モンゴルの歴史 本当の世界史の始まり
天高く馬肥える秋が来た。日本人にはなじみのある文句なのだが、この本当の意味は、アジア大陸の騎馬民族の事を指している。
元になった言葉は、「杜審言(としんげん)」という詩人が書いた詩「蘇味道に贈る」という詩の中の一節で、「雲浄(きよ)くして妖星落ち、秋高くして塞馬(さいば)肥ゆ」だ。
つまり中国人が言った言葉であり、秋になると匈奴(騎馬民族)が馬に乗って、中国の農村地区に略奪にやってくるぞという警告の言葉なのである。
それほど中国人は騎馬民族を恐れている。
モンゴルも騎馬民族なので、中国人から見れば恐怖の代名詞だったのである。
そしてその恐怖は現実になり、モンゴルの元が中国王朝として出来てしまったのだ。
世界史を学ぶ時、その人名と地名になじみがなく、そればかりが気になり全体の流れや登場している人物の心情がほとんど語られていない事で嫌になっていた。
なので高校時代の世界史や地理の授業はほとんど寝ていて、かなりの劣等生だった。
今歴史に興味があり、再勉強なのだが、なるべくわかりやすく覚えようという事で、ネット講義をよく聞くようにしている。
今回は宮脇淳子氏、倉山満氏、トライイット、中田敦彦、もぎせかチャンネルなどわかりやすい講義を聴き、ウィキペディアや世界史のページを参考にして構成した。
モンゴル
モンゴルという名が世界史に登場するのは7世紀あたりからと言われている。
「モンゴル」の意味はモンゴル語でモン(強い・勇猛な)とグル(人)からとも言われている。
有史以来、農業に適さないモンゴル高原では遊牧的牧畜によって生活を送ってきた人たちである。
家屋は組み立て式の移動式住居「ゲル」を用い、家財道具と家畜を連れて、春夏秋冬の季節ごとに移動を行う。
モンゴル高原は標高およそ1000m前後の草原からなり、中央部は乾燥地帯(ゴビ砂漠)で、降水量は少なく、寒暖差の激しい、厳しい気候である。
だからこのモンゴル高原では農業は適してなくて、遊牧民の暮らしを何百年も続けてきたのだ。
そんなモンゴル高原で最初に強大な国を作ったのは匈奴である。
その前にはスキタイという部族がいて、騎馬民族の戦い方の原型をつくり、その後の騎馬民族はスキタイの影響を継承している。
ただスキタイは紀元前900年から400年頃と古いのだが、活動場所は西部ユーラシア大陸でイラン系の遊牧民である。
なので東部ユーラシア大陸となると匈奴になるだろう。
国名に匈奴(きょうど)という漢字が使われているのでアジア人の帝国と勘違いしそうになるが、これは中国側が蔑んでつけた漢字で、中国ではションヌゥと発音する。
匈奴は多民族が集結した国家で、何語を話していたのか不明である。
ただ中国語でなかったことは確かのようだ。この匈奴は、紀元前4世紀頃から5世紀程存在していたという。年月に直すと約1000年間モンゴル高原で活躍していた国である。
この後、鮮卑、柔然、突厥、ウイグル、契丹、党項、女真と様々な国の興亡がある。
チンギスハンが誕生した時の高原の覇者は、女真(ジョシン)族が建国した金(1115年から1234年)という国だ。この金は中国の歴史に載っていなくて、満州の歴史となる。
この国名は女真族が砂金の交易によって栄えたことによる。金は中国の北半分を支配した巨大な国家である。
この時代の日本は平家に勢いがある時代で、1167(仁安2)年に平清盛が太政大臣になっている。
女真と言えば、1019年の刀伊の入寇において対馬、九州の大宰府を襲った「刀伊」は女真系の一部族が主体だったとされている。
ヨーロッパでは第2回と第3回の十字軍の遠征が行なわれ、ビザンツ(東ローマ帝国)やイスラムの文化に接したことで、文化の変化が起き12世紀ルネサンスと呼ばれている時代である。
金を滅亡させて1206年モンゴル帝国が誕生する。
モンゴル
モンゴルは最初小さな部族だったのだが、チンギスハンが巨大な帝国に育て上げる。
モンゴルは初め中国史書において、「室韋(しつい)」という部族集団に属す「蒙兀室韋」という部族名で初登場する。
室韋は、9世紀になってモンゴル高原に進出し始め、10世紀、11世紀には「九姓タタル国」を建国する。
モンゴル部族はその後、数氏族に分かれ、周辺のタタル系部族と抗争を繰り返した。
