宗像・沖ノ島不可侵の謎
祝!! 沖ノ島、世界遺産に 勧告を覆し、8資産の一括登録決定 2017/7/9
構成資産は、宗像大社沖津宮(おきつみや)がある沖ノ島と、小屋島(こやじま)、御門柱(みかどばしら)、天狗岩(てんぐいわ)(以上宗像市)の4資産のほか、大島にある中津宮(なかつみや)と沖津宮遥拝(ようはい)所▽本土にある宗像大社辺津宮(へつみや)(同)▽宗像族の墓とされる新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群(福津市)の計8資産。
福岡県宗像市にある「沖ノ島」
「神の島」と呼ばれ、島全体が御神体で、今でも女人禁制の伝統を守っていて、2016年現在「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」として正式版推薦書がフランス・パリのユネスコ世界遺産センターに提出し、受理されている。
この島には宗像大社沖津宮が鎮座している。
宗像大社は日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社で裏伊勢とも呼ばれている格調高い神社である。
沖ノ島は玄界灘の孤島で、日本列島と朝鮮半島との間に位置している。
神の島
沖ノ島の特徴は考古遺跡ながら埋蔵文化財化しておらず、遺構や遺物が千年以上も地表に露出したまま荒らされずに残されている点にある。
要するに国宝が地表にごろごろしていると言われていて「海の正倉院」とも呼ばれている。
この島は、出土した土器を調査した結果、縄文時代前期には漁民らが漁業の基地として使用していたらしい。
沖ノ島で祭祀が始まったのは出土遺物の年代編年から4世紀後半頃と推測される。
この時代から、沖ノ島は「神の島」となり、大和王権にとって重要な島となったと思われる。
高価な財宝がたっぷりある場所である。
これまで盗難に遭っても不思議ではない。
しかし、盗難に遭っておらず、現在に至っている。
また、島での見聞は話すことは出来ないという「お言わずさま」という約束も守られている。
「島内の「一草一木一石」たりとも持ち帰ることも許されない」とか「女人禁制」、「上陸禁止」などのタブーが今でも守られている、神秘の島となっている。
なぜこの孤島が、不可侵の領域になったかは謎である。
日本人は信心深い国民である。
他国と比べて盗難も少なく、規律正しいと言われている。
しかし、孤島に財宝があるとすれば、盗賊団や海賊が餌食にしても不思議ではないと思う。
それが盗難という記録は残っておらず、地表に財宝が散乱し続けたままだという。
この島は特別な島だったのだ。
政治的な背景
沖ノ島は朝鮮半島と日本の間にある島である。
防衛上でも重要なことは明白だ。
この時代の勢力分布は諸説あるので明言はしないが、宗像族と呼ばれる海人の集団と大和王権が絡んでいることは異論がないと思う。
盗掘されなかったというのも、この海域を支配していた宗像族の軍事的背景があったことも間違いではないだろう。
しかし、しかしである。
もっと別な事柄があるから、絶対不可侵な「神宿る島」となったのではないかと推測してしまう。
人が近づかない場所とはどこであろうか。
例えば墓地である。
これは、幽霊を信じていない人でも好んで近寄らない。
沖ノ島には「田心(たごり・タギリ)姫君」が祀られている。
田心(たごり・タギリ)姫ら三女神は天照と素戔男の誓(うけい)の結果から生まれたと言われている。
その田心(たごり・タギリ)姫が怨霊だったという記録がない。
神名の「タキリ」は海上の霧(きり)のこととも、「滾(たぎ)り」(水が激しく流れる)の意で天の安河の早瀬のこととも解釈される。
この女神を単独で祀る神社は少なく、宗像三女神の一柱として各地の宗像神社・厳島神社などで、また、天照大神(あまてらす)と素戔嗚尊(須佐之男命・すさのを)の誓約で生まれた五男三女神とともに各地の八王子神社などで祀られている。
調べてみても、特筆することはない。
いや、逆に不審なのは「解説が少なすぎる」ことである。
国宝級の財宝が納められている島の神様である。
その由緒も、天照とスサノオの子供でもある。
もっと重要視されてもいいはずなのに、単独で祀る神社は少なく、大体セットで祀られているという。
ということは、沖ノ島の重要性と祭神「田心(たごり・タギリ)姫君」との関連は深くないと考えたほうが筋が通る。
絶対不可侵の「沖ノ島」の本当の理由はどこにあるのだろうか。
島が沈む
日本人が怖いものは4つある。
地震・雷・火事・親父である。
「沖ノ島」の本当の恐怖は「地震」ではないだろうか。
「地震」の地殻変動で「島が沈む恐れ」が、不可侵を可能にした最大の理由だと推測する。
「沖ノ島」は大陸との攻防で最大の拠点である。
その時期は4世紀以降であろう。
391年に倭国が高句麗へと出兵した際、北部九州が前線となった時期にあう。
さらに宗像族が朝鮮半島や中国(当時は北魏)との交易に乗り出したのもこの時期とされている。
「沖ノ島」は軍港だった可能性がある。
肝心の祭祀もその当時から開始されているが、社殿すらなかったとされる。
現在の社殿は17世紀半ばに建立されたものである。
