なぜ渤海使は語られていないのか
渤海という国が、日本の中世に大きく関わっていたという事を、私は知らなかった。
これは単に私の勉強不足なんだが、いろんな歴史書などを読んでも、あまりスポットライトが当てられていないことも確かである。
教科書にも「渤海」に関して数行しか出ていないという。
なぜだろうか。
そこに、事実以外に何かがあるのかもしれない。
まあ、あまり疑ってかかっても、これ又事実を歪めてしまうかもしれないので、素直に勉強し直すことにした。
渤海
まず渤海という地名を調べる。
中国北部、遼東半島と山東半島の間にある内海状の海域である。現在は中国に面している。
初代国王大祚栄(だい そえい)が、この渤海の沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。
なるほど。
昔の地図で確認すると、かなり大きい国である。
いつ出来たかというと696年である。
その時代の中国は唐だった。朝鮮半島には新羅、伽耶、百済、高句麗の国があった。
7世紀、新羅は唐と同盟を結び百済・高句麗を相次いで滅ぼし、朝鮮半島の大部分を統一した。
日本では文武天皇の時代である。この時代に大宝律令が公布されている。この大宝律令で「日本」という国号定められている。
少し前の時代に、あの白村江の戦い(663年10月)があった。
日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争で日本はボロ負けをしたいくさである。
なぜ負けたかというと、「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という、アバウトで適当な作戦だったからである。
白村江の戦いと並行し、朝鮮半島北部では唐が666年から高句麗へ侵攻しており、3度の攻勢によって668年に滅ぼし安東都護府を置いた。
唐は朝鮮半島を統治下に置こうとしたため、高句麗復興支援を掲げた文武王の下、新羅軍の支援を受けた高句麗軍が唐軍を攻撃して、唐・新羅戦争が開戦する。
この戦いにおいて新羅軍は唐に圧勝し、唐を朝鮮半島から撤退させてしまう。これにより朝鮮半島は新羅が全土を制圧した事になる。
高句麗は敗れた後、高句麗の遺民はツングース系とも言われる靺鞨とともに、大祚栄が建国した渤海国に合流していった。
つまり、渤海国は高句麗人と靺鞨(まつかつ)の国としてスタートしたのだ。
靺鞨(まつかつ)という国の特徴は「人尿で手や顔を洗う」という驚きの風習で中国の史書では「諸夷で最も不潔」と評されている。つまり靺鞨は文化度が低く、高句麗人主導で渤海は成り立っていたと思われる。
まあ中国大陸では驚くような風習を持っている種族は多いので、この程度は許容範囲と思うのだが。
この靺鞨が女真の別名であり、のちの満州民族になる。
女真族という名前だが、女という漢字が入っており不思議な感じがしたのだが、漢人が満州人に「お前たちは何者だ」と問うたところ、「人々(ジュルチン)だ」と答えたことから「女真(ジュルチン)」という漢字を当てられたのだという。
さてここまで調べた時、なんとか族という言葉が多く出てきて、かなり混乱してしまう。
族とは同じ祖先から分かれた血統の者をいう。
私はこの族という感覚がわからない。
日本は単一民族と言われている。地域が離れていても、言語は統一されているので、中国大陸のように顔立ちは同じアジア人なのだが、言葉や風習が違うのである。
言葉が違えば、一緒になるのは難しいと思えるのだが、中国大陸の歴史を見れば、いろんな族が入れ替わりで国を作っている。
理屈はわかるのだが、感覚的に多民族国家というのがよくわからないのだが、日本人にしてみればしょうがないのだろう。
中国の王朝
中国の王朝は、殷・周・秦・漢・隋・唐・宋・元・明・清・中華民国・中華人民共和国である。
各王朝の民族による特徴をまとめようと思ったが、各王朝とも単純化出来ず困った。各王朝とも複雑な成り立ちだからで、単純化しようとしても無理があるのだ。
ただ区分すれば、漢族以外の民族によって支配された王朝を総称して征服王朝という。
征服王朝は遼・金・元・清であり、4王朝のうち中国全土を支配したのは元・清のみだ。
元はモンゴルであり、清は満州族である。元は約100年間、清は300年弱、中国を支配している。
結局、渤海国の靺鞨が、女真となり満州族に繋がり、結果的には清という中国王朝を立ち上げた事になる。
