肥前国分割の理由。驚愕の佐賀の歴史
肥前はなぜ長崎と佐賀に別れたのか。
調べていく内に「佐賀は凄い!」と思い書くことにした。
これは謎でも何でもなく、明治政府の政治的決断であった。
明治になると廃藩置県というのが行なわれた。
地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。
最初明治政府は肥前国は全体で一県が妥当と判断したらしい。
県になると、県庁所在地を決めなくてはならない。
県庁がどこに置かれるかが、その後の発展に大きくかかってくる。
長崎は天領であり、国際貿易の拠点となる。
政府は当然、長崎に県庁を置くだろうと佐賀県民は考えた。
その事に大いに反発した。
佐賀の歴史
佐賀県は由緒ある国だった。
『肥前国風土記』に伝えられる、楠の木が生え盛るこの地を指して日本武尊が言った「栄の国」に由来する。(古名の佐嘉という名前に由来する説もある)
佐賀県の江戸時代には佐賀藩と唐津藩に別れていた。
佐賀藩は、勇猛な龍造寺氏の支配が続いたが、その後鍋島氏が藩主となった。
元々、鍋島氏は龍造寺氏の家臣であったため、残っていた龍造寺分家との対立が起きる。
鍋島騒動という名称がある。その対立から「化け猫騒動」という怪談話が出来ている。
鍋島藩には武士道の書「葉隠れ」がある。
「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」と文言は有名である。
かなり極端な文章に、佐賀人の気質が見える。
勉強家で頑固である。
だから、まわりと協調するのを嫌う。
終戦後、ヤミ米を拒否しつづけて栄養失調で裁判官・山口良忠判事は死亡する。
強烈な正義感の結果である。
そんな佐賀の気風なので、肥前が一つの国になり、長崎に県庁が置かれることはプライドが許さなかったのだろう。
同じ肥前でも、長崎人はそんな頑固さは見当らない。
天領だったせいか、のんびりしているし開放的で新しいものが大好きである。
佐賀と長崎が敵対しているわけではないが、一緒になるのは結構大変だと、現在の私でも思う。
難航する廃藩置県
廃藩置県はすんなりといったわけではない。
何度も統廃合を繰り返している。
佐賀県消滅
1874年(明治7年)2月に佐賀の乱がおきる。
江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。
その結果、政府の懲罰として佐賀県は消滅させられ長崎県等へ編入される。
びっくりである。
佐賀人の気風なんだろうなと推測する。
その7年後、現在の県域と一致する佐賀県として復活した。
三潴県(みずまけん)
九州には、久留米県、三池県、柳川県を統合した三潴県(みずまけん)というのがあったらしい。
1871年に筑後国を管轄するために設置された県で、現在の福岡県筑後地方、のちに佐賀県が合併されたが、1876年に廃止されている。
まあ、明治時代初期には色々あったのだ。
なかなかうまくいかなかった理由は、寄せ集めの地域を一つの県にしようとした明治政府の思慮の浅さもあったのだろう。
明治維新に貢献した佐賀藩の独立運動にたいして、政府もほっとくわけにはいかなかったのだろう。
結局、佐賀地域を独立させて佐賀県とした。
佐賀県独立のもう一つの理由として、長崎の事情があった。
日米修好通商条約で開港の対象となった5港を管轄する県の領域をできるだけ狭くおさめる目的があり、肥前を今の形に分割したのだ。
執念の佐賀県成立である。
佐賀県民は凄いなー。
長崎と一緒になんてやれなかったのは当たり前か。
しかし、それまでは肥前という固まりだった。
昔の肥前とはどんな国だったんだろうな。
そう思ってしまう。
しかし、もう佐賀とは一緒にやれないんだろうな。
複雑である。