騎馬民族は遊牧民なので、その縄張り争いで常に抗争をしているのだ。
タタルはチンギスハンによって滅ぼされたが、このタタルの名は、ヨーロッパにおいては騎馬民族の代名詞となる。
例えば「タタールのくびき」という言葉がある。
これはロシア人などの祖先であるルーシ人が、2世紀半にもわたるタタール(モンゴル)人の支配を受けたことを指している。
また、タルタルソースというのがあるが、この語源はタタール族からきている。つまり東ヨーロッパにモンゴル帝国の影響が強烈に残っていることの証である。
チンギスハンのモンゴル統一
チンギスハンは初め、テムジンといい鉄木真と書く。
チンギスハンの生涯を調べると、なじみのない言葉がたくさん出てきて、覚えきれないので、かなり省略して書くことにする。詳しい地名や人名はウィキペディアや歴史書を調べてほしい。
チンギスハンを蒼き狼(あおきおおかみ)と呼び小説にしたのは、日本の井上靖氏である。
この蒼き狼とは、モンゴル人の祖とされる伝説上の獣 ボルテ・チノの事で、正解はGrey Wolf(灰色の狼)である。
実はチンギスハンがオオカミの子孫だという伝説はモンゴルにはない。モンゴルの伝説では、灰色狼の11代後の子孫の未亡人アラン・ゴアが天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子をもうけたとある。
という事で蒼き狼という名前は日本人の創作である。
テムジンはまず自分の部族をまとめ上げ、その後中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服する。
最終的には当時の世界人口の半数以上を統治する人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた人物である。
チンギスハンがなぜこれほどに国を広げたかが、実は不明である。
ただチンギスハンの言葉が残っているので、これから推測してみたい。
人間の最も大きな喜びは、敵を打ち負かし、これを眼前よりはらい、その持っているものを奪い、その身よりの者の顔を涙にぬらし、その馬に乗り、その妻や娘をおのれの腕に抱くことである。
この文を読めば、強者の闘争本能のまま行動したようだ。またその残虐性はまさに魔王のようである。
しかし、「次に来る旅人のために、泉を清く保て」「我が身を治めるなら、我が心から修めよ」という言葉を知れば、非常に冷静で客観視ができる人物とも思う。
まあ、英雄の心などを凡人の私が推し量れないのは当然なのだが、どんなに騎馬民族が強くても、チンギスハン以外の人物では、地球上の過半数の文明国を制覇できなかっただろう。
チンギスハンのやり方は、遊牧騎馬民族の特性を踏襲している。
例えばモンゴル軍は当時の最新鋭の武器をもっていた、千人隊百人隊などと呼ばれる軍のシステムを確立していた、駅伝という交通を作り上げた、部下に対しては公平だった、有能なものはどんどん抜擢をしたなどといったことが挙げられる。
だが一番の特徴はチンギスハンの「カリスマ性」だったと思う。
作り上げた帝国の大きさを考えれば、日本の信長、秀吉、家康を足したような人物だったのかなと思うのだ。
さらにモンゴル帝国は世界史に大きく影響を与えている。
宮脇淳子氏、倉山満氏の世界史の講義を聞けば、世界史はモンゴル帝国から始まったという。
世界4大帝国の中国の明、ムガール帝国、ペルシア帝国、オスマン帝国はすべて、モンゴル帝国の影響を強く受けているという。
言われてみれば確かにそうで、世界史と言えばヨーロッパと思いがちだが、それはヨーロッパの地方史に過ぎない。
本当に世界が連動する世界史となったのはモンゴル帝国の成立からだと言っていいだろう。
モンゴル帝国
遊牧民は血縁関係をとても大事にする。習合離散を繰り返す遊牧民は、婚礼により親戚を増やし結束を固めている。
モンゴル帝国もチンギスハンを頂点に4人の息子が帝国を支えていく。
チンギスハンの死
偉大なチンギスハンは西夏遠征途中の1227年に65歳で死去する。
歴史書によれば数多くの妃たちがいたとされているが、実際は第1位のボルテと第2位クランを大切にしていた。
そして第1位のボルテの間に四男五女を授かっている。
