なぜ日本人はきれい好きなのか
現在、武漢コロナウィルスで、世界中が大混乱になっている。
新型コロナウイルスの発生源については、科学界において多くの研究が行われているが、センザンコウとかコウモリなどの説がある。
そして、その感染力は、中国の衛生観念の低さによるものだという見解が、日本でも多く見られた。
私は韓国にしか行ったことがないが、アジア旅行をした人から話を聞けば、その「汚さ」を強調する人が多い。
同じアジアの国なのに、なぜこんなに衛生観念が違うのだろうか。
トイレ事情
中国に行った人から聞いて一番驚くのは、トイレが汚かったという話である。
この話はネットにもたくさん載っているので、ここで紹介するのは避ける。(すごく汚い話ばっかりなので・・)
それでは、お隣の韓国はというと、最近の日本ブームでやってくる韓国人が泊まったホテルで、韓国人がトイレットペーパーを使った後に流さないという事が、さんざん言われている。
これは、韓国のトイレ事情によるもので、現在でも水圧の低いトイレが多いので、そうなっている。
まあ、中国でも、現在都会のホテルでは、世界標準になりつつあるので、どんどん変わっていくことだと思う。中国、韓国を特に非難しているわけではないが、近い国で観光客も多いので、話題になりやすいのだ。
東南アジアに関しても、日本と違う衛生観念を目にして、ドキドキする人も多い。
「水」事情の悪さと、南国である事に加え、発展途上の地域も多く、どうしても、日本の衛生観念と差がある事は、しょうがないだろう。
ただ、日本だけが清潔な国かといえば、そうではない。
昭和30年代の日本では、立小便を電信柱にする人も多く、いたる所に鳥居のマークがあったのを思い出す。
しかし、押しなべて、他国と比べて衛生状態が良好だったと書かれている書も多い。
例えば、江戸の町では汚物が垂れ流し状態にならないよう農村と一体化した巧みな「循環システム」が確立していたとある。
たしかに、日本人には、清潔にしなければいけないという強迫観念に近いものがあるように思う。
掃除
外国旅行者の多くが、日本の町のきれいさに驚いている。
それなら、掃除の時間はというと、 ケルヒャーという会社で、世界9カ国(アメリカ、イギリス、中国、ドイツ、日本、フランス、ブラジル、ポーランド、ロシア)の「掃除に関する意識調査」によれば、最も時間が短い国は日本という結果になったという。
これは、土足で家の中を歩く西洋と、靴を脱ぐ習慣のある日本の違いが大きいのだろう。
世界中を見ても、汚いのが好きな人間はいなくて、国事情が違っていても、それなりの清潔感は、みんな持っている。
一番きれい好きは、ドイツだと言われているので、日本だけがとびぬけてきれい好きだとも言えない。
世界で最も清潔な都市であげられるのが、シンガポール、ドバイ(アラブ首長国連邦)、ミンスク(ベラルーシ)、ウィーン(オーストリア)で、東京も入っている。
これは、現在の話で、奇麗にするということが、観光にとって重要だと、再認識されたからだろう。
ただ、日本だけが違う事がある。
それが、学校に掃除時間がある事だ。
日本以外の国の場合、掃除は掃除を受け持つ人の仕事でなのである。
日本はというと、掃除は教育の一環ととらえられている。
つまり、精神鍛錬の一つとして、掃除を認識しているのだ。
日本の掃除文化の起源
これについての記事がある。
学校で子どもが掃除するのは当たり前ではない-世界の教育をリードする日本の学校清掃 children.publishers.fm 2014年6月号 vol.16 column
https://children.publishers.fm/article/4226/
そこでは、一つ目は日本に昔からある「道」の存在と、仏教の教えと書かれている。
確かに、一理ある。
茶道や華道、柔道、剣道などの文化がある私たちは、清潔さや潔さを追求することに、違和感を覚えないのは、文化として根付いているのだろう。
しかし、茶道などは千利休が完成させた文化で、江戸時代の話である。道の文化は、かなり新しい時期に完成されたものと言えるだろう。
もう一つの仏教なんだが、仏教は知っての通り、日本発祥ではない。
仏教徒多い国ランキングをみれば、第1位 中国、第2位 日本、第3位 タイだ。
なので、仏教のせいだけで、きれい好きとは言えないだろう。
それでは、世界と日本が違う事とは何かと考えると、やはり日本独自の神道が見えてくる。
神道の世界観
日本に根付いた仏教は、神道と合体して、神仏習合の概念を生み出した。
しかし、それ以前の神道も当然ある。
神道は古代より、自然崇拝の多神教である。つまり、生活するモノのすべてに、神が宿り、私たちは、神様や祖先に囲まれて生活している事になるのだ。
神に囲まれて暮らす
神道の特徴に、禊(みそぎ)がある。そして、清めたまえがある。
神社には手水舎があり、参拝では柏手を音をたたて叩き、邪気を払う。つまり、清めることが神の意志にかなうのである。
この清いという発想が、心情の部分にも届いており、嘘をつかない、悪い事をしないという道徳まで、浸透している。
なので「お天道様に顔向けができない」「天道様はお見通し」の言葉は、今の日本にも息づいている。
これもまた、神々とともに生きてきた日本人の心根である。
日本で神道が無くならなかった理由
6世紀前半に、日本に仏教を正式に持ち込み、中央集権国家体制の確立を目指したのが、聖徳太子と言われている。
仏教は国家鎮護の道具となり、皇室自ら寺を建てるようになった。
となれば、聖徳太子が、神道を排斥したかというとそうではない。
