天照大神を遠ざけた崇神天皇の決断のわけ

この文章は、崇神天皇を調べているうちに考えたものである。

崇神天皇の解説
即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。ウィキペディア

崇神天皇

崇神天皇はいろんな功績があるが唯一不思議なのは、疫病撲滅の為に、なぜ天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出したのかという事だ。

記録には夢枕の結果に従ったという事だが、私は古代の人でも、そう簡単に占いを真に受けているのではないと思っている。

ましてや聡明な崇神天皇の事である。

いろんな思惑や政治的行動を正当化するために、占いを利用していたと思うのである。

なので天照大神を宮中の外に出したのは、そうしなければならない理由があったからだと推測する。

今回はその理由を考えてみた。

疫病と天照大神

なぜ疫病が発生したかだが、記録にはないが推測できそうな箇所がある。

人民の半数にのぼる疫病死と民百姓の離反を、崇神天皇は、天照大神と倭大国魂神の祟りと思い「天照大神の勢を畏れて、共に住むことが不安になった」という記録がある。

これからいえることは、宮中内の天照大神を特に信仰する特定の人たちにクラスターが発生したかもしれないのだ。

崇神王朝は連合政権だと言われている。となれば派閥があるのは当然である。

そして疫病が出た際、最初に動くのは祭祀をつかさどる者たちだ。

その祭祀部門の人たちは疫病になった人たちに触れたのかもしれない。つまり病人と一番近い距離にいた可能性がある。

その祭祀部門の人たちにクラスターが発生したとも考えられる。

現代の武漢ウィルスも、感染者が多く発生したのは病院関係者だった事を思えば十分考えられるのだ。

朝廷でのクラスターの発生

大和朝廷が出来て、崇神天皇は10代目の天皇になっているが、欠史八代と言われているように、初代の神武天皇から10代とされる崇神までの時間の経過が不明である。

なのでもし記紀に書かれているような時間経過がなくてもっと短い時期なら、つまり神武時代の影響が強く残っていたのなら、朝廷の本格的な基礎はまだ出来上がっていないことになる。

なので、天皇家の一族だけで大和朝廷が構成されているわけではなく、当然、大和地方の様々な豪族も朝廷内にはいるはずである。

そんな組織の中で、天照大神と倭大国魂神を特に信仰している初代天皇派と地元豪族に、特に多く疫病が蔓延したのではないかと推理されるのだ。

なので天照大神が特に注視されたと推測できる。

中国の西晋

西晋の地方行政区分

世界の情勢を見てみよう。

この時代の中国の覇者西晋(265年から316年)からで、強力な疫病が発生していて、それによって人口が半減したという記録がある。

西晋の後は五胡十六国時代と呼ばれ、戦国時代に突入する。

それにより、中国大陸内の人々はかき乱され、戦争時の戦乱により人々は各地に離散していったのである。

そして朝鮮半島北部にも漢の時代から、楽浪郡(紀元前108年から313年)という植民地を持っていたのである。

任那

そして、この時代の朝鮮半島には任那という倭人領があった。任那がいつの時代からあったのかは記録にないのだが、朝鮮半島への倭人進出の記録を調べると、縄文の時代から領有地はあったとされている。

さらに崇神天皇即位65年、任那が使者として蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わしてきたと記録が残っている。

さらに都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)という角が生えた人物の話の中には、阿羅斯等に先帝の名である(御間城<みまき>天皇・崇神天皇)の「みまき」を国名にするよう詔し、これが任那(弥摩那)の語源とされている。