チンギスハンは帝国の後継者を3子のオゴタイに指名する。
モンゴルでは長男が後を継ぐという掟はない。常に能力本位で決めていくのだ。
ちなみに長男はジョチ、次男はチャガタイ、4男はトゥルイである。
長男のジョチだが、チンギスハンは自分の子供ではないと悩んでいたとあるが、宮脇先生によればモンゴル人はそんな事で悩むわけがないと語っている。
帝国の常なのだが、その後継者争いはモンゴル帝国でも例外ではなく、モンゴル帝国は元とハン国(ウルス)に分かれていく。
しかしこれは帝国が分裂したのではなく広大な領土を一族で分割統治する為である。
帝国の構成はチャガタイハン国、キプチャクハン国、イルハン国である。
これらの国は駅伝によって結ばれた経済的一体性を維持していくが、次第に違いがはっきりしてくる。
また、中国の元以外は、イスラーム教圏であったため、支配層であるモンゴル人が現地人と同化していく過程で、国がイスラーム化していく。
結局3ハン国すべてがイスラームとなってしまう。
これはある意味モンゴルと現地の人たちが混血していくことになり、広大なユーラシアにモンゴルの痕跡が残ることになった。
フビライハン
日本に関係があるのはフビライハンで、国名を中国風に元としてモンゴルの中国支配を完成させる。
フビライハンは西方での反乱を鎮圧し、南宋、ベトナムの陳朝・チャンパー、ビルマ、朝鮮の高麗などを服属させ属国とした。
日本では鎌倉時代中期に二度やってきた元寇という事件があった。襲ってきたのは草原の騎馬隊が主流なモンゴル軍ではなく、高麗や征服した民族が主流だったので、日本は打ち負かすことができたのだ。
しかし形とすれば世界最強のモンゴルに勝ったのは世界で日本だけである。
元の衰退と北元の誕生
元帝国で紅巾の乱が起こり朱元璋が元を滅ぼして明を建国したと言われているが、実際は元のモンゴル人の内紛で力を失ったのが事実で、中国の元王朝は滅んだが、モンゴル人は中国を捨てモンゴル高原に戻り、北元という国を作っている。
北元は中国の漢民族地域より北方の一帯を支配する政権として、1368年から1635年まで続いている。
中国の明は北元の事を韃靼(だったん)と呼び、中国史から抹殺をする。
モンゴル帝国はチンギスハンから始まり、男系子孫がモンゴル諸部族全体の最高君主として君臨する時代を北元まで含めることが多い。
北元は、依然としてモンゴル高原の遊牧勢力の君主として強大な軍事力を持っており、明がモンゴル高原に送った北伐軍を撃退している。
だが15世紀前半のモンゴル高原は大いに混乱し、頻繁にハンが入れ替わっている。
最終的に満洲人(女真人)に、元の玉璽(皇帝の印章)を後金のホンタイジに献上し、ホンタイジは満州、漢、モンゴルの3民族の推戴を受ける形式を取って大清皇帝に即位し、この年以降、満州人である清の皇帝がモンゴルのハーンとして君臨することになった。
これによりかつての元(北元)の故地のモンゴルは全て清の支配下に入った。
ボグド・ハーン政権
20世紀に入ると、欧米列強の植民地主義に圧倒され、清朝の衰退が顕著になっていた。
清の実効統治が急速に弱体化すると、外モンゴルの諸王侯はロシア帝国の力を頼って清からの独立を決意した。
この時期は、チベットも同じく清朝からの独立運動を展開している。
政権の後ろ盾であるロシア帝国が中華民国北京政府との関係悪化を懸念し、モンゴル軍の内蒙古からの撤退を要求したため、断る術の無いボグド・ハーン政権は国土統一を目前にして撤収を余儀無くされている。
つまりロシアと中華民国の板挟みが続くことになる。
社会主義への道
1915年、キャフタ条約で中国の宗主権下での外蒙古は自治のみが承認された。
内蒙古でも独立を目指す動きが見られたが、内蒙古の大半の地域が漢民族居住地になっており、中国は内蒙古を手放そうとしなかった。
また、漢民族が主体の内蒙古を併合することで政権の主導権を奪われることを恐れたモンゴル人の思惑もあり(既に内蒙古では、漢族がモンゴル族の5倍近い人口となっており、内蒙古をモンゴル領とした場合、モンゴル族より漢族の数の方が多くなってしまう可能性があった)、内外蒙古の合併は実現しなかった。
