ウイグル誕生 中央アジア遊牧民の歴史
アジアの歴史は難しい。なじみのない名前や国名が頻繁に出てくるし、占有地域もどんどん変わっていくからだ。
ユーラシア大陸内陸部はとても広い。
北側にロシア、南側に中国やインド、中東からヨーロッパ北部を含む地域で、帯状に広がる草原で、様々な種族が栄えては滅んでいる。
遊牧民族の場合文字を持っていなかったので、彼ら自身の記録はないのだが、古代のギリシア・ローマや中国には中央アジアの記録が残っている。
遊牧民
遊牧民とは移動型の人種である。
日本にはいないタイプなので、遊牧民の考え方を理解するのは難しい。
定住型の民族が多い中で、移動型の民族の数は少ない。だが遊牧民族の戦闘能力はずば抜けていて、古代から中世にかけて歴史に大きなインパクトを残している。
なぜ移動型の民族が誕生したかといえば、その土地に大きく関係してくる。
遊牧民の生活している地域は低い草原の乾燥帯、ツンドラなどおおよそ農耕には向かない厳しい気候である。
その中で生き抜いていくには、その季節ごとに適所を探して移動しなければならないのだ。
だがあてもなくさすらうといったわけではなく、複数の家族ごとに固有の夏営地、冬営地などをもっていることが普通で、例年気候の変動や家畜の状況にあわせながらある程度定まったルートで巡回している。
こんな生活を何百年も続けていれば、社会の仕組みや考え方も、農耕を主とした定住型の人々とは違ってくる。
今回調べた中央ユーラシアの遊牧騎馬民共通の文化的特徴がある。
■実力主義
指導者は、能力のある者が話し合いで選出される
農耕民に比べて女性の地位が高い
能力があれば異民族でも受け入れて厚遇する
男女を問わず騎馬と騎射に優れる、必然的に機動性に富むあり様がそのまま武力に直結している
■人命(人材)の尊重
情報を重視し、勝てない相手とは争わない
実際の戦闘はなるべく行わず、指導者間の交渉で解決する
■非完結の社会
社会の維持に非遊牧世界の技術・製品・税を必要とするため領域内に農耕都市を抱え込む
ウィキペディア
まさに合理的な社会である。
特に、政治・軍事的理由での他集団の配下への統合など、言語や祖先系譜を異にする他集団との融合が頻繁に生じる。
つまり言語や民族の垣根をいとも簡単に乗り越えて、離散習合をするのだ。
この事が、遊牧民の歴史を理解しにくくしている。
現代でこの形態を連想させられるのが、経済人のありようである。
指導者は実力主義で、常に販路を拡大し、企業間で合併などの融合を起こしていく。
情報を重視し、利益優先の体制を常に保っていく姿を見れば、経済人こそ現代の遊牧民だと感じてしまうのだ。
騎馬民族征服王朝説
この説は東洋史学者の江上波夫が言い出したもので、一時期大いに話題になった。
内容は、東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、征服王朝として大和朝廷を立てたという説である。
これにより天皇家は朝鮮系だという話まで持ち上がっていて、現在も信じている人が多いと感じる。
現在はこの学説はほとんど否定されているが、この学説の影響で、進んだ文化が朝鮮半島からやってきたという話を、当たり前のように考えている人たちが増えてしまっているので困ってしまう。
このおとぎ話の反論で面白い話がある。
馬の去勢である。
今回の話に出てくる遊牧民は、中東のスキタイ族、東には匈奴・蒙古族がいるが、彼らは「去勢」という動物管理方法をもっている。
なぜ動物を去勢するかといえば、食肉として活用されていた牛・羊の血統を管理し、臭みのないおいしい食肉を作るためである。
そしてそれは大切な移動手段としての馬にも適応され、馬の管理の容易化や気性の改善をしてコントロールしやすい馬に変えることにあったという。
この去勢だが日本にはない。
まあ、遊牧に適さない土地が多い日本には、遊牧民や騎馬民族が存在しなかったからである。
遊牧民の去勢という施術は人間にも適応されていて、スキタイ系の遊牧民には女王の周りの男は去勢されていたという。
有名なのは中国の宦官という人たちで、この宦官たちは、しばしば権力を握り、王朝の興亡に大きく関与したという。
この去勢が日本に存在しなかったのは、騎馬民族との接点がなかったからだと言われている。
やはり日本は独立独歩の国だったのである。
スキタイ系遊牧民族
紀元前6世紀の中央アジアにはスキタイ系遊牧民族や、イラン系(ペルシア系)のオアシスの農耕民族が住んでいた。
