反日の根源、韓国憲法の三・一運動の真相

この事はたびたび、日本のニュース解説番組でも取り上げているが、改めて書き留めたい。

韓国憲法の前文抜粋
悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と、・・・

韓国の反日運動は韓国の憲法に書かれていて根深いものである。

この事をまず日本人は知っておくべきだ。

三・一運動記念浮き彫り

この憲法前文にある3・1運動とは、1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった日本からの独立運動の事であるとウィキペディアには書いている。

 

しかし、韓国はこれまで独立をした事がない国である。

はっきり言えば、独立する気概もなく、中国王朝の臣下に嬉々として甘んじている国だった。

 

歴史的事実だが、高麗国でクーデターを起こし李氏朝鮮はスタートしたが、その際、国の名前を明の洪武帝に選んでもらった経緯がある。

民族独立の気概があれば、そんな事をするはずがない。

 

また、大韓民国臨時政府の樹立ともウィキペディアでは書かれているが、臨時政府とはどの外国も認めていないのは事実である。

 

アメリカのウィルソン大統領の「民族自決宣言」を聞いた朝鮮人留学生が、朝鮮も宣言書を出して世界に訴えるという行動に出た結果である。

世界が朝鮮独立宣言を聞けば、アメリカや清、ロシヤや諸外国が多く助けてくれるという思い込みが原因である。

 

このデモの流れだが、数万の激した暴徒は電車打ちこわし等の破壊活動に移行している。

破壊活動などしないデモの場合、日本は鎮圧に回らないが、朝鮮人のデモは、一気にヒートアップしてしまう。村役場、憲兵事務所、親日派の朝鮮人にたいし、放火や警官虐殺迄及んだ。

その結果、多数の逮捕者が出てしまっている。

 

日本も好きで朝鮮半島に出て行ったのではない。

外国の対日勢力が朝鮮半島を支配してしまうと、日本は危機的状況に陥ってしまう。

そんな時代だったのだ。

この歴史の事件は、世界情勢の中で考えなければ意味をなさない。

 

まず、それまでの韓国と日本は敵対はしていない。

その当時、韓国は清の冊封国であった。

平和な時代なら、韓国の事はほっといても良かった。

しかし、西洋諸国、ロシヤ、新興国のアメリカなど白人社会は、アジア国家を切り取る事に血道を上げていた時代である。

そこに、正義など何もない。

白人にしてみれば、文化の遅れているアジアは、人間の国だと思っていない。

この時代の白人の横暴ぶりは、世界中の歴史書に書かれているので、再読して欲しい。

 

大航海時代、イギリスをメインとしてヨーロッパの植民地政策でアジアに進出している。

アメリカ、ロシアも、その流れに乗り遅れまいとしてアジアにやって来ている。

つまり、中国と日本は、白人の列強国の標的になっていたのである。

清は「韓国の三・一運動」の80年前にイギリスの一方的なアヘン戦争で見事に敗れている。

この戦争を仕掛けたイギリスの目的は

東アジアで支配的存在であった中国を中心とする朝貢体制の打破

厳しい貿易制限を撤廃して自国の商品をもっと中国側に買わせること

である。

この戦争で一番危機感を持ったのは、日本だった。

強国であったはずの清のあっけない敗北はショックであり、日本は幕末を経て、近代化を目指した明治政府を1868年に樹立した。

その日本も江戸時代に黒船と呼ばれるアメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いるアメリカに開国を迫られ、不平等条約を結ばされていた。

ただ、西洋の目線で言えば、日本には主要な産業も生糸くらいしかなく、狙いは巨大な国「清」しか興味がなかったと言われている。

この世界の動きの中で、朝鮮半島は西洋に操られるかもしれない清と、南下をしたいロシアの動きを封じるため、朝鮮半島に乗り出したのだ。

 

