チベットの歴史 軍隊を持たなかった悲劇
チベットは中国とインドの中間にある。
あまり縁がないと思っていたが、チベットと日本の関係で面白い話がある。
チベット人と日本人は地理的に遠く離れた地域に住んでいるのだが、東アジアにおけるD系統の平均頻度は、9.60%であるが、チベット(41.31%)、日本(35.08%)、アンダマン島(インド東部のベンガル湾に浮かぶ島々 56.25%)が高い頻度を示している。
D系統の遺伝子を持つ人々はアフリカを出てチベットに到達する。それから、日本とアンダマン島へ渡っていったと考えられている。
ただしチベットと日本の分岐は5万3千年以上の前の話という事で、近縁とは言えず、遠い親戚という事になるだろう。
チベットは富士山級の高原に住む人たちで、高地であるがゆえに孤立した民族であり、日本も海に囲まれた国で、それが民族の純度を高めていたという事である。
チベット高原
チベット高原はユーラシア大陸の中央部に広がる世界最大級の高原で、チベットの領域とほぼ等しいのでチベット=チベット高原と言ってもいい。
その大きさは日本の国土面積の約6倍で、平均4,500メートルの高度の高さの地域に住んでいる。
富士山が現在の計測で3776 mだという事は、富士山より千メール高い場所で暮らしているのだ。
チベットと言えばヒマラヤ山脈であり、世界でもっとも高いエベレスト(チベット語でチョモランマ)、3番目に高いカンチェンジュンガがこの山脈に属している。
チベット高原の生活の基盤は遊牧で、標高4,000から6,000メートルにある草原、ツンドラ、岩場などに生息するヤク(牛の仲間)の遊牧で暮らしを立てている。
またヤクの乳から取ったヤクバター、食肉用としても重要な動物であり、糞は乾かし、燃料 体毛は衣類などの編み物や、テントやロープなどに使っている。
まあ富士山よりも千メートル高い場所で暮らすのだから、酸素が薄くて大変だと思うのだが、チベット人は、ヘモグロビンの生産量を抑制するようにEPAS1が変異しているとされ、これにより、チベット人は高地での生活に適応したとされる。
環境に人間の体が化学的に適応したという事は、それだけ長い間住み続けていたという事だろう。
チベット民族の始まり
チベット民族とはチベット語を話すモンゴロイドである。
高所にあるので日本と同じ、孤立した国家と言ってもいいだろう。
チベット民族は住んでる場所が異常に高地なので、中央アジアのように遊牧民族がまじりあってできるという形ではない。
また、乾燥した気候で、ヒマラヤの南斜面、四川盆地の隣接地域などを除き山の斜面に樹木は乏しいが、河川に沿った水の豊かな平野部では大麦を主とした農耕が行われ、その背後に広がる草原地帯において牧畜が営まれていた。
チベット地域に古代どんな人たちがいたのかを調べると、中国の古代王朝「周(しゅう)」に関しての記録がある。
周(前1046年から前256年)は、中国王朝でいえば、伝説の夏、殷(商)、西周(周)となり中国王朝でいえば3番目で、同じ時代では日本では縄文後期あたり、中東ではダヴィデ王・ソロモン王ヘブライ王国の誕生ぐらいの時代である。
周の西北には漢民族から見た異民族の犬戎(けんじゅう)や狄(てき)が活動していた。前8世紀頃から次第に活発となり、周の西北を侵し始め、犬戎が鎬京を攻撃し、周の幽王を殺害した。ウィキペディア
この犬戎がチベット人ではないかと言われているが定かではない。
その次は中国の秦の後の漢の時代だ。漢は前漢(紀元前206年から8年)と「新」という国を挟み後漢とがある。
この時代の北方には匈奴が陣取り、西には五胡十六国の五胡の一つである羌(きょう)・てい族がいて、この人たちがチベット人だと言われている。
そして中央アジアの東部は、中国王朝と騎馬民族の匈奴、その周辺の国々とのせめぎあいがずーっと続いている。
ただ、この時代までは、チベットには王国はない。
シャンシュン王国
チベット高原には紀元前から643年まで存在したシャンシュン王国があった。
『隋書』に記されている女国とも言われており、そこには山上の城に住まう女王の統べる戸数1万の国で、586年に隋に使者を送ったと書かれているが、確証はない。
女国と呼ばれていたのは女王が統一したからで、これは倭国の邪馬台国と同じである。
