フェイスブックとキリスト教と日本人

ネットの時代になり、スマホが爆発的に普及している。

その中で、話題になっているのがSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で、フェイスブックやライン、ツイッターなどが含まれる。

特に世界のSNSといわれるFacebookの普及がダントツである。

Facebookの世界の地域別利用者数
2017年6月28日、Facebook社が世界のユーザー数(MAU:マンスリーアクティブユーザー)が20億人を突破したことを発表しました。

Facebook 月間利用者数が20億人突破
https://ja.newsroom.fb.com/news/2017/06/two-billion-people-coming-together-on-facebook/

フェイスブックは、実名登録や自身の顔写真等を使っての利用が推奨されているため、仕事などに利用されており、社会的にも利用価値が高いと認知されている媒体である。

アメリカを始めヨーロッパは利用者が多いのだが、近年アジアなどの地域でも利用者が増えている。

中国では、Facebookは利用禁止になっているが、680万人のアクティブユーザーが存在するという。

しかし、日本や韓国は普及率が低くなっている。

一般的な分析によれば、日本は超高齢化社会であり韓国もそれに続いている。高齢者が多い国では、SNSなどインターネットを利用したサービスはやはり敷居が高く、人口に対しての普及率はいまいちだそうだ。

ただ韓国はカカオトーク、BANDなどの独自路線を突き進んでいるのでフェイスブックの普及は進んでいないという。

確かに、中国と朝鮮半島は世界から見ても変わっているのでしょうがない。

日本の場合

さて日本の場合だが、もう少し違った理由があるはずだ。

私もそうだが、フェイスブックは実名で公開されているので、投稿の際には身構えてしまう。

更に友達と呼ばれるネットワーク促進の催促や、いいねの同調圧力など意外と煩わしい。

自分自身の生活をさらけ出すことに慣れていないので、つい更新が遠ざかってしまう。

普及率の低さは、私のような人たちが意外と多い証拠である。

フェイスブックの普及率の低さは、多分そのあたりである。

まあ日本人がシャイなせいもあり、あからさまなフェイスブックを避けているのだ。

しかし、ネットのコミュニケーションが全て嫌いではない。

日本だけで異様に普及しているサービスがある。

ツイッター

日本人がツイッターにハマっている理由は匿名だからとか、文章が少ないからだと解説しているものも多い。

しかし、

日本人のTwitter好きは“異常
「情報発信だけでなく、電車の遅延や地震の発生など、自分の身に起こったことをすぐに投稿する生活への密着具合が日本人ユーザーの使い方の特徴。お店の前の行列に『なんだあれ?』と思った時にTwitterで検索するとすぐに分かるのは日本だけ」(牧野友衛執行役員)
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1509/04/news086.html

というこんな意見もある。

もう一つの見方がある。ツイッターは英語では 「半角で 140文字」という制限があるが、日本語の全角でも、同様に140文字である。

英語は表音文字なので140文字で表現するのはかなり短めである。ツイッターという名前は英語圏ではつぶやき程度しか表現できないのだ。

アメリカ大統領のトランプさんがつぶやく時、何回も一度に投稿しているのはその為だ。

しかし我が日本は漢字の国である。140文字だと俳句だと8個くらい書ける。短歌でも4つほど書ける。

まあ俳句など読んだことのない私でも、状況を報告するくらいなら不自由はないだろう。

「天気晴朗なれど波高し」は10文字である。これでもしっかり天候を表現できるから素晴らしい。

さして、ツイッターの報告記事だが、これも又日本人らしい。

大災害や事故の際、日本人は連絡をしあう国民のようだ。これは相互扶助の一端であるし日本人の単一民族の良き表れだ。

災害の多い日本のWEB告知板として使うのは正しい。助け合う事が美徳であるという道徳がすたっていない証でもある。

キリスト教

さて表題の件だが、世界のトレンドなんだけど、日本で浸透していないものがある。

それがキリスト教である。

日本人のキリスト教徒率は人口の1%以下という。

2018年の春行われたG7(ジーセブン)の中で、キリスト教でないのは日本だけである。つまり、先進国はすべてキリスト教国なのだ。

この件に関して、多分日本人は奇異に感じていないはずだ。クリスチャンでなくても西洋諸国の文化にはかなり慣れ親しんでいるからだ。

日本はキリスト教徒はいないのに、クリスマスは国民的行事になっているし、最近はハロウィンなども大騒ぎをしている。学校もキリスト教系は全体に対して66.5パーセントである。

「高校何処だったの」
「アーメン校だった」
なんて会話が偏見もなく当たり前なのだ。

つまり、日本でキリスト教は広まらなかったけど、キリスト教文化は蔓延している。

こんな状況でも、日本人がキリスト教でない事のほうが世界の驚異だろう。

日本でクリスマスが定着したのは、意外と早かったらしい。

明治37年(1904年)に、銀座の「明治屋」が商業用のディスプレイとして初めてクリスマスツリーを店頭に飾り、大きな話題を呼んだことで一般的に広く知られるようになりました。
日本のクリスマスの始まりはいつ?起源と歴史。外国との違いとは?
https://jpnculture.net/christmas/

