ヒルコとスサノオ 戻ってきた倭人達
不思議な話がある。
イザナギ、・イザナミの国産みの話である。
女性である伊邪那美の方から男性の伊邪那岐を誘ったために、ちゃんとした子供が生まれなかったとある。
最初に産まれた子供である水蛭子(ひるこ)を葦舟に乗せて流してしまい、次にアハシマが産まれた。水蛭子とアハシマは、伊邪那岐・伊邪那美の子供の内に数えない。
実に意味深な話である。
色んな人がいろんな解釈をしているが、私も思う所があるので、論じてみたい。
何故イザナミの誘いは駄目だったのか
まず最初の「女性である伊邪那美の方から男性の伊邪那岐を誘った」という文である。
古代では、女性が声をかけてセックスを誘った事になんの疑問もなかったと見える。
つまり、古代は当たり前に、女性が男性を誘っていた世界だったといえる。
くり返し言えば、大和の前の時代、つまり大和国が成立する前の世界では、女性から男性を誘う世界だったと言える。
だから、大和の神の中に入らない二人の神が生まれてしまったと説明しているのだ。
その次は他の神様の忠告に従って、男から誘ったらうまく行ったということになる。
大和の前の王国は、女性が男を誘っていたが、大和の国は男が女を誘う国ですよと宣言している。
まずはこの部分だ。
女が上位の国とは
大和の国は、現在まで天皇が国の主となっている。そして天皇家は男系と決まっている。
つまり、男性が天皇というのが決まりだ。(もちろん女性天皇もいるが、全て男子天皇の血筋で男系である)
古代女性が上位の国といえば、あの女王卑弥呼がいた邪馬台国しかない。
ここでいきなり卑弥呼が登場するのだが、卑弥呼の事を書いている魏志倭人伝には、女性の事が書かれている。
其會同坐起、父子男女無別・・・「集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない」
この文でもわかるように、古代日本では男女同権の世界だというのがわかる。だから邪馬台国が女王というのは特別珍しいことではなかったのだ。
それ以外でも、古代九州にはその事を調べてみると、肥前の土蜘蛛たちは、殆どが女性酋長なのだ。
海松橿媛(ミルカシヒメ)松浦郡、大山田女(オホヤマダメ)・狭山田女(サヤマダメ)佐嘉郡、八十女人(ヤソヲミナ)杵嶋郡、速来津姫(ハヤキツヒメ)彼杵郡、浮穴沫媛(ウキアナワヒメ)彼杵郡
明らかに肥前は大和国とは違うようである。
そして次の文章
最初に産まれた子供である水蛭子(ひるこ)を葦舟に乗せて流してしまい、次にアハシマが産まれた。水蛭子とアハシマは、伊邪那岐・伊邪那美の子供の内に数えない。
これも又、前の王国のことを述べている。
不具の神の誕生
最初に生まれた子が不具だったという神話は東南アジアには多いらしい。
中国雲南省の彝族では、兄妹の交会の結果手も足もない肉塊が産まれ、それを二人で切り刻んで山の上から撒いたら、その肉塊の破片の一つ一つが人間となった。
宮古諸島多良間島のウナゼーウガンに伝わる伝承では、大昔に大津波によって人が絶え、生き残ったウナゼー兄妹が仕方なく夫婦になった。最初に産まれた子はシャコガイだったが、やがて人間の子を産み、それから子孫が栄えた。
台湾のアミ族に伝わる神話では、洪水の後に生き残った兄妹が交会した結果、魚類と蟹の先祖のような生き物が産まれ、それを海に捨てた後で、月に伺いを立てたところ、二人の間に蓆を挟み、穴を穿って交わることを示され、それに従ったところ、普通の子供が産まれた。
洪水型兄妹始祖神話ウィキペディア
いずれも確かに、大和の国産みの冒頭部分に似ている。これは日本列島に中国南部、東南アジアの人たちがやってきたという証である。
これらの神話に出てくるのは洪水と奇形児の存在だ。
洪水は、ヨーロッパのノアの箱舟や島ゆえの津波の被害の伝承だと推測される。
次に、魚類と蟹の先祖のような生き物、産まれた子はシャコガイ、手も足もない肉塊が産まれなどの話は、兄妹の結婚という近親相姦のタブーを語っているのだろう。
国産みの話には洪水はないが、混沌をかき混ぜ島をつくるというのは、洪水後の世界のことを言っているともいえる。またイザナミ、イザナギが兄妹だとすれば、最初の子供が不具だったという近親相姦のタブーを暗示している。
いずれにしても、古事記の冒頭は東南アジア系の神話の流れをくむものである事は間違いないと思う。