なので中国では渤海を「中国の地方史」と捉えているのだが、韓国では「朝鮮の王朝」と位置づけている。
何故かと言うと、渤海という国は、後の北朝鮮を含んでいるからだ。
「中国の地方史」になってしまうと北朝鮮は中国の地方となってしまうからだ。
この「渤海国帰属論争」は、現在も中国人、韓国人の間で議論されているスリリングな問題なのである。
話を戻す。
朝鮮半島を支配した新羅と唐、そして新しい国、渤海。
これらの国は三つ巴で睨み合っていると言っていいだろう。
つまり渤海は唐と対立しており、同時に新羅の北進を牽制している。この力関係が日本と大きく関わってくる。
さらに渤海は唐の北部にある突厥(とっけつ)と共に、唐を牽制していたのだが、突厥が内戦と東西分裂で弱体していったので困っていた。
そこで唐に対抗するため奈良時代から日本に接触したのだ。
日本海航路
渤海は今の北朝鮮やロシアの領土である。
日本と渤海は日本海でつながっているのだが、この日本海を渡る航路は、弥生時代から存在していたと言われている。
日本海には間宮海峡付近からユーラシア大陸に沿って日本海を南下するリマン海流(寒流)と日本海を北上する暖流の対馬海流がある。
この海流を利用して、大陸と日本は時計と反対周りの航海をしていたようである。
この海路が存在するということは、日本と大陸の関係に強く影響している。
特に裏日本と言われていた地域に、古代王国が誕生する原動力にもなったのである。
なんといっても出雲の存在は大きい。更に越の国など東北地方には、大和と色合いの違う国が存在している。そしてその力は強かったのである。
その理由は鉄の存在である。いち早く中国大陸で作られていた鉄器が伝わっていたのだ。
渤海からの使節団は唐・新羅との対立から日本に軍事協力を求める色彩が強い使節であり、日本側も、渤海が天皇の徳に感化されて来朝した形をとったとして、使節を厚遇した。
720年以降、日本へ使者(渤海使)を34回送り、毛皮などの交易をする。
日本からは遣渤海使を13~15回送り、繊維製品や金・水銀の交易をした。
当初は、軍事同盟としての色合が強い使節であったが、渤海と唐との融和が図られる時代になると文化交流と経済活動を中心とした使節へ変化した。
その交流は926年渤海滅亡時までの200年間継続した。
遣唐使の廃止
その回数は728年から922年までの間、約二百年間に34回の記録が残っている。
遣隋使は4回、遣唐使は16回(他説あり)なので、日本と渤海の関係の深さは極めて大きい。
そして894年、菅原道真が唐の衰退や渡海の危険性を理由に再考を求め、以後廃止された。
その理由は、渤海との交易があったからである。
渤海と日本の関係は朝貢(ちょうこう)貿易の形態だったということが重要である。
朝貢貿易とは中国の前近代的な貿易関係である。
つまり親分子分の関係である。この関係は友好関係を保つにはいいのだが、親分とされた国は多大な出費を払うことになる。
つまり、子分だと言っている渤海国の貢物に対して、その何倍かの価値のあるものを与えなければならない。
これまで、中国大陸との貿易は、中国側が親分だった。
しかし渤海と日本では、日本側が親分になっていたのだ。
この事を考えれば、その当時の日本の立場がはっきりわかってくる。
茂木誠氏の講義で、大唐帝国から見た「東方の大国」というのがある。
その講義の中で阿倍仲麻呂という日本人の話がある。
阿倍 仲麻呂(あべのなかまろ)は奈良時代の遣唐留学生で、唐で国家の試験に合格し唐朝において諸官を歴任して高官に登った人物で、皇帝の側近になっていた時期の話がある。
正月の宴の席次争い
楊貴妃の旦那さまである玄宗皇帝が正月の祝の宴をする時に席次争いが起こった。
これは遣唐副使であった大伴古麻呂(おおとものこまろ)が中国に対して大クレームを付けたのだ。
当時の席次は東西に分かれていて、東の席には1席、新羅 2席、大食(イスラム帝国)。西の席には1席、吐蕃(チベット) 2席、日本だった。
これに大伴宿禰古麻呂が噛み付いた。
「日本は今も昔も新羅から朝貢を受けてきた国であり、その日本が新羅よりも下の席次というのは正義を欠いている。」として激しく抗議し、結果、新羅の席と日本の席を入れ替えさせている。
この事は玄宗皇帝の側近になっていた阿倍 仲麻呂が影で動いていたと言われている。
これらのことを考えれば、新羅を日本も唐も下に見ていたということである。