古代より中東や東ヨーロッパには、世界帝国であるアケメネス朝ペルシアが興り、この大帝国に従属したり、戦ったりしている。
紀元前4世紀、マケドニアのアレクサンドロス3世は、中央アジアの国々を制圧し、彼の死後、その広大な領土はギリシア系の後継王朝が支配することとなる。
だが、紀元前2世紀、このギリシア国家はアシオイ,パシアノイ,トカロイ,サカラウロイといった北方の騎馬民族によって滅ぼされる。
これらの国は、中国の記録に残る、月氏、烏孫などとも言われている。
アジアの東側には黄河・長江・遼河文明がすでにスタートしており、エーゲ海回りの国とアジア南部の中国王朝とが、中央アジアの遊牧民たちと接触を繰り返していたのである。
大雑把な流れ
前7世紀の南ロシアでのスキタイ文化
前3世紀以降、そのスキタイの騎馬技術を受け継ぎ中国北辺を脅かした匈奴
中国王朝の興亡に付随して展開される遊牧国家の興亡
モンゴル帝国の成立と発展
遊牧世界のくらしと歴史を知る神奈川世界史教材研究会より
https://teikokushoin.co.jp/journals/history_world/pdf/200604/history_world200604-07-11.pdf
これがモンゴルまでの中央アジア遊牧民の歴史の流れだ。
ただ、わかりにくいのが、その部族の構成人種が多岐にわたっていることである。
例えばスキタイだが、イラン系騎馬民族とある。今の世界地図の感覚だと中東の民族が、なぜ中央アジアへと思ってしまう。
匈奴という部族だが、漢字からのイメージで中国系かなと思っていたが、わかっている範囲だと中国語は話していなかったという。
研究だと多民族国家なので、多分、チュルク系(カザフ人やキルギス人)、モンゴル系(モンゴル人やブリヤート人)、ツングース系(満州族やエベンキ族)の混合だとされている。
こうゆう事が多いので、イメージがつかみにくいのである。
多分、これは日本国に単一民族として暮らしてきた日本人だからだと思う。
遊牧民族国家を理解するには、そのあたりのイメージの柔軟さが必要なのだ。
中国に攻めてきた国々
まず重要なのがスキタイという民族の存在である。
紀元前9世紀から紀元後4世紀にかけて、黒海北岸の草原地帯を支配したイラン系騎馬民族である。
すぐれた馬具・武具・武器を発達させるなど、独自の騎馬遊牧民文化を形成し、ユーラシア各地から中国にまで大きな影響を与えた民族でなのだ。
つまり騎馬民族の元祖である。
このスキタイが紀元前600年以降に、西アジアに進出してきている。
恐ろしく強いのだが、統治能力は粗雑なようで部族で興亡を繰り返している。
スキタイの戦争についてだが、最初に倒した敵の血を飲むとある。また、戦闘で殺した敵兵の首はことごとく王のもとへ持っていき、その数に応じて褒美がもらえるとある。
信仰はギリシャ神話のようで、ヘスティアー(かまどの女神)で、ついでゼウスとゲー(大地の女神)とある。
女性をどこか特別視をしていて、女神に仕える去勢男性たちがいたり、女性達の地位も高かったので、男装した女性戦士も存在したという。
匈奴(きょうど)
このスキタイの騎馬戦闘方法を受け継いだのが、中国史に出てくるのが匈奴(きょうど)である。
匈奴はモンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた(紀元前209年から93年)民族だ。
紀元前318年、匈奴は韓、趙、魏、燕、斉の五国とともに秦を攻撃したが、五国側の惨敗に終わった。
秦(しん)とは、あの始皇帝の秦で、中国の歴史から言えば、夏→殷→周→秦となる。紀元前221年に史上初めて中国全土を統一した国である。
秦の始皇帝は将軍の蒙恬に匈奴を討伐させ、河南の地を占領して匈奴を駆逐するとともに、長城を修築して北方騎馬民族の侵入を防いだ。これが万里の長城である。
最強と言われた匈奴だが、その王国は南北に分裂し、南匈奴が残り、中国の後漢に服属して辺境の守備に当たっている。
匈奴は中国語を話していない事だけははっきりしているが、匈奴の母体になっている民族は確定されていない。
結局、多民族が融合する遊牧民としかわからないのが現状である。
匈奴は文字を持たないため、匈奴自身の記録はない。
衣類は主に動物の毛皮・革製の物とフェルト製の物を着用し、騎馬民族には欠かせない胡服と呼ばれる袴(ズボン)をはいていた。
これに対し、中国側は着物だったので馬には乗れず、馬車に乗って戦っていた。だがこの不利を悟り、趙の武霊王は中国で初めてズボンを兵隊にはかせ騎射を行ったとされている。
