新 稲佐の謎
今から30年ほど前に「いなさの謎」を書いた。
http://freephoto.artworks-inter.net/book/novel/inasa/
その当時はパソコンも普及していなく、図書館通いで調べ書いたものだった。ところが現在、インターネットの進化で、昔わからなかったことがわかり、「いなさの謎」も訂正しなければと思いこの文章を書いている。
ネット検索でわかった事
ネット検索で衝撃的だったのは、佐賀県に稲佐山があるということだった。
恥ずかしながら最近それを知ったのだ。近い県なのに、自分の県以外のことは無知である。
いろんな資料を読む内に、長崎の稲佐と佐賀にある稲佐が混同されているフシがあると感じている。
原因は昔資料としていた新長崎年表(長埼文献社)の文である。
新長崎年表(長埼文献社)によれば、貞観三年(861)この記録として「肥前国正六位稲佐神に従五位下を授けられる(三代実録)、肥前古跡記によれば稲佐神の祭神は百済国聖明太子、空海人唐の折、稲佐山に上って怪異あり寺を創して海蔵庵と号す」
この文がいなさの謎を書くきっかけとなったのだ。
しかし、佐賀の稲佐のことを知った以上、再度調べ直してみる事にした。
稲佐神社は佐賀県杵島郡白石町にあるらしい。
最近は「樹齢約600年の大楠も!「稲佐神社」は佐賀の新パワースポット」と書かれたHPもあるし、白石町のホームページにも稲佐神社はしっかりと書かれている。
佐賀、稲佐神社の説明
稲佐神社は平安時代初期にはすでに祀られていました。
『日本三大実録』の貞観3(861)年8月24日の条に、「肥前国正六位上稲佐神・堤雄神・丹生神ならびに従五位下を授く」とあり、これが稲佐神社が正史に現われた最初の記録です。また、社記には「天神、女神、五十猛命をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」と記されています。
稲佐大明神をまつる稲佐神社の参道両側に真言寺十六坊が建立され、この一帯を「稲佐山泰平寺」と呼ぶようになりました。
この泰平寺を開いたのは弘法大師(空海)であると伝えられていて、今も弘法大師の着岸した地点が「八艘帆崎」(現辺田)としてその名をとどめています。また、「真言寺十六坊」は、この地方の大小の神社の宮司の立場にあったと言われています。
https://www.town.shiroishi.lg.jp/asobou/ittokanba/_2137.html
私が書いた長崎の稲佐山の説明
新長崎年表(長埼文献社)によれば、貞観三年(861)この記録として「肥前国正六位稲佐神に従五位下を授けられる(三代実録)
肥前古跡記によれば稲佐神の祭神は百済国聖明太子、空海人唐の折、稲佐山に上って怪異あり寺を創して海蔵庵と号す」とある。
昔の記録を調べてみると新長崎年表(長埼文献社)によれば、貞観三年(861)この記録として「肥前国正六位稲佐神に従五位下を授けられる(三代実録)、肥前古跡記によれば稲佐神の祭神は百済国聖明太子、空海人唐の折、稲佐山に上って怪異あり寺を創して海蔵庵と号す」とある
佐賀
「肥前国正六位上稲佐神・堤雄神・丹生神ならびに従五位下を授く」
長崎
「肥前国正六位稲佐神に従五位下を授けられる」
全く同じである。
佐賀
社記には「天神、女神、五十猛命をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」
長崎
「稲佐神の祭神は百済国聖明太子、空海人唐の折、稲佐山に上って怪異あり寺を創して海蔵庵と号す」
多分、ソースは同じのようだ。原本を読んでないのでなんとも言えないが、肥前国と言う言葉で混合していたと今になって思う。
規模から言っても、歴史から言っても佐賀県の稲佐山の由緒のほうが信憑性がある。
長崎の稲佐山の頂上には祠があるが神社はない。それらしい遺跡もなく稲佐山は他の山と違い、信仰はなかったと思う。
信仰は近くにある岩屋山がメインだったと思われる。稲佐山の麓にある悟真寺は、岩屋山神通寺の支院のあった場所ともいわれていて、メインではなくサブ的な場所だったのだろう。
稲佐氏
豪族・稲佐治部太輔氏の名前は南北朝時代にあるらしいが、長崎の稲佐山にいた確証はない。
山城の跡や古文書に記載があれば良いのだが現在は見つかっていない。