つまり中国と倭国は繋がっていたのである。

なので、渡来人たちも大和朝廷に絡んでいたはずだ。

現在起こっている武漢ウィルスの事を思えば、古代疫病が中国からやってきた事は容易に想像できる。

そして中国から朝鮮半島、そして倭国へ、帰化人が保菌者となって、大和朝廷上層部へ疫病を持ち込んだとも考えられるのである。

なので崇神天皇が「天照大神の勢を畏れて、共に住むことが不安になった」と考えたかもしれないのだ。

しかしこの事だけで、宮中外に天照大神を出すには、動機が弱いと思う。

なにせ、祖先神である。そして天皇家の存在理由でもある。

だが、もう一つの事柄が崇神天皇に決断をさせる。

それは、大和朝廷の危機である。

人口の激減

日本書紀には、「国内に疾疫多くして、民死亡れる者有りて、且大半ぎなむとす」とある。

つまり国内に疫病が流行し、死ぬ者が多く民の半分ほど死んだという事である。

さらに、「民の離反は止まらない」とある。

これは各地で暴動が起きているという風に読める。

大和朝廷は征服王朝である。

崇神天皇の時代でも、長髄彦一族、出雲一族、葛城一族などを謀略と力でねじ伏せた事による緊張感が続いているはずだ。

その中の不満分子が暴動を起こしたのかもしれない。

現在でいえば、アメリカのBLMみたいな騒動が起きたのだと思う。

そんな時の対処は当然鎮圧である。

だが、人口が半分になったという事は、軍事力も半分になったという事である。

鎮圧しようにも兵隊が少なくて、このままでは王朝は崩壊してしまう。

崇神天皇の決断

窮地に陥った崇神天皇の決断は、連合国の勢力を大胆に取り込むことである。

力関係を間違えば、乗っ取られるかもしれない危険はあったと思うが、大胆に敢行したと思われる。

そして、それが天照大神と大物神主の交代につながってくる。

迷信の流布

疫病で混乱している時代である。様々な迷信が飛び交ったはずだ。

その迷信で有力なのは、天皇家の祖先神である天空の神々の事だ。

具体的に言えば太陽と彗星である。

だだ、日本では記録されていないのだが中国にはあった。

まず、中国の記録では疫病の発生と太康5年(284年)以降は天災が相次ぎ、日食もしばしば起きて人心は荒廃したとある。

ハレー彗星

そして、『後漢書』「献帝紀」建安23年条にハレー彗星が218年に観測されている。中国では彗星の尾が太微垣の五帝座の方向を指していたことから、帝位に異変が起こる前兆ととらえられた。

中国で見られたのなら、日本でも見られた可能性が高い。もし見えなくとも中国の伝聞が日本に伝わった可能性もある。

自然現象が、政権を揺るがすことがある。邪馬台国の卑弥呼は日食のせいで殺されたという説があるくらいだ。

天候不良による飢饉、疫病はそんな迷信と表裏一体である。

迷信による離反、疫病による人口の減少。

これらの事を解決する方法を崇神天皇は行動に移す。

それが、天皇家の祖先神である天照大神を宮中の外に出し、国津神の大元である大物主神をまつり、その一族の大田田根子を神官に迎えたのだ。

これにより、回りの豪族を取り込み、迷信を拭い去る方法に出た。

世界には人口不足で傭兵を取り込んだ例はある。例えば中国の西晋である。国が乱れ疫病で人口が減った時、王子たちが争った八王の乱で、匈奴の兵隊を取り込んで戦っている。だが西晋では失敗して結局国は滅んでしまう。

だが、崇神天皇場合この方法は成功したのである。

疫病は蔓延するが、必ず収束に向かう。

偶然だと思うが、収束する時期と崇神天皇の決断と実行の時期が合ったのだろう。

崇神天皇の時代に周辺部の豪族を取り込んだ記録はないが、その後の政策で憶測できる。

まず大物主神を宮中で祭祀させたことである。これにより天孫の天皇家以外の国津神を信仰する部族を取り込んだと思われる。

疫病が収束した後、即位10年四道将軍を派遣して全国を教化すると宣言する。

これは軍事力が増した結果である。

武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)が謀反を起こそうとしていることを察知して防ぐ。

朝廷への求心力が高まり、情報網が整備された結果である。

即位12年、戸口を調査して初めて課役を科した。

これは、地域の豪族が協力しないと実行できない事である。

これらの業績により、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられることになる。

この名は神武天皇と同じ読み方ができるが、神武は「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」であり、崇神は「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と書かれている。

漢字が違うのは業績が違うからである。

神武の始馭天下は、天の下に大和をスタートさせたという意味であり、崇神の御肇国は、大和の国のあり方を決めたという事だと推測する。

 

補足

天照の行方

さて追い出された天照大神は笠縫邑(檜原神社)を最初に、巡礼が始まる。

神社の中に元伊勢(もといせ)と呼ばれるものがある。これは天照大神が伊勢神宮にたどり着くまで祀られていた神社たちである。これは伝説になっていて現在では六十箇所を超える。

さらに、天照大神が祀られている伊勢神宮は、歴代天皇は参拝せず、勅使が参拝している。

これは国津神に遠慮しての事と、天照大神が最上級のタブーだからだろう。

天皇家の三種の神器は、天皇家でも直接見ることはできないとされているのが証でもある。

三貴神

天照大御神、月読命、須佐之男命を三貴神と言い、皇室神道では最上級の神様となっている。

太陽、月、海の神様となっているが、須佐之男命は記紀を読めば海の神様ではない。

普通に思えば、太陽も月も天体なので、須佐之男命も天体であるはずである。

この疑問に答えたのが、漫画『宗像教授伝奇考』星野 之宣で、スサノオは彗星の象徴で、彗星王がスサノオになったという説である。

ハレー彗星かは不明だが、太陽と月以外の天体である可能性は高い。

天体の変化は、不吉であり、不幸の前兆という考えがある。

日食や干ばつ、冷夏による飢饉は太陽の変化である。月は漁に影響する海の満ち潮をつかさどるし、ハレー彗星は王朝交代の不吉な前兆だ。

いずれも、祀らなければいけないが、容易に触れてはいけないタブーなのである。

そのタブーである日食と彗星の出現が現実に起きたのである。

だから、崇神天皇は宮中外に天照大神を出したのだ。

さらに、記紀には天体の記述が極端に少ないこともタブーの証明で、書いてはいけない事象だったのである。

 

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