうこつ)は、清浄なる菩薩(ぼさつ)の境地である
以下省略
さてこの内容を最澄だったらどの様に理解していたか興味がある。
六根清浄(ろっこんしょうじょう)
六根清浄(ろっこんしょうじょう)とは、人間に具わった六根を清らかにすることとある。
仏教語で、法華経や中国天台宗などに書いており、山岳修業をする際に唱えられた。
「どっこいしょ」の語源とも言われている。
六根とは、五感と、それに加え第六感とも言える意識の根幹である
眼根(視覚)耳根(聴覚)鼻根(嗅覚)舌根(味覚)身根(触覚)意根(意識)
ここでわざわざ取り上げたのは、五感に意識がプラスされていることである。
いわゆる超感覚の世界を当然のように認めている事が素晴らしいと思う。
ただ、この意根(意識)の捉え方で、オカルト的になったりするのだと思う。
邪教の代名詞「オーム真理教」はチベット仏教を取り入れたものだ。
密教もチベット仏教がベースになっているので、体系的には同じと言える。
ただ、オウムの場合、空中浮遊術などに走りついにはサリンによる市民大虐殺を起こしたことは、根本的に宗教を勘違いしていたためである。
つまり、密教の教えには危険な思想も有り、空海はそれをガッツリ飲み込み、正しい仏教の姿に噛み砕き日本に持ってきたのである。
だから凄いのである。
密教と空海について、聞きかじり、読みかじりでまとめてみた。
とてもじゃないがこんなもんじゃないことは、私にもわかる。
間違った理解をしているのも多々あると思うが、興味がありすぎて書かずにおれなかったのも事実である。
又チャレンジしたいと思う。