遺伝子D系統で、ともに女王国があったというのも不思議な縁を感じてしまった。
このシャンシュン王国ではボン教というのが栄えていた。
ボン教の起源はかなり古く人類最古の文化のひとつに数えられているくらいだ。
内容は古いアニミズム宗教といわれ、漠然とチベットの仏教伝来以前の土着の宗教と理解されている。
ボン教に古くから伝わる神話によると世界の起源は双子である。
宇宙や神、人類などは2つの光線または2つの白い卵と黒い卵から誕生したとされている。
白い卵から神と人間の父であるシバ・サンボ・ベンチが生まれ、天と地の神であるシバ・サンボ・ベンチの子孫が、人間になったものを生み出したとされる。黒い卵からは悪魔と破壊の父が生まれた。
双子の神は世界中にいる。
星座の双子座になったギリシャ神話のポルックスとカストールや同じギリシャ神話のアポロンとアルテミスも双子である。
日本でもイザナミとイザナギは名前が似ているので、双子だと言える。多神教の場合、男と女から人が生まれるので、ごく自然な発想だったのだろう。
日本も二人が協力して神様を生むのだが、火の神様を生んで黄泉の国に行ったイザナミは死者の王となったことを思えば、イザナミは日本の悪魔的要素を持った神様だったのかもしれない。
また、インド起源の仏教では「右繞」(うにょう)すなわち時計回りに巡って行くことを善しとするが、ボン教には「左繞」(さにょう)すなわち左廻りを善しとする。
これもまた日本でも同じで日本は「左を上位、右を下位」としている。
これは中国から伝えられた考えなのだが、肝心の中国では「左上位」と「右上位」がしばしば入れ替わったが、日本では飛鳥以来、現在に至るまで「左上位」である。
現在でもチベット仏教にはボン教の要素を見ることができ、五色の祈りの旗「タルチョ」に書かれている呪文、寺院で香草をたく習慣もボン教に由来していると言われている。
チベット仏教と日本
チベット仏教はかつては一般にラマ教と呼ばれていた。
簡単に言えば、密教的な要素が強い仏教と、土着の宗教であるボン教とが結びついて展開したものである。
日本の仏教は、中国経由で伝わったものだが、空海、最澄によって日本風にアレンジされたものが現在も支持されている。
その際密教もあったのだが、肝心の中国ではすたれてしまい、日本とチベットが密教を保持していると言えるだろう。
高野山に行った際、仏社に五色の幕がかけられているのを見る。これはチベット仏教の「タルチョ」に由来しているものだと直感した。
それとやはり輪廻転生信仰がしっかり根付いているという事だ。
次のダライ・ラマを決める際に、輪廻転生の法則にしたがいダライ・ラマの生まれ変わりを探すという戒律は現在でも行われている。
また輪廻転生を信仰していることで、すべての生き物に対して無意味な殺生を嫌っている。
つまり小さな虫でも、輪廻の思想では昔人間だったかもしれないと思い、優しく接している。
これは日本も同じで、古代伝わってきた仏教のエッセンスを、チベットと日本が共有しているあかしでもあると思う。
まあ顔もよく似てるし、何かしら縁のある国だと感じてしまう。
吐蕃
チベット高原に5世紀頃からホタン方面から入ってきた遊牧民王国がついに誕生する。
テュルク諸語やモンゴル語などではトベットとよび、漢文では吐蕃(トバン)と記される国である。
吐蕃(とばん)は7世紀初めから9世紀中ごろにかけて存続していた。
この国の初代の王がソンツェン・ガンポである。
彼はチベットに初めて仏教を導入した人物である。軍事面でも活躍していて、文武両道の王という雰囲気だ。
この時代の中国は強大な唐である。
この唐と硬軟織り交ぜて対抗している。
吐蕃と唐の間にあった吐谷渾(とよくこん)という鮮卑系の国を手なずけ、唐に対し公主(皇帝の娘)との婚姻を要求したが、唐の太宗(李世民)がそれに応じなかったため唐の国境を攻撃する。
太宗はソンツェン・ガンポの実力を認め、文成公主(皇帝の娘)をチベットに嫁入りさせたのである。
これにより文成公主はチベットの中国文明受容のきっかけを作ったとされている。
さらにソンツェン・ガンポ王はインドからも夫人を迎え、インドの文字をもとにチベット文字を作らせている。この時代よりインドからは仏教が伝わり、土着のボン教と融合しチベット仏教が生まれた。
中国とインドの間にあり、その両方と婚姻関係を結び均衡を保つという手腕はやはり見事だったのだ。