しかし、アジアの神話と決定的な違うのが、ヒルコである。
どこが違うかと言えば、ヒルコはその後、神様となり日本で復活するのだ。
いわゆるえびす伝説である。
流された蛭子神が流れ着いたという伝説は日本各地に残っている。
日本沿岸の地域では、漂着物をえびす神として信仰するところが多い。
こんな神話は東南アジアにはない。
神話において一度葬った死神を後世に蘇生させて伝説や信仰の対象になった例は珍しいという。ウィキペディア
日本の神は、なぜヒルコを流したのか
産みぞこないは二人である。
ヒルコは流したと書いているが、もう一人の「アハシマ」についての記述がない。
「アハシマ」は「淡路島」の事とされ、国産みの際、最初に生みなおして淡路島を登場させている。
淡路島は大和朝廷の重要な島であり、古代の遺跡も多く、大和朝廷が成立する際、古代の淡路島一族を大和に組み込んだ比喩といえる。
つまり最初の「アハシマ」は大和ではなかったが、産みなおして大和の「淡路島」になったという事だ。
だが、もう一人の産みぞこないのヒルコは海に流している。
さて、もともと日本生まれだが、出来損ないだった子供とはなんだろう。
やはり最初に思いつくのは、邪馬台国の卑弥呼である。
卑弥呼は日巫女であり、ヒルコは日る(昼)子とも言える。
魏志倭人伝の文章が、日本を貶めるために悪字を使って倭や卑弥呼を表現したといわれている。
最初の大和は中国大陸の唐などと関わりが深いので、そのやり方を踏襲したのだろう。
卑弥呼をヒルの子供つまり蛭子(ヒルコ)と書いたとも想像できる。
また水蛭子(ひるこ)が卑弥呼個人を指したのではなく、卑弥呼に代表される古代王国のことかもしれない。
という事は、大和王国ができる際に、過去の王国の主要幹部を国外追放したという暗示ではないかと思った。
日本国内の戦争は、他の国とは違う。
それは、敵の国の民を皆殺しや奴隷にしないということである。
親分や酋長達は粛清するが、国の民は吸収するやり方である。
大和王国が出来上がっていく過程で、様々な国を制圧もしくは吸収しているのは事実である。
その際、首長クラスの人達を殺害したか追放した。もしくは首長クラスは自分たちで逃げ出したのだろう。
日本の古代王国の首長たちや主要幹部は何処に逃げ出したのか。
それは朝鮮半島である。
三韓征伐
三韓征伐という神話がある。
勇猛な女帝神功皇后の話である。
神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指す。新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。ウィキペディア
この神話は日本書紀に書かれている。まるっきり作り話ではない証拠に朝鮮や中国の歴史書にも関連するかと思われる記事がある。
有名なのは中国の広開土王碑・七支刀などの考古物である。
広開土王碑の碑文にはこう書いている。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
ウィキペディア
中国側の文章などで、倭族が侵略戦争をしたように書いているが、頭から信用出来ない。
ただ、朝鮮半島に倭人たちがたくさんいたという証にはなる。
倭国が朝鮮半島を攻める理由
なぜ、倭国は朝鮮半島に進出したのだろうか。その理由を書いている書物はない。
領土を広げ、国力を高めるためだろうか。
身びいきかもしれないが、日本は好んで侵略戦争をする国民ではない。
ヨーロッパやアメリカ等の西洋人とは考え方が違うのだ。
白村江の戦いは百済の応援であり、秀吉の朝鮮出兵はスペイン・ポルトガルの侵略を食い止めるため中国に行った事、大東亜戦争は中国、ソ連の侵攻を食い止めるためである。
北は寒く畑作しかできない貧しい土地であり、中国やモンゴルと地続きの危険な場所を好んで取る必要が日本にはないはずだ。
そう考えれば、大和王国に破れた倭人たちが、居場所を朝鮮半島に求めたと考えたほうが理屈に合う。
大和国の成立で、反大和王国の倭族は逃亡したのは間違いない。
そしてその行き先が朝鮮半島南部だったということだ。
これが、古事記の最初の子供は海に流したという本当の意味である。
平和協定
日本書紀の神功皇后の三韓征伐の話だが、実にあっさりと書いている。