一三七八年「深堀安芸守時勝代中務丞時澄、足利方の今川了俊に属し…稲佐岳から自石妻山城攻略に参加し〕(深堀文書)という記録があり深堀氏以外に当地方に行動した武士として 有馬氏・時津氏・長与氏・大村氏・長崎氏・戸町氏・福田氏・しきみ(式見)氏・浦上氏などの名が見える中に稲佐氏の名は無く、正平17年(1362-足利尊氏の時代)の彼杵一挨連判状の豪族名にも記載されてない。
この文から見れば、稲佐氏はいなかったという方が正しいのではないだろうか。
古文書にある「肥前」は佐賀、長崎を含んでいるのでやはり長崎と佐賀の稲佐を混同して、引用したと推測される。
稲佐という名前
それなら、稲佐という名前は何処からきたのか。
佐賀の稲佐神社にしても、その名の由来は書いていない。
いちばん有名なのは島根県出雲市大社町にある砂浜である。
こちらはかなり有名で
「浜辺の奥に大国主大神と武甕槌神が国譲りの交渉をしたという屏風岩があり、海岸の南には、国引きのとき、島を結ぶ綱になったという長浜海岸(薗の長浜)が続いています。
また、この浜は、旧暦10月の神在月に、全国の八百万の神々をお迎えする浜でもあります。」
出雲観光ガイド
https://www.izumo-kankou.gr.jp/213
国譲り神話の舞台でもあり、「伊那佐の小濱」(『古事記』)、「五十田狭(いたさ)の小汀(おばま)」(『日本書紀』)などの名が見える。ウィキペディア
気になったのが「五十田狭(いたさ)の小汀(おばま)」日本書紀である。
佐賀の稲佐神社の祭神の一人に五十猛命がいる。
五十猛神(イソタケル)は、日本神話に登場する神様で須佐之男命(スサノオ)の子である。五十猛の名前は日本書紀にしか出てこないが、内容から、古事記にある大屋毘古神(オホヤビコ)と同一神と言われている。
五十猛神と五十田狭の浜
字面がよくにている。ただの偶然かもしれないが、出雲の稲佐と佐賀の稲佐はつながりがあるのではないだろうか。
木でつながる稲佐
出雲大社は古代より杵築大社(きずきたいしゃ)と呼ばれていた。
杵築と呼ばれた理由は所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の宮処を築いたことによる。
つまり、ここに天地創造神の神殿を作ったと言う意味であろう。
重要なのは天地創造神が古事記のイザナミ・イザナギではないという事である。
まず大分県、国東(くにさき)半島南部にある市を杵築という。ここには宇佐神宮がある。
この宇佐神宮は八幡神社の総本山である。この神社の祭神は八幡大神という。応神天皇と同一視されているが、本当は大和系ではないと言われている。ここを本拠地としたのは渡来人秦氏である。
これだけでも出雲大社と関係があると思うのだが、もっと有名なのが4拍手という事だ。
拝む時に柏手を4回打つ礼法で、出雲大社と同じだ。
出雲大社は杵築大社
佐賀県の稲佐山は杵島郡と言う場所にある。稲佐山にある稲佐神社の祭神は五十猛神(イソタケル)である。
五十猛神は木の神様である。
この五十猛神は日本書紀によると
五十猛神が天降る際に多くの樹木の種を持っていたが、新羅には植えずに全てを持ってきて、九州からはじめて大八洲国に植えたので、青山に被われる国となったという。
「新羅には植えず」と言う箇所が気になる。
新羅とは朝鮮半島にある新羅(しらぎ)と言う国の事で、五十猛神のパパであるスサノウも、最初新羅(しらぎ)に降りたが嫌だったので、日本に来たと言っている。
さらに稲佐神社は朝鮮半島の百済の王と后を第一の祭神にしている。
出雲、宇佐神宮の杵築
出雲の国引き神話の舞台となった稲佐の浜。その名前がある佐賀の稲佐山と稲佐神社。
その稲佐神社の場所が杵島
「杵」と言う字が、外の国と絡んでいるのがわかる。
そして長崎にある「稲佐」この稲佐がある場所が彼杵(そのき)郡という。
ここにも「杵」が付いている。
稲佐浜のある出雲は「杵」築神社
佐賀の稲佐神社は「杵」島郡
長崎の稲佐山は彼「杵」郡
見事に繋がってしまった。
長崎の稲佐
それなら長崎の稲佐はどうかというと、昔私が書いた「いなさの謎」では、朝鮮語から来ているのではないかという憶測を書いている。
その時の結論が「まっすぐな矢」である。しかしこの朝鮮語説は間違いだったと思う。
これは偶然だと思うが、五十猛神(イソタケル)は射楯神(いたてのかみ)とも呼ばれる。
