元寇が失敗した本当の理由 朝鮮半島の恐怖

元寇はモンゴル兵ではなかった。
 
この話を書けば、そんな事知ってるよ、という方が大勢いるだろう。
 
しかし、この話をあえて書いたのは、朝鮮半島系軍隊が、モンゴル軍の先兵となって、日本に来たのではなく、朝鮮半島系が主導で日本を襲ったという説に惹かれたからだ。
 
宮脇淳子先生という方がいる。ネットでは有名だと思うが、東洋史の専門の方で、モンゴルに非常に詳しい方である。
 
その方の話で「元寇の軍はモンゴル軍ではなかった」というのがある。
 
「蒙古襲来」にモンゴル人はいなかった!? 宮脇淳子 倉山満【チャンネルくらら】https://binged.it/31jTlWJ
 

チャンネルくらら

 
面白い番組で、私もよく見ている。
 
そして下記の本がある。
 
 
「世界史のなかの蒙古襲来 モンゴルから見た高麗と日本」
単行本(ソフトカバー) 宮脇 淳子 (著)
 

 
<蒙古襲来>──海を渡ってやって来たのは本当にモンゴル人だったのか!?
【書評】蒙古襲来で攻めてきたのがほぼモンゴル人ではなかった訳
https://www.mag2.com/p/news/406683
 
文永の役、弘安の役は本当に「蒙古襲来」と呼ぶものだったのか。
正解は「蒙古来襲は決してモンゴルが主になって攻めてきたのではなかった」である。
日本討伐を担当したのは「征討行省」が置かれた東の地域の、特に遼陽行省を含め、モンゴルの家来になったもとの女真族と契丹人、金の漢人、そして高麗人らだった。
モンゴルの中央にいた「羊を飼って遊牧する草原の人」であるモンゴル人には、ほとんど関係のないところで行われた遠征だった。
 
ユーチューブの講座で、宮脇淳子氏がほとんど内容を話しているので、この本自体は読んでいない。
 
だが、モンゴル帝国の統治システムを知った時、明らかに朝鮮系が主導で、元寇を起こしていたことを理解したのだ。

元寇を日本武士が、撃退した話は大好きで、長崎県松浦市の鷹島まで、元寇軍が沈んだ湾を見に行ったくらいである。
 

鷹島

 
そして、詳しいモンゴル軍の解説を聞き、日本に攻めてきた元寇の軍隊のほとんどが、モンゴル人ではなかったという仮説を知り、大いに納得したのである。
 
改めて、ネットを検索してみると、多くの人が、「元寇の軍隊のほとんどが、モンゴル人ではなかった」という説を述べているのを知った。
 
蒙古襲来に参加したモンゴル人は少なく、ほとんどが高麗人や契丹人、女真人、さらには中央アジア出身の混成軍だったことがわかります。
「元寇と日本刀の真実」
http://oyunomori.com/manager_lecture/manager_lecture_genkou.htm
 
今回は、これらの説の内容を引用したい。
 
まず、モンゴル帝国だが、モンゴル帝国は4つに分かれていて、その一つシナ(China)の地を治めたのが元という事である。
 
「中国王朝の元」イコール「モンゴル」でも間違いではないが、モンゴル帝国からすれば、1/4の地域だったという事で、モンゴル帝国は、それくらい巨大だったという事である。
 

10分でわかる世界史Bの流れ!中国史(7)〜モンゴル帝国の興隆〜

元寇が日本を襲った理由

簡単に言えば、モンゴルの世界征服の一環なのだが、中国大陸の南宋を海側から攻めるため、日本を支配したかったのである。
 
そして、日本の存在を進言して攻めることを提案したのが、高句麗である。
 
モンゴル軍の特徴は、征服した地域と親族関係を結び、その地域をそれらの人々に統治させる方式をとっていた。
 
そして、攻めた軍隊は、その国の分捕り品を公平に自分たちの物に出来るという、軍律があったため、盛んに他国を攻めたという。
 
宮脇淳子先生によると、「日本征服を諦めなかった理由は日本担当の役所が続行しようとしたから」と言われている。
 
私も同感である。
 
日本に固執したのは、モンゴルではなく、すでに征服された、高麗(今の韓国・北朝鮮)や漢人などのアジア東部の連中だったのである。
 
確かにフビライハンは、南宋、日本を攻めることを決意表明していたが、実行動は高麗等である。
モンゴルの力を利用して、日本征服を夢見ていたのは、高麗等の連中であることは、容易に想像できる。