聖徳太子は敬神の詔を607年に出し、「今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。群臣は心をつくしてよく神祇を拝するように」といっている。
つまり、天皇の存在理由である神道をも、大切にしたといってもいい。
そして「神仏儒習合」というものを考え出したと言われている。(儒とは儒教の事)
「神道を幹とし、仏教を枝として伸ばし、儒教の礼節を茂らせて、現実的な繁栄を達成する。」としたことが、今日の日本教と呼ばれる、日本の信仰の形を作ったともいえるのである。(儒教は、日本の場合、宗教ではなく学問だったので、道徳の一部として残っている)
国を挙げての仏教推進の時代に、神道が日本に残り続けた理由がある。
それが、穢(けが)れの思想である。
神道にとって、死や疫病などは穢れなのである。
そして、「穢れ」は「伝染」するのだ。なので祓わなければならないのだ。
その為に、手や体を水で洗う。
これは、病原体の伝染を予防することと同じなのだ。
世界の宗教にも同じ考えがある。
ヒンドゥー教
ヒンドゥー教徒の多くは1日の始まりに、寺院の貯水池や川で沐浴を行う。あるいは毎日仕事を終えた後1時間ほど時間をかけて全身を洗いきよめる。
ヒンドゥー教徒の多くは1日の始まりに、寺院の貯水池や川で沐浴を行う。あるいは毎日仕事を終えた後1時間ほど時間をかけて全身を洗いきよめる。
ユダヤ教
全身を水に浸し潔める。
全身を水に浸し潔める。
イスラム教
沐浴をグスルと呼び、男女を問わず精液の出た後、出産後、巡礼の衣を着用する前などに行うことが義務付けられている。
沐浴をグスルと呼び、男女を問わず精液の出た後、出産後、巡礼の衣を着用する前などに行うことが義務付けられている。
これらの宗教が生き延びて、定着したのは、この禊により、実質的な疫病を防止してきた実績があるからだと思う。
世界の歴史は、疫病の歴史といってもいい。
天然痘やペスト、チフスなど病原菌の存在を知らなかった昔でも、手や体を洗う事で、感染を防いだのである。
だから、神を信じたのだ。
宗教儀式が、衛生行為(「生」を「まもる」)だったのだ。
穢(けが)れ
さらに神道は死や血を穢れとする。なので、葬式などは各家で行う。仏教では神道のようには死を穢れとみなさない。お通夜があったりもする。
しかし、死が疫病によってもたらせられたものならば、死体は病原菌の巣であり、穢れだった。
だから、遠ざけるのである。
さらに、穢れは死・疫病・出産・月経、犯罪等によって穢れた状態の人は祭事に携ることや、宮廷においては朝参、狩猟者・炭焼などでは山に入ることなど、共同体への参加が禁じられた。
そして、穢れは禊(みそぎ)や祓(はらえ)によって浄化できると論理づけられていた。
図らずも、神道の概念が良好な衛生状態を生み出したと言えるだろう。
それと、仏教における人間修行の方法として、掃除が入っている事も、重要である。
これは、たぶん偶然ではない。
宗教が本能的に取り込んだ、人間救済の技だったのだと思う。
世界中に宗教があり、その衛生の技があるのだが、日本の場合だけ、きれい好きと言われる国民になったのはなぜだろうか。
それはやはり島国で、他国に征服されたことが一度もなかった事だろう。
アジア大陸の中国は、いくつもの王朝が興亡を繰り返している。そのたびに、その国が持っているものすべてを滅ぼしていくのが常だった。
お隣の朝鮮半島も、同じように国同士が争っており、さらに中国王朝の支配を受けて生き延びてきている。
これらの国の事を思えば、日本国の万世一系と言われる天皇家の2000年にも及ぶ長い歴史と文化は、途切れることなく続いてきている事は、世界史上、稀にみることだからだ。
また、仏教が日本にやって来た時に、二つの宗教を合体させた、神仏習合という離れ業が、日本独特の世界観をもたらし続けたと思う。
これにより、神道の概念による清潔さと、仏教の人間修行の方法としての掃除が、合体することになったのである。
教育の場での掃除
これにより、子供たちの教育の場でも、掃除と清潔さが持ち込まれた。
日本人の識字率について、驚きの声が世界でも上がっているほど、学習意欲は高かった。江戸時代幕末期にはすでに世界一だったといわれている。
これは、学習させる場があったということである。
江戸時代の寺子屋、中世の寺院教育など、学校があったのである。
学校といえば、掃除がつきものである。
つまり、日本国では伝統的に児童・生徒による掃除が行われてきたのである。
奴隷制度
欧米や中東諸国では児童・生徒が掃除を行わない国がほとんどである。
掃除は、掃除を仕事にしている人たちの職域と考えているという。
そういう国と奴隷制度のあった国の分布が、重なることを思えば、掃除は奴隷の仕事だったと解釈されるのだ。
日本には、過酷な奴隷の歴史がない。
こう書くと、いや士農工商や非人なんていうものがあったじゃないかと、すぐ反論が来るけど、ヨーロッパなどの奴隷制度と比べての話である。
この事も、日本の掃除文化が廃れなかったことの一つである。
称賛される文化
シンガポールの教育省は、2016年に「日本や台湾にならって学校清掃を導入した」と発表した。
サッカーW杯で、日本のサポーターが試合後のごみ拾いをした事が、世界から称賛されている。
日本へ来た外国人観光客が、町の奇麗さに目を見張っているという記事が頻繁に出ている。
いずれにしても、日本人としては、なんかうれしくなってくる話である。
そして、その清潔観が、疫病の蔓延阻止にも効果があるのである。
だが、「行き過ぎた清潔志向が日本人の免疫力を低下させた」という警鐘もある。
皮肉なのだが、雑菌や適度なばい菌は、人間に耐性をつけるために必要なのだ。
今後の日本の課題であることは、間違いない。