有明海を守る者 火の君

熊本

火(肥)の国のセンターにあり、重要な海である有明海。

縄文時代には「縄文海進」と呼ばれる水位が上昇する現象で、現在より海が陸地に入り込んでいたと言われ、現在の地図とは異なる海岸線があった。

故に有明海ではなく「古筑紫海」と呼ばれていた。

「縄文海進」により、博多湾と有明海はつながっていて、その時代の文化や勢力図に大きな影響を与えていた。

この事は、様々な学者が述べている事実である。

佐賀県神埼市の吉野ヶ里遺跡や福岡の太宰府は、現在内陸にあるが博多湾と有明海がつながったとすれば、その川筋にあったと思われる。

海に囲まれた九州地区の統治組織「大宰府」が、なぜこんな内陸にあるのか疑問だったが、博多湾と有明海がつながったとすれば、「大宰府」は、玄界灘にも有明海に船で移動が出来る地であり、北九州を統括するには最適な土地であったことが理解できる。  

o0595044013232832334 引用 【縄文海進】その2;北九州 http://ameblo.jp/blob-shima-jiiya/entry-11996290635.html

  また古代の有明海が、長崎の雲仙岳や巨大な阿蘇山の大噴火で地形が変っていたことは容易に推測できる。

古代には有明海とは呼んでいなく、「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」の名で呼んでいたらしい。

「有明」という名称は古代からあり、この名前には深い意味がある。  

「有明」とは夜明けのことをいう。

「明」という字には、日と月が抱き合っている。

つまり、太陽と月が同時に見える時のことである。  

この言葉ですぐ思いつくのは韓国の『太陽を抱く月』という小説だ。

このドラマのタイトル映像に使われているのは、「日月五峰図」という絵で、韓国の新しい1万ウォン札にも使われている。

この絵とモチーフがよく似ているのが「日月星辰の幡」である。

http://seikotutop.web.fc2.com/data5/kojin2.htm

郷土・筑後地方の謎に迫る(4)古代中国海人の「日月星辰の幡」の伝承 現在の福岡県みやま市瀬高町太神地区の神社やお宮には今なお伝統的祭事が伝えられているという。

そしてそ地区の祭事には「日月星辰(じつげつせいしん)の幡」が使われているという。

日月星辰の幡

「太神」という名前から、日本最古の皇別氏族の「多氏おおうじ」が容易に連想される。 この旗に書かれている、太陽、月の絵から「有明」という名前が出てきたのではないかと思われる。

有明とは「太陽と月がある」朝という意味だからだ。

そして、この「日月星辰の幡」のモチーフが「日月五峰図」の元になったと推測される。

日月五峰図

日月五峰図  

時代から見ても「日月星辰の幡」が先である。

後年、五島を本拠地にする倭寇「王直」は、この「日月五峰図」の五峰を上につけ、五峰王直と呼んでいた。

五島の名前の始まりである。

五峰王直の本拠地だから「五島」である。  

話を戻す。  

つまり、「日月星辰の幡」を掲げる「有明族」がいたので、「有明沖」と呼ばれていたのだ。 その有明海の沿岸に、筑紫の君一族がいた。

その中の磐井が反乱を起こした。

有名な磐井の乱である。

記紀にも載っているが、その扱いは違いが多い。

日本書紀では反乱と書いており、古事記では「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」、筑後国風土記には「官軍が急に攻めてきた」という表現が使われている。