私が小学生だった昭和40年代は、クリスマスはケーキが食べられる日だった。ただそれだけである。クリスマスケーキの上にロウソクを刺し、火をつけ、電気を消してそのロウソクの輝きを称賛し、みんなで火を吹き消して、いただきますだ。まるで西洋の誕生日のような光景が何年か続いたと思う。

日本に定着したのはクリスマスだけではない。あの迷惑なバレンタインデーもそうだ。

まあ、日本のデパートや商業業界が目一杯宣伝をして、日本人もそれに乗っかったという事である。

何がいいたいかと言えば、いろんな外国のイベントや風俗を日本人は受け入れたという事だ。しかし、いろんな欧米文化を取り入れた日本人だが、取り込まなかったものもある。

それは、思想である。

キリスト教には「救世主」という考えがある。また、神との契約といった考えもある。

「信じる者は救われる」という教えが、日本人にはそぐわなかったのだ。

それじゃ、信じない者は救われないという事になる。

この考えは二者選択だ。このわかりやすさがキリスト教の魅力の一つだが、これは日本人にとってしっくりこなかった。

日本にキリスト教を広めに来たのは、あの有名なフランシスコザビエルだが、彼らは日本布教に対して最初は絶望していた。

宣教師「あなたがキリスト教を信じれば、貴方は救われますよ」
農 民「わかりました。私は救われますが、私の死んだ婆様や爺様、ご先祖様は、キリスト教のことを知りません。じゃあご先祖様は救われないのですか」
宣教師「そうです」
農 民「何でも出来る神様は、なぜ祖先たちを救ってくれないのですか」
宣教師「・・・・」

フランシスコ・ザビエル

こんな逸話が残っている。

宣教師にしてみれば面食らっただろうと思う。

なにせ、これまで植民地にしてきたインドや東南アジアの人たちは、素直に(渋々か、いやいやでも)キリスト教を受け入れてきた。

所が日本は違ったからである。日本人には、漠然とだが一つの宗教観があったせいである。

それはおそらく祖先崇拝と自然の中の多神教だっただろう。そして他のアジア人と一線をきするのは、あの世界一長期間だった悠久の縄文時代からの遺伝子がそうさせたのだと信じる。

歴史は繰り返す

これは、現代だけの風潮ではない。古代も同じことが起こったのだ。

聖徳太子の時代である。

日本の都作りは中国の都をお手本として作られた。律令制という仕組みも中国の法律を真似て作った。

ところが日本の都には、なんと城壁がなかったのだ。つまり、中国のやり方は真似をしたが、その中国の考え方は真似をしなかった。クリスマスも、中国の都市もその上っ面だけを真似たということである。

いいのか悪いのかわからないけれど、日本人の性格みたいなものかなと思う。

そう言えば食べ物もその日本人の感性が散りばめられている。

例えばカレー。インド料理なのに日本人カレーは国民食だ。ラーメンもナポリタンもすべて日本人用にアレンジされたものばかりである。

もしかしたら、弥生時代の稲作も作り方だけしっかり真似ただけじゃないかなと思う。

何千年か後の未来になって、日本のことを調べる学者がいたとする。

日本のカレー文化、ラーメン文化、洋食文化を調べてこういうかもしれない。

「この時代の食生活やクリスマス、バレンタインの風俗を科学的に分析すると、昭和の時代に大量のインド人、中国人、ヨーロッパ人、アメリカ人が移民してきて、日本人の文化を作ったのに違いない。えっへん」

なんて言うかもしれないと思う。


話をフェイスブックに戻す。

仮説である。日本でフェイスブックが伸び悩んでいる理由の一つに、日本がキリスト教国ではないという点があると思う。

これはみなさん周知の上で、日本は仏教、神道、儒教などが入り乱れており、結婚式は神道かキリスト教式で、死ぬ時は仏教である。

こうなると、ネットのSNSでさえ、その普及に国民性が多く反映しているはずである。

日本人のネット

フェイスブックの良い点は皆さんのほうがよくご存知のはずである。

その良い点のおかげで、世界中の大部分の人がフェイスブックを使っているからだ。

そして日本人はあまり使っていないという結果になっている。

まあ閉鎖的な共産国中国と独自路線の変わり者韓国は置いとくとして、先進国では珍しい現象なのだ。

そして、世界でも使われているツイッターの普及率が異常に高い。

その理由の一つは島国だからだ。それも特別な熟成をした日本人が住んでいる島国だからである。

当然匿名性の高いのも理由だし、簡単なのも好印象だ。

しかし最大の理由は押し付けがましくないことだ。

「俺の目を見ろ、なんにも言うな」であり、「以心伝心」であり、謙遜は美徳なのだ。

愛していると言わなくても、自分の命より相手を愛することが出来る民族なのである(少し褒め過ぎか)。

面倒くさい

フェイスブックの悪い点は面倒くさい事である。(私が思うだけかもしれないが)

