腰抜け幕府をさらけ出した長崎フェートン号事件
フェートン号事件は、文化5年8月(1808年10月)鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。ウィキペディア
鎖国時代の長崎が舞台である。
この事件が、なぜ重要かというと、フランス革命の余波が長崎まで及んだという事と、イギリスを筆頭にロシア、アメリカなどが日本に関わろうとし始めた動きの最初の頃の事件だからである。
フランス革命
フランス革命は別名、資本主義革命(ブルジョア革命)ともいわれる。
それまでヨーロッパは王侯貴族の持ち物だった。それを庶民がひっくり返したのだ。ルイ16世、マリー・アントワネットのギロチンによる処刑が象徴的である。
そして革命によって生まれたフランス第一共和政は、ナポレオン・ボナパルトを世に送り出したのだ。
フランス革命は1787年から1799年までの期間をさす。
鎖国
その時期、日本は江戸時代である。
鎖国という言葉が教科書では使われなくなったという話題があったが、外国との関係を大きく断っていたという事には間違いない。
鎖国のきっかけはキリスト教を締め出すことから始まった。
特に大きな事件は島原の乱である。
この島原の乱は天草島のキリシタン信徒が起した一揆だが、武士も加わっていて日本最大の反乱である。
その結果、スペイン人から持ち込まれたキリスト教の怖さを十分認識した幕府は国を閉じる決断をした。
この時代では武士の力が強く、鉄砲の数は世界一だとも言われ、鎖国を推し進める日本に対して、スペインなどの西洋諸国はちょっかいが出せなかった。
つまり強い軍事力があったので鎖国が出来たのである。
お花畑の日本
しかし、それから200年ほどたった日本は、すっかり海外から取り残されていた。
一番悲しいのは、その事を日本人が気づいていないという事だ。
唯一貿易が許されている中国とオランダから、ある程度の西洋情報は入っていたのだが、リアルな知識ではなかった。
そんな江戸時代後期にイギリスの船が長崎に突然やって来た。
それもオランダの旗を掲げて、長崎港へ侵入してきたのである。
目的は長崎港に停泊しているオランダ船を拿捕する事だった。
結構、無茶な話である。
フランスとイギリス
なぜそんな事をしたかというと、フランスとイギリスの対立にあった。
16世紀中頃までのイギリスは大国スペインに刃が立たなかった。
ところが徐々に力をつけ、1588年にスペインの無敵艦隊を破って以来、海洋帝国としてデビューしている。
その後紆余曲折がありながらもイギリスは1760年代からの産業革命を迎え、一気に国力を増していく。
そしてヨーロッパ勢がアジア進出を始める。
要するに、国の産業をもっと推進するために、アジアやアフリカに目をつけたのである。
ただ、そのやり方は紳士的ではなく、帝国主義と呼ばれるえげつない軍事力による侵略行為だった。
ヨーロッパがアジアの国々を食い物にしようとしている時、イギリスはオランダ・フランスと激しく競い合っていた。
フランスで王侯貴族を倒したフランス革命が起き、ナポレオンがフランスの独裁者となり、フランス革命政府はライバルのイギリスに宣戦布告をする。
この時代オランダはフランスによって占領され、フランスの傀儡となっているので、イギリスはオランダを付け狙っていたのだ。
そして、長崎港まで侵入してきたのである。
それが、このフェートン号事件の真相である。
ヨーロッパ諸国は強盗団と同じで、アジア諸国相手に紳士的なふるまいはしない。
その当時の常識なのだ。これを理解していないと話がわからなくなる。
西洋人はアジア人を野蛮人として扱い、勝手に侵略をしている。
例えばオランダとの競争に破れインドに行ったイギリスは、マンチェスターから安い木綿を持ち込み、何百万人もいたインドの木綿生産者を餓死に追い込んでいる。
さらにインドの木綿工を何万人も集めて、木綿を作れないように手首を切り落としている。
植民地政策と教科書に書かれているが、植民地にした側のやり方はほとんどこんな感じである。
腰抜け日本
そんなイギリスである。
日本の長崎港に、敵であるオランダ国旗を掲げて、日本人を騙し、港に入ってくるなど、その当時のイギリス人はなんともなかったと思われる。
本来なら、戦争になるほどの行為である。
しかしその当時の日本は相手にならないほど腰抜けだったのだ。
欺かれて出向いた長崎奉行所役人,通詞,オランダ商館員を襲って商館員2人を捕らえ,さらにボートを下ろして長崎港内を乗り回し,捕らえたオランダ人を人質として水と食料を要求したとある。(世界大百科事典 第2版の解説)
この狼藉に対して日本は手をくわえて見ていたわけではない。
湾内警備を担当する鍋島藩・福岡藩の両藩にこのイギリス船に対抗するように指令が出た。
鍋島藩といえば葉隠という書物があるくらい硬派の藩だった。
しかし、その時の鍋島藩は、湾内警備の重要性を軽んじていて、金のかかる駐在兵力の10分の1ほどのわずか100名程度しか在番していないことが判明する。
それに驚いた長崎奉行の松平康英は急遽、薩摩藩、熊本藩、久留米藩、大村藩など九州諸藩に応援の出兵を求めた。
しかし兵士が来るまで時間がかかる。
そこで時間を稼ぐためにイギリス船の要求をのみ、食料や飲料水を差し出し、人質にされたオランダ人を引きとる。
だが、ここで疑問がある。
鍋島藩にはそれでも100名ほどの警護役がいたことになる。
相手は軍艦と言えども一艘である。
フェートン号はイギリス海軍のミネルヴァ級38門5等フリゲートとある。
つまり小型高速の軍艦だが、大砲がもついており、当時の日本からすると絶対的な脅威だったのだろう。
これにより、鍋島藩はビビっているし、長崎奉行にしても有効な攻撃など思いつかなかったのだろう。
戦国時代の日本武士なら、小舟に載っても突撃したと思われる。
残念ながらこの時期の武士は勇猛さをなくしていたのだろう。
残念である。
松平康英が急遽応援を、薩摩藩、熊本藩、久留米藩、大村藩など九州諸藩に出兵を求めた。
しかし大村藩が到着したのは次の日の未明であり、フェートン号はさっさと長崎港を出発してしまった。
責任
まず何も出来なかった長崎奉行は切腹
勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹
さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には藩主鍋島斉直に100日の閉門を命じた。
この事件により、イギリスの船は日本に出没し、幕府は1825年に異国船打払令を発令することになる。
ただ幕府が出した打払令が、外国船に有効でない事は明白である。それだけ軍備で遅れを取っていたのだ。
無策の日本
フェートン号事件は1808年に起こり、ペリーの黒船が浦賀にやって来たのは1853年である。
その間50年ほどだが、幕府は外国勢に対してなんの手立ても打っていなかった。
口だけは勇ましいことをいうのだが、太平の世に慣れきっていて行動する実行力が萎えきっていたのだろう。
その後、下級武士を中心とした勢力により明治維新へと日本は怒涛のように流れ込んでいく。
長崎で始まり長崎で終わる
日本の鎖国政策はすべてが悪かったわけではない。
日本文化にとってこの平和な期間はこの上もない有益な時間だった。
しかし、平和は武力で保てていたということを忘れてしまった事が大きな問題だったのだ。
今の日本も同じことが言えるのではないだろうか。
中国による尖閣列島への侵攻や、韓国による竹島への実効支配など、日米安保に頼り切っていたつけが今の時代に出ているのだ。
平和は与えられるものではなく、勝ち取るものだということを日本国民は再認識すべきである。
出典参考 ウィキペディア