お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。
戦わずして三韓を征伐したとは考えられない。
この文のほんとうの意味は、朝鮮半島の三韓は、すでに大和から追われた倭人たちが大勢、朝鮮半島の国々の中枢部に入り込んでいて、大和と話し合いで和解が成立し、朝貢を約束したからだ。
つまり、大和も朝鮮半島の土地を侵略する意図は始めからなく、日本国から逃げ出した倭人達の国と平和協定を結んだだけだったと考えてもいいだろう。
帰化人の事
今は渡来人と言っているが、昔は帰化人といっていた。
なぜ渡来人と言い始めたかというと、近年の学者が朝鮮半島の人達に対して勝手に帰化したなどというのは失礼に当たるからという理由である。この時点で、帰化人イコール朝鮮人ということになってしまっている。
まあいい。
飛鳥、奈良時代、日本に有能な中国系の人たちが朝鮮半島経由でやってきている。
それは事実である。
しかし、彼らは何故日本にやってきたのか。
別にボランティアでやって来たわけではなく、中国の戦争やそれに伴う朝鮮半島の戦争で追い立てられて日本に逃げてきた難民である。
しかし大元をたどれば、倭人たちである。
一度大和から追い立てられたが、大陸の戦の明け暮れで逃げ出し、都合よく大和建国の際に、帰ってきたということである。
日本を発ってもうすでに何百年も立っている。憎しみはないだろう。それよりも同じ日本語を話す、日本列島はやはり故郷なのだ。
恵比寿伝説
このヒルコと恵比寿を同一視する説は室町時代からおこった新しい説とされており、それ以前にはなかった。
しかし、古今集注解(古今和歌集の注釈書)や芸能などを通じ広く浸透していたとある。
夷の文字もエビスと読む。
古くは「えみし」といい,異民族を意味する語であった。西南地方の異民族は,比較的早く同化されたが,東北地方の蝦夷 (えぞ) だけが,長く同化せず,異民族として残ったため,「夷」が「蝦夷」をさす語となった。ブリタニカ国際大百科事典
日本におけるエビスは、異民族であり、恐れと敬意が入り混じった言葉である。
日本のエビスと、七福神(しちふくじん)の恵比寿はいつの間にか同一視されている。
七福神のメンバーは恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁才天とするのが一般的のようだが、これらの神々は、意味不明な混成チームである。
ヒンズー教、仏教、道教、神道が背景にあり、適当に意味付けが行われており、まさに日本教そのものと言っていいだろう。
日本人の成り立ち
七福神で象徴されるように、日本列島には様々な人々が流れ着いてきた。
これまでの説は、弥生時代、大陸系の大量の人々が日本にやってきて、弥生時代を作ったと書いている。
しかし、その説は現在大きく修正されている。
まず、弥生時代つまり稲作が始まった時期が、これまでの定説を覆し、かなり早い時期に始まったとわかったからである。
2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。ウィキペディア
これにより、今までの学説が大きく崩れ去っていったのである。
まず、稲作(陸稲)自体は縄文人も行っていたが、水田稲作が中国南部から直接伝わったとわかっている。
これまでの説では、稲作が始まった時期は弥生早期の紀元前500年から紀元前400年と考えられていた。
しかし、弥生時代のスタートは、これまでの定説より500年も前に始まっていた。
さらに、これまで弥生時代の特徴とされていた、稲作、農耕、高床式倉庫、大規模集落、木工技術、布の服などは、縄文時代に既に存在していたことがわかった。ウィキペディア
弥生人の骨
弥生人の人骨資料のほとんどは、北部九州・山口・島根県の日本海沿岸にかけての遺跡から発掘されたものである。
つまり、弥生時代というが、弥生人と呼ばれている骨は、狭い地域の北九州などの地域で発見されたものである。
つまり日本中から発見されたものではないということだ。
また、縄文時代が軽く見られていた時代もあり、再度新しい科学的方法で再調査をしてほしいものだ。
日本は海岸線だらけである。ほっといても朝鮮の船は日本海沿岸に流れ着いている。
そんな数少ない弥生人と思い込んでいるデータで日本人を語るというのも、傲慢な見解である。
