中国大陸と5千人の倭人たち
光和3年(180)、鮮卑(せんぴ)によって倭人が千余家連れ去られたのは、烏侯秦水(うこうしんすい)で倭人に魚を獲らせるためであった。
この記録は事実である。
鮮卑というのはは古代アジアのモンゴル系(トルコ系とも)に属する遊牧民族である。
そして中国戦国時代から興安嶺の東にいたが、二世紀中葉、遼東から内外モンゴルを含む大統一をする。
その後いろんな国に分かれていった。
烏侯秦水(うこうしんすい)が何処にあるかというと、朝鮮半島の北側、後の満州国の近くである。
そんな場所に「倭人が千余家」というから5000人ほどであろうか、連れ去られるというのは、前代未聞の事だと思える。
しかし、この倭人たちは日本に住んでいた倭人たちではなく、中国大陸のどこかに住んでいた倭人国の倭人たちである。
現在では朝鮮半島ではないかといわれている。
つまり、朝鮮半島に倭国があり、そこから5000人もの人間を、満州の北あたりに連れ去った事になる。
さあそれから、倭人たちはどうなったのだろうか。
残念ながら、何処にも記録が残っていない。
「千余家」もの集団である。
「千余家」といえば、魏志倭人伝には「対馬国は1000余戸が有る」という記述がある。
つまり、一つの国の人口に値する数である。
その後、烏侯秦水(うこうしんすい)で倭人に魚を獲らせることは成功したと書いている。
つまり、鮮卑の食糧問題は解決したのである。
その後、後漢相手に鮮卑は大暴れを続ける。
そして弱小だった鮮卑族に英雄 檀石槐(たんせきかい)が誕生する。
檀石槐(たんせきかい)は、鮮卑族の血を引く子供ではなかったという。
その結果、匈奴の領地を自分たちのものとして、領土を3つに分けて分割統治する。
その後南下をして中国に北魏などの王朝を建てている。
想像を膨らませば、英雄 檀石槐(たんせきかい)は倭人の子供だったのではないだろうか。
檀石槐の子供は英雄ではなかったが、和連という。
和という文字が使われているのも気になるところだ。
また、邪馬台国を訪れた記録は、『三国志』魏志倭人伝という。
倭と魏の関係は続いていき、邪馬台国と友好な関係を続けているのも、どこか因縁めいている。
すべて憶測である。
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5845.html
日本人の遺伝子を調べた地図がある。
これを見ると、朝鮮半島や、鮮卑国の場所、魏の国あたりに似通った遺伝子が散らばっているような気がする。
倭というものは、私たちが思っている以上に、広がりのある世界を持っていたのかもしれない。