さらに、あのメインの欄に出てくる異常なほどの友達の数。

友達と言えない人々との友達付き合い。

やたらイイネをおしてくるヤツに付き合うことの面倒さ。

さらに登録している個人情報や私生活は公開されて、いつの間にか周知にさらけ出されてしまっている事を知った時の恥ずかしさ。

さらに、他人のリア充の生活やワンちゃん等のペットの写真、ちょっとセレブの料理など知りたくもない情報が満載の内容。

まあ、日本人に向いているとは、最初から思えなかった。

日本人も最初は面白がって手を出したが、あまりの面倒くささに閉口して、ページを開きもしない人が多いと思われる。

まあ仕事を絡んでいるし、友達もやっているのでとりあえず登録しているがあまり更新しないという人がかなりの数に上ってきているのだと思う。

インターネットは宗教である

まずクラウドと呼ばれる仮想空間が舞台である。そこに様々な規則や仕掛けがある。

インターネットを使う人間は、スマホやパソコンを持っていて、その小さな箱の中で連絡を取り合う。

宗教も神の存在は仮想空間であり、キリスト教の人は十字架か聖書、日本人なら家庭にある仏壇や神棚、そしてお守り。

これらのグッズで神様との関わりを保っている。

教会や神社は大量の情報をやり取りできるwifi接続のある場所で、十字架やお守りは4G通信だろう。

普段これらの事に関心がない人でも、自分の悩みや病気、事件事故が起きた時は、それに大きく関心をもつようになる点でも似ている。


キリスト教のことを悪く言うつもりもないし、実はよく知らない。

だから少し雑な意見になってしまうが、フェイスブックの広がりはキリスト教を信仰する人たちとダブってくるのだ。

際限なく出てくる友達と呼ばれる人たち。

「汝の隣人を愛せよ」と言われているような気がしてくる。

いいねのボタンだけど

「自分がしてほしいと思うことを、人にもしなさい 」と諭されているような気がする。

考えすぎだろうか。

日本の宗教に教えはない

聖書というのは素晴らしい教えが網羅されている啓蒙書である。

教会などで読まれ人間はどう生きるべきかを書かれている。信者の人もそれらの言葉を暗記しているように思える。

さて日本人はどうだろうか。

月命日に家にやってきた坊さんと話をするが、世間話が主で説教など殆ど聞いたことがない。

ましてお経の本は開いたこともない。

神道の場合、それらの書物は一切ない。

そう、日本人は神の教えを宗教者から教わった事がない人たちが殆どなのだ。

もちろん、教え的なものは知っているし実践している。

「お天道様に顔向けの出来ないことはしない」とか「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれ、地獄に落ちる」「困っている人は助けなければならない」などは、宗教というより人生訓と言えるものばかりである。

しかし、神仏に関して紛れもない信者なのだ。

そんな国民なのである。

だから、フェイスブックの全知全能的機能から逃げ出したくなってしまうのではないだろうか。

フェイスブックに身を任せる事に、不安を感じてしまうのではないだろうか。

その点ツイッターは単純明快で余計なことをしない。

災害時の連絡も、交通渋滞の時も、短い言葉で的確にアップしてくれるので探しやすい。

ツイッターを作った人が、日本人は新しい使い方を開発してくれたと驚いたように、相互扶助にも勝手に使い始めたのである。

ツイッターはお経ではなく念仏である。

不幸な場面に出会うと出てくる「なんまいだぶ」や手を合わせ拝む、軽く会釈をするなど、短い所作は日本人の「つぶやき」である。

そして人を助ける時、つぶやくようにさり気なく行い、良かったねとつぶやく。

人に聞こえなくても良いようなつぶやきが、日本人の心情なのである。

日本はやはり狭い世間である。日本語しか話さないし、土地は狭く隣近所との距離も近い。

昔のように隣近所との交流関係はなくなったと言うが、地方の田舎は違う。都会だけの話である。

結局、田舎の近所付き合いを嫌った人たちが、都会に出て暮らしている。しかしやはり寂しいし不安なので、ネットに走りフェイスブックに手を出す。そして疑似田舎をネット上に再現しているのだ。

しかし所詮仮想社会である。その舶来生まれの仮想田舎は容赦なく交友関係を迫ってくる。自分の生活をさらけ出し、友情を深めなさい、交流を持ちなさいと迫ってくるのだ。それはまるで義務のようでもある。そして、それが今苦痛になってきてしまった。


色々書いたが、やはり日本人はベースになるもの、信じるものが違うという事が結論になるだろう。

これからネットのサービスはますます増えてくるだろうが、日本人は日本人の選択をする。

世界がどうあれ、日本人はオンリーワンの存在なのだ。

そしてそれは今も昔も変わらないのだ。

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