中国の疫病が古代日本を襲った 崇神天皇と邪馬台国の興亡
この話は
感染症の世界史02 中国仏教と日本神道の起源
もぎせかチャンネル
https://youtu.be/1icr-WogIB4
の講義の内容をもとに、私の感想として書いている。
現在(2020/2)、中国では武漢肺炎が猛威を振い、感染者が日本及び世界中に発生、その不気味さに世界中が恐れおののいている状況である。
もともと中国は、その国土の大きさと生活習慣で、古代から現在まで疫病の歴史は続いていた。
それは仕方ないのだが、中国の疫病が、日本に移ってきて、古代日本の歴史に大きくかかわっているかもしれないという、推論が今回の話である。
疫病の流行
まず話は中国から始まる。
3世紀に興った晋(王朝)という国がある。
司馬炎が魏の最後の元帝から禅譲を受けて建国した国で、280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。
この時代の疫病についての詳しい解説はネットにはなかったが、
ただ、「統一の5年前に洛陽で疫病が流行した際に司馬炎も重病に倒れた。」
太康5年(284年)以降は天災が相次ぎ、日食もしばしば起きて人心は荒廃した。
という記述がウィキペディアにあった。
この時代に、はやった中国の疫病の猛威はすさまじく、大勢の民衆が死んだという。
そんな社会不安が、異教だった仏教の台頭につながっている。 宗教が必要とされるのは、やはり人心が荒廃した時である。
中国は道教、儒教がメインなのだが、ここに異教である仏教が登場する背景には、戦乱と疫病が背景にあったのである。
実は日本もそうで、朝鮮との交流が増えて、仏教伝来と時を同じくして痘瘡が持ち込まれ、日本最初の疫病大流行となったとある。
これに対抗したのが神道派の物部氏で、渡来系仏教派、曽我氏との対立が起こる。その背景には、朝鮮から持ち込まれた痘瘡(天然痘)が原因だったのだ。
中国の疫病の為、晋(西晋)では人口が極端に減り、このせいで、周りの異民族を呼び込むことになる。五胡十六国時代の始まりである。
この後、晋(西晋)は分裂して、東晋(とうしん)が江南に建てられることになる。
ここまでが中国の話である。
日本での疫病
この西晋の疫病がはやった時期、年代は定かではないが、3世紀後半ごろに実在したとされている崇神天皇の時代だとされる。
記録では、この時代、日本も疫病が流行して人口の半ばが失われたとある。
最終的には、疫病は収まったのだが、同じ時代に、中国と日本で疫病がはやって、大勢の人間が死んだことに繋がりはないだろうか。
もぎ先生は、「これは妄想だけど」と断っているが、現在の状況を見れば、あながち偶然とも思えないのだ。
さらに神武東征も、中国の事象の力が玉突きのように朝鮮半島から九州にやって来て、神武天皇が東征したという可能性も述べている。
つまり、ビリヤード(玉突き)のように、疫病は恐れを呼び、人々が移動する事で、バタフライエフェクトのように、神武東征が起きたという事である。
それって考えすぎだと、笑う人もいるけど、現実の今の社会を見ると、大いに信ぴょう性があると思う。
空白の4世紀
3世紀は、崇神天皇の話とは別に、邪馬台国も現存していた。
中国の『魏志倭人伝』から推測すると、卑弥呼は242年~248年に死んだとされている。
邪馬台国は、中国の魏・晋との外交が盛んで、「魏志倭人伝」には、帯方郡(朝鮮半島の中西部に置かれた地方拠点、植民地)を通じた邪馬台国と魏との交渉が記録されている。
3世紀半ばの壹與の朝貢(266年)を最後に、倭の記述はなくなり、次に記録が出てくるのは、413年の倭の五王の王讃による朝貢である。
つまり、150年間、倭の記録はなくなっている。「空白の4世紀」と言われるゆえんである。
先述した、中国の記録を付け足して再度記する。
222年に魏は3方向から呉を攻め、呉を苦しめたが、疫病が流行したため退却した。
統一の5年前(275年)に洛陽で疫病が流行した際に司馬炎も重病に倒れた。
太康5年(284年)以降は天災が相次ぎ、日食もしばしば起きて人心は荒廃した。
296年漢中一帯で大飢饉が起き、中国各地で河川が氾濫、疫病が流行し、農民は土地を捨て流民化した。
これらの事が中国でおこっている。そして、邪馬台国はかなり密度に、魏と西晋に密着をしている。
日本では、
三世紀後半、崇神天皇の時代に疫病が流行して人口の半ばが失われた。(日本書紀)
240年から249年に卑弥呼死亡。(他説はあるがほぼこの年代)これ以降、男王
が治めるが、駄目だったようで、266年より前に台与が邪馬台国の女王になった。(中国王朝の記録)
である。
これは私の妄想だが、中国でおこった疫病が、朝鮮半島経由で日本にやって来たこともありうると思った。
さらに、「魏志倭人伝」の邪馬台国は、中国の魏・晋との外交が盛んだったので、疫病を招き入れた可能性もある。
そのせいで、卑弥呼は台与と交代をしなければならなかった。
さらに、邪馬台国連合はこの疫病のせいで分解したのかもしれないとも思う。
この古代の疫病については歴史の解説には載っていなく、病気の正体も不明なので、憶測するしかないのだが、東洋史に与えた影響は間違いないだろう。
渡来人が持ち込んだ結核
さらに日本でも、古代の病気の事がわかっている。
縄文時代の遺跡出土の人骨からは、結核痕跡が確認されていないので、現在のところ、日本列島における結核はアジア大陸から渡来した人びとによってもたらされたものと考えられている。
中国大陸での戦乱で、難民が日本にやって来たのが、弥生人だと私は思っているのだが、「5000年前の初期稲作農耕民は結核症を患っていた」という表題の鳥取大学医学部の論文もある。
また、加藤茂孝氏の論文
弥生時代の時代の韓国・日本の遺跡の人骨に見られる結核の広がりは、中国の春秋・戦国時代(BC770 ~BC221 年)の混乱を避けて大量の難民が南(ベトナム)北(朝鮮半島)に移動した時期と一致する。つまり、この時代に東アジアで激しい人口移動があったことの反映であると思われる。第3回「結核」-化石人骨から国民病、そして未だに
上記で書かれている通り、弥生人たちは、病気を持ってきたのである。
日本の縄文人たちは、その病気を恐れ、不用意に接近しなかった。だから争いは起こらなかったのだろう。
影響を受ける日本
日本の様々な事が、渡来人が持ち込んだ病気に関係しているという、発想は重要である。
つまり、当たり前だが世界はつながっているのだ。
今回の武漢肺炎も、過去の事と照らし合わせれば、今後の日本に大きくかかわってくる問題だと思う。
今回の病気の結果がまだ不明なので、不用意に結論は出せないのだが、災い転じて福となすを期待したい。
日本上古代のカタカムナ文明についてお聞きしたいのですがよろしく
私も同じようにことを思いました。
下記のプログ始めました。