ただ、吐蕃は中国より、かなりインドよりだったのである。
649年にソンツェン・ガンポが死ぬとしばらくして唐と対立するようになったが、文成公主は唐との和親に努め、唐との全面対決を防いで吐蕃の存続を図ったといわれ、チベットでは文成公主の像が尊像として崇拝されているという。
だが8世紀末にはウイグルに圧迫されて次第に孤立し、唐との関係修復を迫られ、821年、両国は長安で講和したする事になる。
モンゴルの登場
唐が滅び五代十国時代を経て宋王朝ができる。その後に元(モンゴル)の登場だ。
モンゴルは中国全域を攻めフビライハンは元という王朝を作った。
この時にウイグルや吐蕃も元の支配を受ける事となる。
13世紀の吐蕃は国内が乱れ、国内はチベット仏教の若き指導者パスパだったが、フビライハンは吐蕃を滅ぼすことはせず、直接チベット高原へ会いにゆき、チベット仏教を保護する方針をとる。
その後交流を深め、元にチベット仏教が広がっていく。さらにパスパは元に、パスパ文字というチベット文字を基にした儀礼用や宗教用に作ったパスパ文字を元朝に送る。
これらからわかるように、モンゴルは吐蕃をとても大事にしていく。
この事がパスパを源流とする高僧たちを堕落させてしまい、チベットではツォンカパによる宗教改革が起きる。
ツォンカパは宗派ゲルク派(黄帽派)の開祖であり、修行者に持戒を求めチベット仏教を堕落から立ち直らせる。
この時代中国地域は、元が北方に戻り、明が中心を支配している。
モンゴル高原に戻った元は、タタールという呼び名に変わったが、明を攻める気概に燃えており、タタールの王アルタイハンは、元の時代と同じようにチベットを保護する。
ダライ・ラマ
その保護となったのはゲルク派(黄帽派)教主であり、タタール(モンゴル)のアルタイハンはその教主に名前を贈る。
それがダライ・ラマである。この名前の意味は海のように偉大な僧侶という意味だ。
5代目のダライ・ラマの時、ポタラ宮殿を作りこの宮殿はこれよりダライ・ラマの城となる。
ラサにあるポタラ宮殿の名前の由来は、サンスクリット語の「ポータラカ」に由来している。
日本では「ポータラカ」が補陀落(ふだらく)と音訳され、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山という信仰に変わる。
例えば、日本でも熊野や日光が補陀落になぞらえられ信仰の対象になっている。なお、日光という地名は、補陀落→二荒(ふたら)→(にこう)→日光という説がある。蛇足だが、カメラのニコンは日光カメラから、キャノンは観音カメラからである。
昭和に流行った「意地悪ばあさん」の青島幸男氏が作詞したクレージーキャッツの歌にホンダラ行進曲というのがある。
その歌詞の「ホンダラダホイホイ」は補陀落の大本、ポータラカからきていると言われている。青島氏らしい皮肉を込めた歌詞だと思う。
ゲルク派は結婚が出来ないので、ダライ・ラマの後継者は輪廻転生の教えに従い、生まれ変わりとされる子供を宮殿に迎え、ダライ・ラマとして教育していくシステムである。
ダライ・ラマが没すると、その遺言や遺体の状況、神降ろしによる託宣、聖なる湖であるラモイ・ラツォ湖の観察、夢占い、何らかの奇跡などを元に僧たちによって次のダライ・ラマが生まれる地方やいくつかの特徴が予言される。
その場所に行って子どもを探し、誕生時の特徴や幼少時の癖などを元にして、その予言に合致する子どもを候補者に選ぶ。
前世の記憶を試して調査する。例えば、先代ゆかりの品物とそうでない品物を同時に見せて、ダライ・ラマの持ち物に愛着を示した時、あるいはその持ち物で先代が行っていたことと同様の癖を行ったりした場合に、その子どもがダライ・ラマの生まれ変わりと認定される。
これによって、チベットの最高指導者は選任され続けてきた。迷信と切り捨てるより、最高の指導者を育てるといった意味で、人間が考えついたある意味素晴らしいシステムである。
清朝
明の後には、満州族が清という中国王朝を興す。
この清朝はチベット仏教を信仰している。
清朝は多民族国家で、国内には多数の漢民族やハルハチャハル、ジュンガル、そしてチベット民族のチベット、青海(ダライ・ラマに従わないチベット族)を内包していた。