1999年(平成11年)3月23日、中日共同調査団が発表、 「弥生人」の起源は江南地方か
共同通信によると、日本に稲作を伝えたとされる渡来系弥生人の人骨と、長江(揚子江)下流域の江蘇省で発掘されたほぼ同時期の人骨の特徴がよく似ており、DNA分析で配列の一部が一致する個体もあることが、18日までの中日共同調査団の調査で分かった。
これによると日本にやってきたのは中国南部の人たちの可能性がある。
DNA研究で「縄文人と弥生人」が分かってきた
まず、かつて盛んに唱えられていた日本人南方起源説が、否定された。人種の違いを識別できる「血液型Gm遺伝子」の分布から、日本人の先祖はロシアのバイカル湖から南下してきたことが判明したのだ。「日本民族バイカル湖畔起源説」である(松本秀雄『日本人は何処から来たか』NHKブックス)。
https://www.huffingtonpost.jp/foresight/jomon-man-dna_b_7601964.html
こちらの研究では、北のロシアから日本人はやって来たと言っている。
この問題はまだまだたくさん出てくると思えるし、証拠をもとにした研究はどんどんやってほしい。
西に行った人々
話をもとに戻すが、日本には北と南からたくさん人がやってきたのは間違いない。
それなら、西、つまり朝鮮半島からは人は来たのだろうか。
こんな事を書くと、日本の学者から笑われそうだが、確かに日本にも朝鮮半島から人は来た。
しかし、来るという事が出来るのだから、行く人間もいたはずである。
長崎県にも新幹線がくるという。県の役人たちや政治家はこれでたくさん都会から長崎に観光客が来ると、取らぬ狸の皮算用でほくそ笑んでいるが、現実は長崎から都会に出る人達が増えて、ますます長崎の過疎化が進むだろう。
それと同じことが現実には起こっていたはずである。
問題はどっちが多かったかということだ。
朝鮮半島に縄文人の遺跡や人骨があったり、前方後円墳があったりしていることを考えれば、朝鮮半島へ行った人間のほうが多かったのだ。
朝鮮半島へ行った縄文人たち
弥生時代になり、東南アジアや中国南部から伝わった水田稲作により、自給自足から貧富の差が出てくる経済に変わっていった。
それにより、九州は様々な国が誕生することになる。
当然争いも起こり、勝った方はいいが負けた方はその地を去ることになる。
その逃げていった先が朝鮮半島だったのである。
つまり日本列島に北と南から人がやってきて長い間混血が進み日本人という人種が出来上がったが、九州内の王権の誕生で、負けた側は追い出されるように朝鮮半島へ広がっていったという考えが十分成り立つのだ。
入り口は出口
そんなバカなという人も多くいるだろうが、なぜやってくるばかりだと思っている方が私は不思議である。
中国や朝鮮半島から日本にやってくる事は、大変な覚悟がいるはずである。
まず言葉が違う。船がいる。航行の危険が伴う。日本本土に渡っても、安全な地域とは限らない。
そんな難関をはねのけて、なぜ日本本土に渡らなければならないのか。
ボランティア友好モードで行くわけはないのだ。
学者の人たちはいとも簡単に、海を渡ってやって来たというが、日本に行くにはそれなりの理由がなければならないはずである。
その理由とはなんだろうか。
それは戦火に追われてという以外考えられない。
日本国内で戦いに敗れて朝鮮半島に渡った倭人達は、再び大陸の戦火を逃れて、日本に戻った。
弥生前期はそんな時代だったのである。
スサノオとヒルコ
イザナミ、イザナギが生んだヒルコは出来損ないだったので海に流したという。
つまり、日本の前王国の主要な民を大和から追い出した。その民達は朝鮮半島南部に住み着いて国を作った。
これが新羅の本当の姿と言える。新羅の王(脱解)は倭人であるとかの話も事実である。
またスサノオが天上界を追放され、「新羅国」の「曾尸茂梨(そしもり)」に天降る。しかし「この地には私は居たくないのだ」といって、船を作り出雲の国へ行ってしまう。
この話も重要である。
まず最初のスサノオをアマテラスが追放する場面がある。スサノオは高天原の主要な神様だけど、出来損ないである。だから追い出した。
これは、イザナミ、イザナギが第一子を出来損ないだと言って、海に流す内容と全く同じだ。
次に、スサノオは朝鮮半島に降りる。