この事件の意味には様々な説があり、ここでの解説は割愛する。

ただ、筑紫の君がいて、筑紫地域を治めていたことは事実である。

「君」とは中国や朝鮮の王朝で見られた皇族・王族または功臣の称号のことを言う。

日本の国家「君が代」の「君」である。

ただ「君」がついているだけでは大陸系とは断言できないが、大和王権と違う体系なのは間違いない。

他説には筑紫王朝と言う人もいる。

その軍事力は有明海を掌握していた。

ナンバー1の勢力である。  

筑紫の君の縁戚関係にあったと思われるナンバー2の存在が熊本地方にあった。

「火の君」という。

熊本の氷川流域に古代の多氏の流れを汲む「火君(ひのきみ)」は、火の国の名前の元になった勢力である。

現在でも熊本には「火の君文化ホール」といった施設がある。  

火の君文化ホールバス停

火の君文化センターバス停

筑紫の君と火の君は手を組んで、有明海を統制していたのだが、地図を見てみれば長崎 島原側にも拠点がないと、バランスがとれない。

長崎島原側には、「君」という存在は記録されていない。

しかし、肥前風土記に高来津座(たかきつくら)という土着神(豪族)がいたことが書かれている。  

津座を(つくら)と読む理由は、磐座(いわくら)に準ずる表現だからだ。

島原半島には雲仙岳があり、山岳信仰が古くから存在している。

景行天皇の記述には「僕者此山神名高來津座 聞天皇使之來 奉迎而巳 因曰高来郡」とある。

高來津座とは文字のとおり山の神と書かれているのだ。

しかし、津座という表現が気になる。

津は現在でも港である。

長崎にも古来の地名として喜々津というのがあり、各地にもつけられている。

景行天皇の記述に反するが、高來津という港の豪族といったほうが自然である。

筑紫の君の磐井という名前の「磐」の字は「磐座」からきたのではないかと思う。

島原の高來津座。

同じ文字はないが意味合いはよく似ている。

縁戚関係か上下の関係があったと推測したい。  

筑紫の君と火の君、そして高來津座。

この点を結ぶ三角形で、ほぼ完全に有明海を制御できるのだ。

有明海は最重要水域で、5世紀後半から6世紀初頭にかけての対朝鮮交渉の中心地出会ったのは事実である。  

磐井の乱(いわいのらん)は、527年だが、この事件の結果、筑紫は宗像族に押さえつけられていき、火の国は大和勢力と結びつき、勢力を固めていった。  

島原に国見という地名がある。

島原に神代という地名がある。今は「こうじろ」と読む。

熊本に渡るフェリー乗り場は、多比良港という。

下記の説明の中にも高良があり、佐賀の神代(くましろ)氏と関係が有りそうである。

神代氏は佐賀の豪族の名前であり、昔、筑後一宮の高良神社に奉仕しており、以後武士化していった一族である。筑後の有力国人たちの勢力に負けて、島原に移り住んだという。

このあたりを国見町と呼ぶのだが、国見という地名は全国にあり、天皇や地方の長(おさ)が高い所に登って、国の地勢、景色や人民の生活状態を望み見ることをいう。

しかし、島原のこの地域は有明海は良く見えるのだが、山の方は雲仙岳がそびえており、国見と言う名前にしっくりしなかったが、雲仙、島原に有明海警護のために筑後や熊本、火の国の武人たちが入り込んでいるとしたら、国見の国というのは筑後だったり、火の国だったのかもしれない。  

島原城から見る熊本。すぐ目の前のように見える

島原城から見る熊本。すぐ目の前のように見える

また、守備範囲をいえば橘湾の長崎半島までが守備範囲だったと思われる。

長崎半島の最西端、野母崎の事を当初から肥(火、日)の御崎と呼ばれていた。

ここに、熊本火の君が管轄する見張り台があったのだ。  

拠点図

朝鮮半島が落ち着いていた頃は貿易も盛んだったと思われるが、高句麗、新羅と朝鮮半島が戦乱の様を呈してくると、日本の九州にさまざまな海賊たちが出没してくるようになる。  

新羅の入寇(しらぎのにゅうこう)といわれる国家的な海賊行為が九州北部で繰り返されている。
新羅の入寇

新羅の入寇


893年と894年に「寛平の韓寇」 熊本、長崎、壱岐、対馬にかけての入寇とその征伐の記録が残っている。
この頃の新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、大規模な略奪による飢饉の打破を強行。
これまでの新羅の入寇以来、最大規模の侵略となる。
その全容は大小の船100艘、乗員2500、指揮を執る将軍は3人。
これらを迎え討ったのは、対馬守・文屋 善友で手勢僅か数百の軍勢で、雨のように射られ逃げていく賊を追撃し、220人を射殺した。また、船11、太刀50、桙1000、弓胡(やなぐい)各110、盾312に-ものぼる莫大な兵器をうばい、奮戦撃破した。

893年
5月11日大宰府は新羅の賊を発見。「新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す。又た、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る」という記述がある。

長徳の入寇 長徳三年(997年)、高麗人が、対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。

これ以外の記録に残っているだけでもかなりある。

大和国は、さまざまな外敵のために、九州沿岸部に防人を配置していく。

この事が、大和の国に大きな変化をもたらしていった。  

有明海は昔も今も最重要海域であり、火の国は長崎をも勢力範囲にしていた事は間違いない。