いうなれば、軍事的拠点として際重要視され、そこに必勝祈願として祭祀が行なわれたという事だと思われる。
重要な沖ノ島
沖ノ島の重要さはその後も記録に残っている。
■元寇後の1297年(永仁4年)に編まれた『夫木和歌抄』に「うつ波に 鼓の音をうち添えて 唐人よせぬ 沖ノ島守り」と詠まれている。
■1940年(昭和15年)、陸軍は沖ノ島に有効射程20キロの96式2連装15センチカノン砲を4門据え、下関要塞重砲兵連隊が配備され、敵艦船・潜水艦の撃退を任務とした。
■海軍も艦船を探査する防備衛所を置き、戦時中には陸海軍合わせて200人ほどの軍人・兵士が駐屯していた。
古代の宗像族も同じようなことをしたのではないだろうか。
しかしそれだけでは不可侵になりにくい。
古代不可侵となった理由がある。
海底遺跡
それは沖ノ島にある海底遺跡と呼ばれているものである。
北東部の海底岩礁では人工的な階段や道らしい遺跡のような構造も見つかっている。一般に海底遺跡と呼ばれているが、学術的検証は行われておらず正式な遺跡として確定しているわけではない。
この遺跡が人口な物なのか自然のものなのかは現在の段階では不明である。
もし人工物ならば、確実に島が沈んだ証拠になる。
西山(にしやま)断層帯
福岡県宗像市沖ノ島(むなかたしおきのしま)付近から朝倉市にかけて分布する活断層帯がある。
図を見ると沖ノ島は断層帯の端っこになる。
西山(にしやま)断層帯の最新活動時期は約1万3千年前以後、概ね2千年前以前であったと推定されます。平均活動間隔は不明です。
まあ、地震がいつ起こったかというのは海の上だとわからないのはしょうがない。
最近の熊本地震にしても、誰も予測できなかったのは事実である。
しかし九州に地震があったことは記録に残っている。
西暦679年の筑紫地震
天武天皇7年12月中(ユリウス暦679年1月18日 - 2月15日、グレゴリオ暦679年1月21日 - 2月18日の間)に筑紫国を中心に大地震が発生した。地震の発生日は不明である。
巾2丈(約6m)、長さ3000丈余(約10km)の地割れが生成し村々の民家が多数破壊され、また丘が崩れ、その上にあった家は移動したが破壊されることなく家人は丘の崩壊に気付かず、夜明後に知り驚いたという。
684年の南海トラフ巨大地震(白鳳地震)
南海トラフ巨大地震と推定される地震の確実な記録としては最古のものである。白鳳の大地震(はくほうのおおじしん)、白鳳大地震(はくほうおおじしん)、あるいは天武地震(てんむじしん)とも呼ばれる。
記録による土佐や伊予の被害の様相から南海地震と考えられていたため、白鳳南海地震(はくほうなんかいじしん)とも呼ばれてきたが、発掘調査により、ほぼ同時期に東海地震・東南海地震も連動したと推定されている。
地震国日本である。
古代地震は起きなかったと言うほうが非科学的である。
ましてや断層の真上にある島だ。
4世紀以降に地震が起きて、島が少し沈んだとしても不思議ではない。
古代宗像族は沖ノ島を海上の拠点として活用、その為の祭祀をはじめた。
何度か地震が起こり、地殻変動がおき何メートルか島が沈んでいったに違いない。
(もし海底遺跡が人工であれば確定だ)
宗像族は、それ以上の地震がきて、沖ノ島が沈んでしまうことを恐れ、一般人の上陸を禁止し盛大な祭祀を始めた。
それが、絶対不可侵の神宿る島の誕生である。
沖ノ島に宝物が地面の上に散乱しているのは、地震の被害の結果だ。
何度か地震に見舞われて、沖ノ島でのタブーは厳しくなり、捧げ物として宝物儀式は続いたのだろう。
推測の結論
4世紀以降、大陸との抗争や貿易を宗像族は始め、沖ノ島を海上拠点とする。
何度か地震に見舞われ、津波や激しい地盤沈下がおきる。
神の怒りをなだめるために祭祀が豪華に行なわれる。
女人禁制、禊、島内の「一草一木一石」たりとも持ち帰ることは許されない。
これらは、島の神の怒りを買わないために行なったものであり、
島での見聞については「お言わずさま」という事になっている理由は、軍事施設があるからである。
長崎港は戦時中三菱造船所が戦艦武蔵などを作っていた。その時期の長崎市民には強力な統制がしかれていて「お言わずさま」状態になっていた。
信仰の力は大きいが、すべて宗教が原因となっているわけではないと思う。
日本は地震国であり、避けることの出来ない災害に対し、祈ることしか出来ない国であった。
それは現代でも同じだ。
「沖ノ島」のこれほどの神性は希有の事である。
そして、その神性は「地震」という脅威が背後にあったと推測するのである。
祭祀が豪華に行なわれる最中、グラリと地面が揺れる。
祭祀の途中だが、みんなは先を争って島から逃げる。
沖ノ島の特徴は、遺構や遺物が千年以上も地表に露出したまま荒らされずに残されている点にある。
せっかく持ってきた、宝物もその地震の恐怖で、投げ出されているままになる。
島に地震が多発してしまえば、陳列など無駄である。
持ってきて神にささげる宝物は、その恐怖で地面に投げ出され、あちこちに散らばってしまう。
それが、沖ノ島には国宝が地表にごろごろしている理由だ。
「地震」の神の怒りをかうことは最悪の事であり、そのタブーは最強なのだ。
“宗像・沖ノ島不可侵の謎” に対して1件のコメントがあります。