この記述で新羅が倭人の国だという事がわかる。そして新羅から船に乗り大和の出雲にいくのだ。
一度追放した神が海を渡って日本へ来るという話は、あの恵比寿伝説そのものである。
スサノオは何故高天原で暴れたのか
ここでイザナミ、イザナギの話に戻る。
最初の神産みはヒルコを生んでしまい、次にはアワシマも生まれてしまう。
この二人は出来損ないだということになっているが、出来損ないが生まれた理由が、イザナミ(女神)が先にイザナギ(男神)を誘って子供を作ったからだということになっている。
この事は大和の成り立ちの謎に深く切り込んでいる記述である。
イザナミ(女神)は、女性を首長としていた邪馬台国をも含大和以前の王国の事で、イザナギ(男神)は大和の事である。
最初イザナミ(女神)主導で国産みをしたが失敗し、イザナギ(男神-大和)主導で大和の神々を生んで成功したと書いている。
ここに古代の覇権交代の事実を書いているのだ。
その後、イザナミ(女神)はいろんな神様を産むが、最後の火の神カグツチを産むが、その為焼け死んでしまうという展開で、黄泉の国にいってしまう。
大和は女性王国と手を結び、女性王国も大和発展のために尽力を尽くしたのだろう。しかし死んでしまう。
その後イザナギ(男神-大和)は黄泉の国(出雲)に会いに行くが、約束を破ってイザナミ(女神)と喧嘩となり、ここで完全に決別してしまう。
まあ、よくある話である。
現代風に言えば、女性社長(卑弥呼等)で大きくなった会社と合併したのがやり手の男性社長(大和天皇)である。
最初は女性社長(卑弥呼等)の権限が強く、コンツェルンと発展していくが、男性社長(大和天皇)が力をつけて会社内の権力は逆転していき、女性社長(卑弥呼等)は葬られるといった話である。
大和株式会社を作る時に活躍した、男性営業マンたちの一人がスサノオである。
スサノオは女性社長(卑弥呼等)の右腕となる子飼いの優秀な部下だった。
この事も古事記には書いている。
神産みの最後に生まれたのは天照大神、月読命、スサノオで、昼と夜と海を支配するようにとイザナギ(男神-大和)から命じられる。
しかしスサノオは、イザナミ(女神)に会いたいと泣き叫び、高天原を追放されて、朝鮮半島の新羅へ飛ばされてしまうのだ。
つまり、スサノオは女性社長(卑弥呼等)の片腕でもあり、イザナギ(男神-大和)のだまし討に反抗したのだ。
だから黄泉の国に送られた、前社長を救出しようと試みたが失敗して大和から追い出されたという話である。
スサノオの高天原追放劇にはこんなストーリーがベースにあったのだ。
太陽神の争い
日本は太陽神信仰の国である。
ご存知アマテラスである。しかし、大和以前の日本にも太陽信仰は存在している。
それが「アマテル」である。
有名なのは、対馬の阿麻留神社(あまてるじんじゃ)である。対馬は神道の原型があるといわれている場所で、独自の天道信仰がある。
それに八幡信仰が重なり日本中に広まっていったと考えられている。
八幡信仰は渡来系の秦氏の信仰であり、秦氏の活躍とともに日本中に広がったとされている。
日本中何処にでもある稲荷神社は、秦氏の氏神さまであり、秦氏の本拠地の京都太秦(うずまさ)には木嶋神社(このしまじんじゃ)があり、ここには天照御魂神が祀られている。
この天照御魂神はアマテラスとは違う太陽神である。渡来系といわれる一族は、大和神話の神々と違う神々を祀っている。
日本は現在もそうだが、宗教に関して実に寛容だ。
その理由は、日本を形作っている人々が実に多様だったからである。
西洋のように、キリスト教一本で国をまとめようとはしなかった。
まあ、アジア人の性格とも言えるかもしれないが、日本はその中でも実にゆるい信仰心をまとっている民族だと言えるだろう。
しかし、古事記や日本書紀は大和の神話である。
日本に古くからある太陽信仰とは別の大和の太陽神を持ってこなければならなかった。
その古くからある太陽信仰の象徴がヒルコなのだ。
水蛭子とかいてヒルコと読ませるが、どう読んでも、日る子、卑弥呼、日巫女の事を言っているとしか読めない。
大和以前の王国の漠然とした太陽信仰を、海に流したと書いているのが、神産みの冒頭である。
そして、その神を信仰している一族も追放したということになる。
しかし、時代は追放した人々が舞い戻ってきて、大和をもり立てていくことになった。
それが渡来系帰化人であり、恵比寿伝説の本質なのだ。
