前方後円墳は古代大和の思い違いから生まれた
「日本史鑑定」(高橋克彦、明石散人)という本を読む。
この本に書かれている明石散人氏の短い一文は、とてもショックで納得のいくものだったので、書かずにおれなかった。
明石散人氏・・・前方後円墳は、「中国の書物に「天子の墓は上円下方」とあったのを日本が取り違え」て、「実物を見ずに書物で読んだので、〈上円下方〉を平面に並べてしまった」と書いていた。
さすがは明石散人氏。
明快でかつ理屈が通っている。
前方後円墳の話は私もいろいろ考えて、勝手な説を書いている。
自分の説が間違いとは思わないが、明石散人氏の説の方がすばらしいと思う。
そこで、ネットで調べて見ると、確かに証拠もあり、ここで披露したい。
PDFファイルなのだが、中国古代の祭祀という論文にその手がかりを見つけた。
中国古代の祭祀 - 神宿る島
http://www.okinoshima-heritage.jp/files/ReportDetail_45_file.pdf王 巍 中国社会科学院考古研究所長
劉 曄原 中国文連口頭与非物質文化遺産保護専家委員会専家
陳 建憲 華中師大文学院教授
姜 波 中国文化遺産研究院水下考古研究所所長
一部抜粋
北魏の太和年間(477~499)に平城(大同)で建てられた明堂、辟雍および靈台は三者が合一されており、漢代の法式とは異なる。
明堂の建築構造は「上円下方」である。
武則天の時代になって、初めて真の明堂が建てられた。武則天が建てた明堂は上・中・下の3層であり、下層が方形、中・上層が円形を呈して、「上円下方」という古制にかなったものである。
ネットで画像を探すと確かにある。
確かに明堂は下が四角で上が丸い。「上円下方」である。
明堂とは中国の伝説上の王者が政務を行う宮殿である。
靈台ともあるので、天子の墓といっても言い。
「上円下方という古制」と書かれているが、いつの時代か明記はない。
それなら、前方後円墳が日本に現れた時期は、3世紀中頃からといわれている。
となれば晋王朝(265年 - 316年)時代がそれに当たる。
この時代は魏志倭人伝の邪馬台国の記述から少したった時代だ。
卑弥呼は頻繁に魏・晋との外交をしていたので、当然交流はある。
その当時、漢字は日本には入ってきていないが、漢字をある程度理解できる人間はいたはずである。
当然、「天子の墓は上円下方」という中国の書物を知っている可能性が大である。
卑弥呼の墓は、「直径100余歩の大きな塚」とかかれており、前方後円墳ではない。
となれば、新しい勢力となりつつあった大和のシンボルとして、「天子の墓は上円下方」という、スタイルを取り入れたのだろう。
ただ、この時代、高層の建築物はなく、この「天子の墓は上円下方」が立体だとはわからず、平面に円と四角の古墳を作ったと思われる。
明石散人氏の本は好きである。
本屋で見つけたら、なるべく買うようにしている。
明石散人氏のように博識であれば、もっと縦横無尽に物事を考える事が出来るのにと、反省しつつこの文を書いた。
この説はとても重要だと確信している。