広開土王碑に「新羅は高句麗の属民であったが、倭が391年に百残・加羅・新羅を臣民となした」とあり、上代の時期に日本の属国になっていたことが判る。
また中国の『隋書』にも、「新羅・百済は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、ならびにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。」という記述があり朝貢関係があったことをうかがわせる。
事実、752年(天平勝宝4年)新羅王子金泰廉ら700余名の新羅使が来日し、日本へ朝貢した。この使節団は、奈良の大仏の塗金用に大量の金を貢いだと推定されている。王子による朝貢であり、新羅は日本に服属した形となった。
日本に従属し朝貢を行った意図は、唐・渤海との関係を含む国際情勢を考慮し、緊張していた両国関係の緊張緩和を図ったという側面と交易による実利重視という側面があると見られている。
このあたりが複雑なのだ。
敵対しているかと思えば、友好関係を結んだりしている。
特に朝鮮半島の国々の信念のなさは、昔から同じなのである。
東の大国、日本
渤海と日本の関係を見れば、その当時の日本のポジションがわかる。
今までの日本史の教科書では、1番は中国、2番目が朝鮮半島、そして3番目が日本となっていたように教えられていた。
ところが、実際では2番目が日本で、いろんな事実で当時の日本の国力の高さがよくわかる。
日本が隋や唐を参考にして、国造りを進めたことは確かである。
しかし、朝鮮半島の国々との力関係は日本が優位だったのである。
こんな世界情勢を知れば、遣唐使をやめたことや渤海との200年にも渡る朝貢貿易関係も素直に理解できるのだ。
問題なのは日本の先生たちが、この事をほとんど口にしていない事にある。
これは大問題と言ってもいいだろう。
継体天皇
こんな歴史を知れば、あの継体天皇の事も腑に落ちる。
継体天皇は500年位の天皇である。名を男大迹王(をほどのおおきみ)という。
25代、悪名高い武烈天皇は後嗣を残さずして亡くなあった後、15代応神天皇の5世孫であり越前国を治めていた男大迹王が天皇に指名されている。
元来はヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪し、現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする王朝交替説がさかんに唱えられるようになった。
しかし、中国大陸のリマン海流と対馬海流を利用した大陸とのつながりで、越前国が、大和地方とは違う大いなる発展を遂げ、中国の最新技術も身に着けた大いなる国であり、その国の大君だった男大迹王が大和の豪族たちから請われた理由も納得できる。
継体の実績をみれば、百済に対する援軍と領土拡大譲歩を行った見返りに、百済から五経博士を派遣してもらったり(日本になかった重要な統治文化の輸入)、「氏」名の成立。半島で活躍し帰国した首長に冠などを与え評価、また秦氏など渡来人を重用するなどの活躍をしている。
さらに朝鮮半島に渡り、百済の重要人物と交わりを結んで帰国したという説もある。
第26代継体天皇陵と推定される今城塚古墳の全長は190メートル。雄略天皇の後、古墳は小形化しましたが、それが雄略陵と同程度の大きさに戻っています。
まさに王権の復活である。
それも越前が日本海航路の重要な拠点だったからである。
例えば石川県小松市だが、オンドルなど北朝鮮式の住居跡が残っているし、小松という名前も高麗津から来ていると言われている。
さらに秋田美人は色が白く、大柄で彫りの深いタイプの女性が多い。これもまた日本海航路でシベリアなどとの大陸交流が盛んだった秋田地域と北方民族との混血説もあり、また、東北地方がえみしと呼ばれていて、騎馬戦法が得意だったことも関係してくるだろう。
いずれにしても、渤海との交流の再発見が、古代の日本を浮かび上がらしてくれる。
確かに渤海という国は謎であり、記録が少ないのも事実だが、日本との関係ぐらいしっかりと、歴史として語るべきである。
韓国や中国に遠慮して、駄目な日本、弱い日本を強調する日本の歴史教育を、再構築して欲しいと強く感じる。
それはナショナリズムではなく歴史の事実だからである。
“なぜ渤海使は語られていないのか” に対して1件のコメントがあります。