周賀は西海町の巣喰ノ浦 長崎の古代史
最近、西海町の神社を巡っていた時、地図に巣喰ノ浦と書かれていたのを発見した。
この時、前に書いた「浮穴郷の結論を出す」という文章をすぐ思い出す。
浮穴郷の結論を出す 長崎の古代史
https://artworks-inter.net/ebook/?p=4401
肥前国風土記の中の記述に、古代の長崎(彼杵)の事が書いていて、「彼杵郡には大村、彼杵、浮穴、周賀の四郷あり、その中に七つの里あり・・」とある。
大村、彼杵は現在でも地名があり比定できるのだが、浮穴と周賀が不明だった。
以前書いた文章の中で、
船を(周賀)郷の東北の海につないでおいたという記述から、西海橋近くかなと思う。
(長崎県の大半は海に面しているのだが、東北の海と言うと佐世保方面になり、西海橋近くだとギリギリ東北の海といえる)
流れが早く、従者の船は風に遭って漂い沈んでしまったとなれば、このあたりだと思うのだが、なにせ古代である。潮の流れもだいぶ変わってしまったとも考えられるので、とりあえず長崎県の外海あたり(西海町)と比定しても問題ないと思う。また後の文でも、周賀は郡の西の方角だったとあるので間違いないと思う。
と記述した。
しかし、今回の巣喰ノ浦を見つけたことで、周賀は西海町の巣喰ノ浦と比定したい。
周賀
『肥前国風土記』彼杵郡条 有土蜘蛛 石欝比袁麻呂 丞済其船 因名曰救郷 今謂周賀郷・・
周賀郷(すかのさと)。郡の西南にある。
■ 欝比表麻呂(ウツヒオマロ)
昔、気長足姫尊(神功皇后)が新羅征伐のために行幸した時、御船をこの郷の東北の海に繋ぐと、舳艫を繋ぐ(かし)が磯と化した。それは高さ20丈(約60m)余り、周囲は10丈(約30m)余りで、磯との距離は海を隔てて10町(約109m)余りであった。また、その磯は高くて険しく、草木は生えていなかった。
また、御船に従った船は風に漂って沈んでしまった。その時、欝比表麻呂(ウツヒオマロ)という土蜘蛛が、その船を救った。これによって救郷(すくひのさと)と呼ばれるようになり、今は訛って周賀郷となった。
肥前国風土記 現代語訳
https://cultural-experience.blogspot.com/2020/12/hizennokuni-fudoki.html#chapter-37
この文章の、「御船をこの郷の東北の海に繋ぐと、舳艫を繋ぐ(かし・・船をつなぎとめるために、水中に立てる杭 (くい) 、または棹 (さお) )が磯と化した」とある。
これは、西海橋付近の渦潮の事だと思われる。
西海橋に巨大渦潮がまく、急潮9ノッと、干満差295cmの恐怖の世界
https://www.youtube.com/watch?v=HCkwLiRBd6U
ユーチューブにこの地域の干満差の映像がある。
この干満差が「舳艫を繋ぐ(かし)が磯と化した」である。
「その時、欝比表麻呂(ウツヒオマロ)という土蜘蛛が、その船を救った。これによって救郷(すくひのさと)と呼ばれるようになり・・」
そして救郷(すくひのさと)が巣喰ノ浦の事だ。
この事は私が発見したわけではなく、色んな本に書かれていた事なのだ。それを私が見過ごしていただけのことだった。
南蛮船来航以前の横瀬浦に関する一考察
中島 金太郎 人間社会学部 国際観光学科
https://niu.repo.nii.ac.jp GKH21-01.pdfしかしこれ以降,中世中頃までの記録には明確に横瀬を示しているものは確認できない。近世の大村藩領域内の調書である『郷村記』の「横瀬浦村 由緒之事」には,「横瀬村往古の儀詳ならす」とあり,1562 年以前の横瀬については判然としていない。また『西海町郷土誌』には,古代から中世の同地域が肥前国彼杵荘に属していたことが記載されているが,「往時の文字史料に現在の西海町地域の地名を見ることはきわめて稀である。近隣の様子から偲ぶほかない」とも記載されており,当該時期の史料が確認できないことを示唆している。
西海町郷土誌も確認したが、119ページに、確かに周賀は「西海町の巣喰ノ浦をはじめ・・」とあった。
これは間違いないと思う。
欝比表麻呂(ウツヒオマロ)という土蜘蛛
「御船に従った船は風に漂って沈んでしまった。その時、欝比表麻呂(ウツヒオマロ)という土蜘蛛が、その船を救った。」
この文章だが、船は沈んでしまったとある。その時、人を助けたのか、船を助けたのかが書いていない。
一般的に言えば人を助けたと解釈すべきだと思う。
この時、強風に煽られて沈んだ船から逃げ出した人間を救うことになるのだが、海は大しけである。
現代でもそうだが、そう簡単に船で救助に行けるとは思われない。
また、人間が岸まで、たどり着いたのを助けたのかもしれないが、その文章にそのニュアンスがない。
しかし、本当に大しけにあって沈みかけている船のそばに、船を寄せて助けたとすれば、かなり船の操縦に巧みな者たちか、そのあたりの海を知り尽くしている船乗りだろう。
この人達を「欝比表麻呂(ウツヒオマロ)という土蜘蛛」と書いている。
家船(えぶね)
年間のほとんどを船の上で暮らした家船(長崎県西海市を拠点とした海人)
最後の漂海民西海の家船と海女 東 靖晋
https://genshobo.com/archives/7640西海市大瀬戸町・歴史民俗資料館の家船(えぶね)
http://hayabusa-3.dreamlog.jp/archives/51254888.html
大瀬戸の神社を巡っていた時に、家船(えぶね)の存在を知った。
私は大瀬戸付近だけに存在していたのかと思ったが、式見や平戸あたりまで行動範囲があったという。
西海の土地は山深く、海上交通の場だと思われるが、ここに家船(えぶね)で暮らす人達、すなわち海人の場所だったと言ってもいいと思う。
そして欝比表麻呂(ウツヒオマロ)という名前だが、ウツヒオの「ウツ」は「移(うつ)ろう」という意味ではないかと思った。
つまり、移動する民、家船(えぶね)の人々の事である。
家船が平戸・幸ノ浦に停泊する写真があったが、みんな固まって停泊していた。
巣喰ノ浦の語源は、「巣くう」つまり、一箇所に固まっている場所という意味ではないかと思う。
あまりいい言葉ではないが、家船(えぶね)で暮らす人達はやはり、陸人からすれば異質の存在であることは間違いないだろう。
さらに、彼らを「つちぐも」と呼ぶのは、巣を作って暮らしている蜘蛛ように見えたのかもしれない。
いろいろ妄想が浮かんできたが、今回の巣喰ノ浦の(私の)発見は、現場を実際に見て回ることの大切さを強く感じた。
西海の神社とは、なんの関係もないようだが、まだ私の知識が足りないだけかもしれないと、これもまた強く思った。
“周賀は西海町の巣喰ノ浦 長崎の古代史” に対して1件のコメントがあります。