清朝はそれらの民族に自治を認める藩部という政策で治めていく。その事により、チベットのダライ・ラマと清朝の皇帝は同じ高さの椅子に座るなど対等な関係を築いている。
ここまでがチベットが平和だった時代である。
中華民国(1912年)
清の次に出てきた、蒋介石の中華民国の登場の際、モンゴル、東トルキスタン(ウイグル)、チベットは独立する。
独立というのは、それを認める国が必要で、ほとんど武力を持っていないチベットはイギリスから独立を認めてもらう。
その時はインドはイギリス領であったので、ソ連の侵攻の緩衝地帯としてチベットの独立を認めていたのである。
北部のモンゴルは北のソ連に国家承認をしてもらうのだが、この時モンゴルはそれに続き世界で2番目の社会主義国となる。
同じように満州国は中華民国の圧力に耐えかね、日本に応援を求め、結局日本が承認することになった。
ところが中華民国はこれらの独立に敵対視をして、清朝時代の領土を中華民国の領土と主張、モンゴルの中の内モンゴル地域に派兵し、モンゴルの半分を自国領とする。
東トルキスタン(ウイグル)も同様である。
第2次世界大戦後、インドは独立をする。今までインドはイギリス領で対ソ連の為にチベットの後ろ盾でいたのだが、インド独立でイギリス軍は撤退してしまう。
その結果、中華民国の後の毛沢東の中華人民共和国は、中国人民解放軍を派遣して、あっという間にチベットを併合する。
チベットは仏教国なので大した軍備はもっていない。イギリスの保護がなくなり軍隊を持っていないチベットは自国を守ることができなくなったのだ。
日本では自衛隊の軍備の拡張に、野党側がミスリードする世論は厳しい。しかし、自国を守るため軍備を持つことは世界の常識である。
ダライ・ラマ14世の平和的交渉も、残念ながら毛沢東には通じなかった。この事を日本人はもっと知るべきである。
共産党は宗教を認めないため、チベットの寺院を片っ端から破壊するので、ダライ・ラマ14世は毛沢東に会いに行くのだが、17か条協定を用意しており、チベットを中国の一部として認めるよう迫ってくる。
苦渋の選択の上、ダライ・ラマはチベット人民とチベット仏教を守るため、この協定にサインする。
これが現在も中華人民共和国がチベットを占領している根拠となっている。
しかしこの後もチベット寺院は破壊され続け、チベット人民は1959年ついに暴動を起こす。
その結果難民となったチベット人はポタラ宮殿に集まるのだが、この事に対し毛沢東はポタラ宮殿に銃器を向け、ダライ・ラマ14世に出てくるように威嚇する。
この時出ていこうとするダライ・ラマ14世は側近にいさめられ、民衆に紛れてインドへ脱出を試み、ヒマラヤの抜ける際、世界に向けてチベット政権の亡命を宣言してインドに逃亡した。
その時ダライ・ラマ24歳である。徒歩でヒマラヤを超え1959年ダライ・ラマ一行がラサからインド国境のゼミタン村へ到着した時の様子の写真が残っている。
それ以降現在に至る。
2020年現在ダライ・ラマ14世は85歳である。ダライ・ラマは生まれ変わりである。ダライ・ラマ14世が亡くなった時、ダライ・ラマ15世が誕生するのだが、この事を中国側がどう利用するのか、世界は見守っている。
チベット人と日本人
チベットの旗は雪山獅子旗という。この国旗をデザインしたのは日本人である。
旗をよく見ればチベットの記号の雪山・唐獅子・日・月と大日本帝国の旭日が描かれているのはその為である。
チベット人には「日本人神話」があるという。「日本人は非常に頭がよく、優しく、そして真摯な仏教徒である」という事と「日本人とチベット人は昔々同じ祖先を共有していた」という事である。
またチベット語の数字の数え方は「チク、ニ、スム、シ、ンガ・・・」、日本語では「いち、に、さん、し、ご・・・」だ。
偶然だがよく似ているので、日本人はチベット語の理解が早いとも言われているので、なおさらチベット人は日本人を親しく思うのだろう。
(文省略 チベット人の「日本人神話」[LHASA・TIBET]https://www.kaze-travel.co.jp/blog/lhasa20070511.html 人類学者 村上 大輔氏)
参考
ウィキペディア 世界史の窓 もぎせかチャンネル トライイット その他多数
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