イランの歴史(1) ペルシャ文化の国の誕生

イランといえば昔のペルシャだなってくらいしか知識のない私は、今回のアメリカとの対立を機に、勉強することにした。

ペルシャといえばペルシャ猫ぐらいしか思い浮かばないが、中東の複雑な文化を織り上げた、巨大な絨毯といってもいいだろう。

ペルシャとイランは同じことを指すが、イランは国名でペルシャは文化なのである。

 

最初のイラン人(古代ペルシア人)の国は、日本の弥生時代に出来た。

アケメネス朝(紀元前550年 - 紀元前330年)という。

アケメネスというのは紀元前700年頃に実在したとされるペルシャ人の部族長の名前だとされている。

日本でいえば徳川家康によって作られた徳川幕府という意味である。

パサルガダエの有翼の男の浮き彫り(伝キュロス2世像)を描いた絵

キュロス2世によって建国。

キュロスは、単に領土を広げるだけでなく、異なる民族が共生できる帝国の基礎を作りあげたという驚異的な「寛容さ」を持った偉大な王だったという。

アケメネス朝は世界初の「世界帝国」とも称され、エジプトからインドまでを支配した。ダレイオス1世時代には、広大な版図を支える「王の道」などのインフラが整備された。

 

日本にも古代文明があり、縄文と呼ばれていた。

その歴史は古く、およそ紀元前1万年ごろからスタートしたと言われている。

それ以前も人が住んでいて、その時代は旧石器時代と呼ばれ、打製石器を使っていたという。

地球の氷河期が終わったことで生活様式が変わり、縄文と呼ばれる土器を使い始めたのである。

そして紀元前10世紀ごろから稲作が始まり、社会が大きく変わっていく。

そんな弥生時代に、中東地域ではアケメネス朝という世界規模の帝国が出来上がったのである。

日本とスケールが違い過ぎるのに驚く。

日本は極東の島国で、温暖な気候で争いが極端になかった。

人間は悲しいかな争いが多いほど、文明が進化する。日本は豊かで平和だったのである。

大阪府立弥生文化博物館

 

しかし、その時期になると世界中にいろんな国が誕生している。

紀元前3世紀、秦の始皇帝が中国を統一した。ローマ帝国もそうである。

世界は争いの真っただ中にいたのである。

 

700年の戦い

さらに日本の邪馬台国の時代になると、そのローマ帝国とササン朝(イラン)が激しく争っている。

紀元前4世紀、マケドニアのアレクサンドロス大王の侵攻によってアケメネス朝は滅亡する。

ササン朝は「偉大なるペルシャを取り戻す」の合言葉で栄えた国である。

そして西の巨大帝国であるローマ帝国とぶつかった。

紀元前1世紀から紀元後7世紀まで、およそ700年にわたって断続的に戦っていたという。

泥沼の戦いをなぜ続けたかといえば、土地の奪い合い、「シルクロード」の主導権争い、宗教の対立である。

ローマ帝国とササン朝(イラン)の戦い

両者共倒れ

イラン軍の強みは何といっても「馬」と「弓」で、ローマ帝国はピルム(投槍)という槍とグラディウスという両刃の短剣だった。

しかし、その戦いは両者の共倒れとなった。

ササン朝は滅亡し、ローマ(東ローマ帝国)も領土の大半を失う。

ちなみに、日本はその頃、弥生時代の中期から飛鳥時代にあたる。

両帝国が疲弊しきった隙を突くように、アラビア半島から新興勢力のイスラム軍が登場する。

 

イスラム軍

イスラム軍の登場

イスラム軍の人々は基本的には「アラブ人」の集団だった。

しかし、イスラム軍は身軽さとスピードがあった。

重装備のローマ軍に対し、イスラム軍はラクダや馬を駆使した機動力で、砂漠から突然現れて奇襲を仕掛けるのが得意だったのだ。

巨大な帝国同士が争えば、そこに住む人々は、さらに極端に疲弊していた。

そこに、神の前では平等とするイスラム教を抱えた連中がやって来たのである。

それは、現代の革命軍、共産軍とよく似ている。

イスラム軍が爆発的に広まったのは、単に武力が強かったからだけではなく、「古い時代の封建主義の前に、新しい平等の思想をもった集団」という、革命的な側面があったからだと言える。

イスラム軍は「アラビア語を話すアラブ人の集団」だったが、次第に「人種を問わないイスラム教徒の巨大な連合軍」となっていったのだ。

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