民族主義者、社会主義者はモンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)を結成し、独立国家樹立のためロシア帝国の後継国家であるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に援助を求めた。
このあたりから共産主義の勢いが増していく。
新生モンゴルは立憲君主国として出発し、ソビエト連邦の強い影響下で国家運営が行われた。
しかし、1924年に王様が死去するとモンゴル人民政府は君主制を廃止し、政治体制を人民共和国へと変更してモンゴル人民共和国が成立した。
ソビエト連邦に次ぐ世界で2番目の社会主義国となったモンゴルは、その後ソビエト連邦と歩調を合わせ、その衛星国となった。
日本とモンゴル
日本とモンゴルの接点は元寇のみだったが、ノモンハン事件というのもある。
これは1930年代に、満州国を実質的に支配していた大日本帝国と、満州国と国境を接し、モンゴルを衛星国としたソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)のひとつである。
これは満州国軍とモンゴル人民軍の衝突なのだが、実際は、そのバックにある大日本帝国陸軍とソビエト赤軍の戦闘である。
日露戦争で勢いづく日本軍だったが、この戦闘では日本軍は壊滅的な打撃を受けている。
この事件は批判が多い。日本軍は敵を侮り無謀な作戦を実行に移した結果であり、日本陸軍が官僚化して出世のみにこだわった事が原因とされている。
この戦闘では日本軍が圧倒的に不利なのに、ソ連軍は急に手を引く。その理由は、3日後にドイツに続いてソ連がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まったからである。
そんな重大な局面すら、陸軍はわからなかったほど、慢心していたという事である。
この事で長くモンゴルでは日本に対して憎悪、嫌悪感を抱くことになったが、1972年にモンゴルと日本の外交関係が樹立し、それ以降はモンゴルの経済などの発展の援助を日本が行うなどし、関係が良好へと回復して現在に至っている。
元以外のモンゴル国
キプチャクハン国(ロシア)
長男ジョチの領地から始まったキプチャクハン国は南ロシア一帯を支配したがイスラーム化が進み領域内のトルコ系民族が次々と自立していき、1502年に滅亡。
チャガタイハン国(中央アジア)
次男チャガタイが作ったチャガタイハン国は14世紀半ばにイスラーム化するとともに東西に分裂、15世紀以降はカザフ人やウズベク人が台頭して衰退した。
イルハン国(西アジア)
4男トゥルイの子のフラグが作ったイルハン国は、西アジア地域を占拠して自立したが、イスラム世界の在来制度に適合した王朝へと転身。1335年第9代でフラグの血統が途絶え、トルコ=モンゴル系やイラン系の地方政権が各地に割拠抗争を行い、15世紀にはティムール朝に吸収される。
源義経の事
義経=ジンギスカン説は、話とすればとても面白く、私は高木彬光氏の成吉思汗(ジンギスカン)の秘密で大興奮したのを思い出す。
この話はイギリス留学をしていた末松謙澄氏が、ヨーロッパ人がアジアの日本をあまりにも知らないので、ヨーロッパ人が唯一知っているモンゴル帝国の事で、日本人をアピールするために義経再興記という本をイギリスで発表したことによる。
モンゴル人に義経=ジンギスカン説を話すと、モンゴル人は苦笑いをするだけだという。
そりゃ神様みたいなチンギスハンが冒涜されているようなものなので、真剣に聞いてくる日本人の対応に困るはずである。
まとめ
モンゴル帝国は滅んではいない。現在も中国の北部で南北に分かれ健在である。
チンギスハンとその子供たちが興した偉業は世界史の中に確実に根付いている。そしてそれは私が知らなかっただけである。
強力な騎馬民族の行く手を遮ったのは、銃であり科学兵器である。そしてモンゴルの結束が薄れていくのはイスラムの教えかもしれない。
時代の流れと言えばその通りなのだが、モンゴル帝国の話で中央アジアやイスラムの事を何にも知らない自分に気づいただけでも収穫である。
それは今後の歴史の勉強でもっと明らかになるだろう。
“モンゴルの歴史 本当の世界史の始まり” に対して1件のコメントがあります。