渡来系帰化人は秦氏、東漢氏、西文氏(かわちのふみうじ)が代表的だといわれている。
東漢氏(やまとのあやうじ)は『記・紀』の応神天皇の条に渡来したと記されている漢人系の阿知使主を氏祖とする帰化系氏族集団である。
東漢氏は中国の後漢帝国の末裔だといわれているが、これは創作だろう。
日本に来た理由に
中国漢末の戦乱から逃れ帯方郡へ移住したこと
氏族の多くが技能に優れていたこと
聖王が日本にいると聞いて渡来してきた事
を挙げている。一つ気になるのが「聖王が日本にいる」という記述である。聖王と言えば百済の王様の事を思い浮かべるが、具体的な事はわからない。
中国の後漢帝国の出身なら、漢の王様を慕えばいいのに、わざわざ日本に聖王を慕ってくることもないだろう。
日本にやってきた本当の理由はわからないが、どうしても日本に来たかったことだけはわかる。
「東漢氏はいくつもの小氏族で構成される複合氏族。最初から同族、血縁関係にあったのではなく、相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまっていったのだろう。先に渡来した人物が次の渡来人を引き立てる場合もあったはず」門脇禎二教授 ウィキペディア
と書いている。
門脇禎二教授も言っているが「共通の先祖伝承に結ばれて」という事は、東漢氏は日本出身だとも取れるのだ。
また東漢氏は倭漢氏とも記述される。文字通り、倭人一族ということではないか。
まとめ
大和神話の国産みは、大和国成立の顛末を抽象的に語ったものである。
そして、海に流されたヒルコの話は、大和以前の王国の太陽神とそれを信仰する一族を葬った話である。
しかし、日本人はそれらの人々が、幸福をもたらすために帰ってくることを歓迎していた。
その証が、漂流物信仰の恵比寿さまであり、ヒルコの次にうまれた出来損ないの「アワシマ」は、後年民衆の信心として「淡島神」として復活する。
淡島神の祭神は少彦名神、および共に出雲の国造りをした大国主神とされている。
少彦名神(スクナビコナ)は大国主の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪したとされる神様である。
ここにも、来訪神の伝説が織り込まれている。
弥生時代は短期間に大量の渡来人たちがやって来たと言い張る学者やマスコミの言い分が、真実のように伝えられている。
紀元前10世紀くらいに、どれほどの船があれば、それほどの人間が海を渡って来れるのか。水田稲作のない朝鮮半島の人々が、どうやって倭国で水田稲作を始めたというのか。なぜ北九州に朝鮮半島の言葉が残っていないのか。単純に考えてもこれだけの疑問が残る。
そして最大の疑問は、なぜ日本にやってきたのかということの説明が何処にもない。
日本列島に住み着いた縄文の民は、その開拓精神で朝鮮半島を皮切りに、大陸にも広がっていった。その頃九州で始まった稲作技術を持ってだ。
これは、私の妄想ではない。最近の日本の学者がそう言っているのである。
広がった倭人達は、中国で興った王朝による朝鮮半島への進出で、また日本に舞い戻ってきたのだ。
これが弥生時代の始まりで、第1次帰還である。
大和王朝が出来る時、反勢力は再び朝鮮半島に渡っていく。そして大和王朝が完成されかかった際、再び日本に戻ってくる。
これが渡来人といわれるもので、これを第2次帰還と呼びたい。
この第2次帰還は中国の五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代で戦乱の大陸の時代である。朝鮮半島では高句麗と呼ばれる国が暴れまわっていた時代である。
つまり、日本への渡来は中国大陸の戦争のせいで起きたのである。
古事記に書かれている、国産み神話の出来損ないのヒルコは、時をおいて民間の来訪神神話として日本に根づいていった。
それが真実である。
江戸時代に出来上がった七福神。アジアの神様がごちゃまぜになって日本にやってくる。
もしかすると、倭人はアジア中に広がり根付き、時がたって神となり里帰りをするのかもしれない。
まるで鮭やアユのように海外に出ていき、必ず里帰りをする日本人。それが日本人の日本人たるゆえんなのだろう。
そう言えば、子供の出産をするので実家に戻っていく嫁さん。
彼女は紛れもない日本人なのである。