日本を特別正当化する気はないが、非人間的な植民地政策の欧米とロシアと比べて評価するのが正しい。

上記の理由で、日本は朝鮮半島に乗り込んだ。

1894年日清戦争で、清国と朝鮮の臣下関係を断ち切り、清に朝鮮の独立を認めることを下関条約で認めさせている。

棚ぼた式独立と呼ばれている事象である。

しかし、ロシア・フランス・ドイツの国は、日本に干渉してくる。これは三国干渉と呼ばれている。

折角独立した韓国だが、朝鮮独自の改革運動が失敗に終わると、909年12月4日、突然韓国の一進会より「韓日合邦を要求する声明書」の上奏文が提出された。

つまり韓国併合とは、折角独立した大韓帝国だが13年後、韓国政府から日本に併合して欲しいという申し出が正式に出された結果である。

韓国の内情は複雑怪奇で、皇帝に即位した高宗の暗殺未遂事件が起きたり、高宗の実父大院君と、高宗の嫁で、オカルト好きの挙句、巫堂に国庫の6倍以上の国費を浪費した閔妃(びんひ)は、20年以上にわたる権力闘争を繰り広げている。

つまり、日韓併合を政府から依頼されて、韓国にかかわった日本なのだが、韓国の内情は、親日、親清、親ロシア、親アメリカなどぐちゃぐちゃだった事がわかっている。

 

そして1919年3月1日、反日をベースにした「三・一運動」が起こったのである。

国内の自虐的教科書などには、武力で日韓併合をしたので、「三・一運動」が起こったと、したり顔で書いているが、日韓の歴史はそんな単純ではない事は、歴史書に書いている。

 

韓国で三・一運動が起こる。

当初は平和的な手段によって運動を行っていたが、次第に警察署・村役場・小学校等が襲われ、放火・投石・破壊・暴行・惨殺も多数行われ、暴徒化していった。ウィキペディア

その日本の朝鮮総督府当局による武力による鎮圧を行い、運動は終息していった。

この時の被害状況は、朴殷植の『韓国独立運動之血史』を朝鮮人は引用している。

その数は、死者7509名、負傷者1万5849名、逮捕された者4万6303名、焼かれた家屋715戸、焼かれた教会47、焼かれた学校2と書かれているが、その根拠は何処にもない。

『韓国独立運動之血史』は朝鮮人の民族意識鼓舞の目的で1919年から1920年にかけて、亡命先の上海で、文献や伝聞、新聞資料等の資料から作成したもので、そのため数値や事実関係の検証が徹底しておらず、多数の誤りが(韓国人の歴史家によって)指摘されている。

 

日本側の記録では、この運動の参加者で有罪判決を受けたのは3,967名。死刑・無期懲役になった者、懲役15年以上の実刑になった者はいない。この対応は異例の軽さである。

(文大統領は1919年3月から5月までの約2ヶ月間で、死者は7500余人に及んだと述べているが、この数字の根拠は何処にもない)

その後、1945年(昭和20年)の日本敗戦に至るまでの26年間、大規模な運動は起こらなかった。

韓国憲法に記載されている「三・一運動」とは、上記のような背景があった事を理解して欲しい。

 

日韓併合に関して、様々な意見がある。

韓国に同情的なメディアも多く、日本人独特の自虐史観の元になっている。

しかし、当の韓国にも多様な意見があり、日本と共に近代化を目指そうとした韓国人も多くいた事と、戦後の韓国の復興は、日韓併合時代の日本の努力の結果だったという事は、間違いなく事実である。

 

世界情勢の中の日本という視点がなければ、この事を語れないと思う。

歴史の事実を知り、感情論に流されない認識を持つ事は、今の日本人にとって大切である。

まず、事実である。

これだけは間違いない。

しかし朝鮮半島では、その事実がどんどん脚色されていき、あの悪名高い歴史捏造の韓流歴史ドラマのようになってしまう。

現時点では、朝鮮半島人民の虚構の歴史に振り回され、日本内の親朝鮮派の人々による煽動で心泡立つ日々が続くだけである。

やはり、隣国とは十分な距離感が必要だど再認識する。

 

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