匈奴の大首長は「単于」(ぜんう)と呼ばれていた。のちのモンゴルのジンギスハンのハンは、この「単于」がベースになったと言われている。
鮮卑(せんぴ)
匈奴の次に中国に攻め込んだのが鮮卑(せんぴ)である。
紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部に存在した遊牧騎馬民族で五胡十六国時代・南北朝時代には南下して中国に北魏などの王朝を建てた。
近年になって鮮卑語はモンゴル系であるという説が有力となっている。
柔然(じゅうぜん)
柔然は5世紀から6世紀にかけてモンゴル高原を支配した遊牧国家である。
3世紀ごろには鮮卑拓跋部に従属していたが、鮮卑が華北へ移住した後のモンゴル高原で勢力を拡大し、5世紀初めの社崙の時代に高車を服属させてタリム盆地一帯を支配し、拓跋部によって建てられた華北の北魏と対立した。
近年の研究では柔然は辮髪である点等を考慮し、言語もモンゴル語系である可能性が高いとされている。
突厥(とっけつ)
柔然の隷属の下だったが、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国を建て、中央ユーラシアの覇者となる。582年には内紛によって東西に分裂した。
中国の史書には突厥人は匈奴の別種だとある。習俗は老人を賤しみ、壮健な者を貴び、戦で死ぬのを重きとし、病で死ぬのを恥としたという。
この民族の特徴は文字を持っていたことである。東アジアで漢民族以外で、この時期に独自の言葉を持っていたのは、日本(かな文字)と突厥である。
また、東は中国、西は東ローマ帝国,ペルシャと、中央アジアのシルクロードを利用して東西交易を活発に行い、さまざまな文化を取り入れた事も特徴である。
ウイグル
そしてついにウイグルが登場する。
4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族(トルコ民族)とその国家、及びその後裔と称する民族だ。
現代ウイグル人の祖先と仮託されているウイグル人は自らの民族をテュルクと呼び中核集団をウイグルと呼ぶ。
トルコ語のテュルクが日本語の「トルコ」である。
人種的には東部でモンゴロイド、西部でコーカソイドと東西で大きく異なるが、人種に関係なくテュルク諸語を母語とする民族は一括してテュルク系民族と定義される。
突厥(とっけつ)が分裂し、一時消滅したが、復活した東突厥を滅ぼしたのがウイグル帝国で、この時点でモンゴル高原の支配者になる。
現在のトルコ共和国
トルコといえば現在は黒海、地中海に接している大きな国である。
だが元は突厥で、最初は中央アジアの北方部族だったのだ。その部族が西に移動していき、11世紀にトルコ系のイスラム王朝をつくる。
しかし、チンギスハーンの孫フラグにより攻撃されるが、分裂して生き残った一族が15世紀に大帝国を打ち立てることになる。
これがオスマン帝国である。
19世紀、衰退を示し始めたオスマン帝国は第一次世界大戦で英仏伊、ギリシャなどの占領下に置かれ、完全に解体される。
だが1919年トルコ独立戦争を起こし、1922年9月、現在の領土を勝ち取り、1924年にオスマン王家のカリフを追放し、近代化を目指すイスラム世界初の政教分離のトルコ共和国を建国している。
この時代中国王朝は唐である。
755年、突厥出身の唐の軍人安禄山が反乱を起こし(安史の乱)、首都長安を占領する。
ウイグル・唐連合軍は洛陽を奪回し8年に及ぶ安史の乱を終結させた。
この時代には唐の西側には吐蕃(とばん・チベット)があった。
この吐蕃(チベット)とウイグルは西域を巡って数十年に渡る戦いを繰り広げる。
そして821年にウイグル、吐蕃(チベット)、唐の間に三国会盟が締結されている。
この辺りがウイグルの絶頂期だ。
しかし、840年ウイグルは内乱とキルギス族の攻撃を受けて、遊牧ウイグル国家は崩壊する。
キルギス族とは中国55少数民族のひとつで、キルギスという民族名はロシア語に由来する。
この時代の彼らの風貌は、背が高く、白い肌を持ち、青い目を持つと記されていた。これらのことから、キルギス人の祖先は、コーカソイド(ヨーロッパ人)であると言われている。
国が亡ぶと、ウイグル人はモンゴル高原から別の地域へ拡散し、二つの国を作る。
甘州ウイグル王国と天山ウイグル王国である。
だが11世紀に入ると、甘州ウイグル王国は滅亡してしまう。