稲佐が射楯神と関係が深いとわかった時、意外と外れてはいなかったかなと、内心驚いていたりもする。
それ以外にも「いなさ」は南東の風。台風がもたらす強風をさすことが多く,雨の前兆とされる。三省堂 大辞林 の意味がある。
長崎の稲佐は外洋に面していて、台風も毎回のように来襲してくる。「いなさ」の風と関わりがあるにおいがする。
新 稲佐の謎
ネットが使える時代になり、様々なことがパソコンでわかるようになった今、新しい謎が又増えた。
出雲の稲佐の浜は、日本書紀では五十田狭の小汀になっている。
五十田狭の五十は「いそ」とも読む。
それは、日本の数字の読み方からきている。十はとお、二十ははたち、三十はみそじなどの読み方がある。五十田狭とは、数が多いとか沢山とかという意味だろうか。
それならば、五十より百、千のほうが良いと思うのだが、五十という数字には、妙なリアリティ有ることも確かである。
出雲の稲佐の浜では、国引きが行われたと出雲の神話では語られている。
これは古事記にも日本書紀にも載っていない出雲オリジナルの話で有る。
出雲の「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」というよくわからない神様が東西南北から国を引っ張ってきたというとてつもない話である。こうなると、いなさと言う文字には「引佐」というのが有るのも理解できる。
また、神在月と呼ばれる時には、全国の神様が稲佐の浜へやってくるという。
いずれにしても、稲佐という言葉が、「外からやって来る数が多いモノ」といった意味合いがあると推測できる。
小説のような推論
杵築と言う場所で、勢力が集結して大勢力になったのだろう。神殿を造り、城を作りそこが国となった。出雲がそうであり、国東半島の杵築(きずき)の宇佐神宮がそうである。
杵は餅つきで使う「きね」である。杵という道具は、しっかりとした木の柱のような餅をつく部分がある道具である。
これは、臼を大地に見立て、稲作の稲、つまり米をついて餅(国)を作る道具と言う意味合いではないか。
杵は神であり、国を生み出す道具という事だと推測できる。神様の数え方は「柱」という。これはここから来たのかもしれない。
そうして出来上がった場所の外来からの入口が稲佐というのだろう。
稲佐は国への外来専用の入り口なのだ。
佐賀の稲佐山も百済王が移り住んだ外来王国であり、長崎の稲佐は海洋民族の入り口であったのだろう。
国引き神話
稲佐の浜がある出雲には、国引き神話というのがある。まわりから国を引っ張ってきて、出雲を作ったという、スケールの大きい話である。
その中に「拷衾志羅紀の三埼を引いた綱は薗の長浜(稲佐の浜)」になったとある。
この志羅紀(しらき)は朝鮮半島の新羅(しらぎ)だという解釈がある。
出雲の国は、色んな国から呼び寄せて国を作ったという比喩だと言われているので、朝鮮半島からも人が来ていたという解釈だろう。
新羅には朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系があり、それぞれ始祖説話を持つが、倭国または倭人との関連伝承が多い。
朴氏の始祖説話に登場する瓠公は倭人である。
昔氏の始祖説話では、倭国東北一千里のところにある多婆那国(丹波国)の王妃の子が脱解王である。
金氏始祖の金閼智説話では、脱解尼師今の治世時に、鶏の鳴き声を聞いたので瓠公(倭人)に調べさせたところ、金色の小箱なかから小さな男の子が現れた。
以上のように、新羅は倭人が作った国である可能性が高いのだ。なので出雲は、国造りの際に新羅に住む倭人たちを引き寄せたとも言える。
そして、その綱は稲佐の浜になったという伝説なのだ。
稲佐という文字には、綱を引くという意味があるのである。佐という文字は助けるという意味なので、稲佐は引佐と言ってもいいだろう。
出雲の稲佐、佐賀の稲佐、長崎の稲佐とも、朝鮮半島から人間がやってきたと思われるので、引き寄せた場所という意味で、すべてが繋がっているのである。
稲佐という地名と杵の付く地域。
2つは関係有るという結論である。
もう一つ、日本書紀には肥前には土蜘蛛という蛮族がいたという記載がある。
わざと気味の悪い字を当てているが、本当は土雲ではないだろうか。
杵築大社の出雲、彼杵の土雲。
これも又、つながりがある事は間違いないだろう。