天山ウイグル王国のほうだが、モンゴル帝国チンギス・ハーンが興ると、服属し教師的な役目を果たし、ウイグル王家はモンゴル王族に準じる地位を得るまでになる。
そしてモンゴル帝国は崩壊する。
だがモンゴル帝国のチンギス・ハーンの次男チャガタイを祖とし、その子孫が国家の君主として君臨したチャガタイ・ハン国がある。
だが、この国も分裂をして東チャガタイ・ハンとなり、天山ウイグル王国を支配する。
この時期に、ウイグルはマニ教からイスラム化してしまう。
1637年現在のジュンガル盆地を中心とする地域に遊牧民オイラトが築き上げた遊牧帝国ジュンガルが興る。
そしてウイグルはジュンガル帝国の支配下に置かれる。
ジュンガル帝国と中国の清は争うが、1755年清はモンゴル軍と満州軍を動員して侵攻を開始する。
そして、清はジュンガル帝国を滅ぼしてしまう。
清朝政府はチベット・モンゴル・ウイグル(新疆)を支配するのだが、清王朝は少数の満州族なので、多数を占める漢民族に対抗するために、「柔構造」と呼ばれる支配関係をとっている。
この時期に「ムスリムの土地」を意味する「回疆」また「失った土地を取り戻す」を意味する「新疆(しんきょう)」とウイグルは呼ばれた。
19世紀後半には、弱体化しつつある清朝統治に対する不満から回民(ムスリム)による中国全土での回民蜂起が発生する。
そして新疆にヤクブ・ベク政権が誕生する。
ヤクブ・ベクによって新疆の大半が清から離脱し、旧清朝領中央アジアの大半を支配するムスリム政権を樹立した。
ヤクブ・ベク政権は西洋とロシアに挟まれ、両国の緩衝地帯となり、イギリスやロシアと通商条約を結んでいる。
しかし清は、再度新疆(ウイグル)に攻め入り、直接支配を始める。
清がほろび中華民国となるが、この中華民国は過酷な統治を始める。
それに反発した新疆は、大規模な反乱を起こす。これは鎮圧されるが、翌年再度反乱を起こすが、これもまた鎮圧されてしまっている。
だがついに1933年東トルキスタン・イスラム共和国を建国する。
この国は漢人官僚を一掃し、トルコ語系の住民が構成員とされた。
東トルキスタン・イスラム共和国はソ連に援助を頼むが、結局中国軍に壊滅させられてしまう。
しかし第二次世界大戦の混乱に乗じて東トルキスタン共和国を建国させた。
中華民国は、毛沢東の中華人民共和国に追い出され、政権は変わり、今度は人民解放軍が攻め入り、ついに占領されてしまった。
そして、1955年新疆ウイグル自治区が誕生して、現在に至っている。
まとめ
ウイグルが登場するまでに、中央アジアには様々な国が登場する。
スキタイ
↓
匈奴
↓
鮮卑(せんぴ)
↓
柔然(じゅうぜん)
↓
突厥(とっけつ)
↓
ウイグル
この後にもモンゴル帝国、ジュンガルである。もちろんこれ以外にもチベットなどがあるが、大体の流れとしてはこうだと思う。
現在は新疆ウイグルと日本では呼ばれているが、失った土地を取り戻したウイグルという意味である。
新疆ウイグル自治区には、ウイグル人のほか、漢族、カザフ族、キルギス族、モンゴル族(本来はオイラト族である)が住んでいる。
ウイグル帝国が出来たのは744年で、日本では奈良時代だ。
840年、ウイグルは内乱とキルギス族の攻撃を受けて、遊牧ウイグル国家は崩壊する。
独立していたのは約100年間だが、モンゴル帝国時代、ジュンガル、清と従属を強いられている。
その後いろいろあったが1933年東トルキスタン・イスラーム共和国、東トルキスタン共和国を建国する。
しかし中華人民共和国に現在占領されている。
これらの歴史を見れば、この新疆ウイグルは古来よりの中国の地ではないことは明らかだし、現在の中国は清の時代の境界線を中国と言っているだけである。
しかし清は満州族の国家で、中国が漢民族というのであれば、漢の時代の領土でなければいけないのである。
だから、ウイグル、チベット、内モンゴル自治区は、はっきりとした占領地なのである。
だが、新疆ウイグルの土地に地下資源が豊富にあることがわかって以来、中華人民共和国はウイグルを執拗に同化しようとしている。
過去の地球の歴史を見れば、愚かな戦争の連続だったが、今やっとまともな社会を作ろうと世界が動き始めている。
そしてその流れを止めてはいけないのだ。
そのことを確認するためにも、過去の歴史をしっかり知ることが重要だと思う。
参考
ウィキペディア、遊牧世界のくらしと歴史を知る神奈川世界史教材研究会、映像授業Try IT、もぎせかチャンネル、ファドのゆっくり解説・・等