モンゴルの高麗侵攻

モンゴルの高麗侵攻(モンゴルのこうらいしんこう)は、朝鮮半島を統治していた高麗王朝に対して、モンゴル帝国が1231年から1273年にわたり繰り返し行った戦争を指す。
 
この間、主要な戦いは6度行われ、高麗の国土は荒廃した。戦争の結果、その後約80年間にわたり高麗はモンゴル/元朝の支配下に置かれることとなる
 
その結果、
 
モンゴル宛て国書で高宗は「今まで我が国が貴国に事大の誠を尽くせなかったのは権臣が政治を奪い貴国へ属するのを嫌がったためであり、チェ・ウィが死んだ今、ただちに都を戻し、貴国の命を聞きます」と全面的な従属を宣言した。
 
そして、
 
旧高麗領の多くはモンゴル領征東行省(高麗行省)となり、モンゴルの役人によって軍政両面に渡り統括された。
 
忠烈王は父の元宗の路線を継承し、親モンゴル政策に傾倒した。
 
高麗は以後モンゴル側への出征には率先して労力を惜しまない、という言質を与えたため、クビライの日本侵攻の意志が固まる頃には、その応対に「率先して当たる」態度を幾度も示さねばならなかった。
 
『高麗史』には忠烈王がモンゴルに日本侵攻を働きかけたとの記述がある。
 
忠烈王が自身の政治基盤強化のため、モンゴル軍を半島に留めさせ、その武力を後ろ盾とする目的であったと見られる。
 
以上はウィキペディアの引用だが、高麗は王者モンゴルに対して、そのべったり度は度を越し
ていて、高麗王家は代々モンゴル帝室に入り婿し、高麗王の血統はほとんどモンゴル人に近い、血統となっている。
 
朝貢の一環として、朝鮮の良家の娘たちを集めて元朝の帝室に差し出す「高麗貢女」まで、高麗のほうから自ら進んで行った。
 
当然軍隊もモンゴル式になっている。
 
元寇の絵が残っていて、モンゴル軍の格好をしているが中身は半島人だったのだ。
 

元寇

 
まず、組織ごとに動く集団戦法、新兵器の「鉄炮(てっぽう)」、連射が効く短弓で、日本武士は意表を突かれ上陸を許すが、攻撃隊はその夜に撤退してしまう。
 
これに関してはいろんな説があるが、最初の日本攻撃は、偵察だったという説がある。
 
高麗の記録に残っているが、船に帰投後、元の総司令官、クドゥン副司令官、ホン・タグと高麗軍司令官、キム・バンギョン-が今後の展開について意見を交わしたとされている。
 
高麗軍司令官は「敵地に入って士気も上がり、必死の覚悟で戦っている」と戦闘の継続を主張。
 
元の総司令官は「疲弊している兵士をこれ以上使い、日増しに増える敵と戦うのは良策ではない」として撤退を決めた、とある。
 
じつは元の副司令官が武将少弐景資(しょうに かげすけ)の矢で負傷していて、日本武士の強さを感じ取ったのだと推測される。
 
強者は強者を知る例え通りである。
 
二度目の弘安の役まで、クビライに対して、高麗は何度も日本侵略を中止してほしいという懇願が行われ続けている。
 
しかし、クビライにしてみれば、世界最強というプライドもあるし、半島軍のふがいなさが情けなかったのかもしれない。
 
そして、弘安4年6月6日、元軍が再び博多湾に来襲。
 
待ち構えていた日本の水軍は小舟に分乗して夜襲を敢行した。元軍は海岸に築かれた防塁に上陸を阻まれ、壱岐へ退却した。
 
結果は皆さんのご存じの通り。日本武士の快勝だった。
 

クビライの野望

クビライ・カーン

 
クビライ・カーンはモンゴル帝国の創始者チンギス・カンの孫に当たり、祖父の事業を継承してアジア諸国に遠征軍を派遣し、各地の歴史に多大な影響を与えた人物である。
 
無敵を謳われたモンゴル軍だが、日本武士の抵抗で失敗に終わった。
 
また、東南アジア諸国への遠征でもジャワ島・べトナムへの侵攻は失敗に終わっている。
 
なぜダメだったのかといえば、他説があるが、熱帯環境や舟よる渡海が騎馬隊に適さず、モンゴル軍が本領を発揮できなかったためというのが一般的だろう。
 
しかし、日本を攻める遠征軍の質が低かったという説もある。

モンゴルの悲劇

モンゴルから制圧された高麗だが、高麗貢女と呼ばれる女性をモンゴルの宮廷に入れて関係を結ばせ、しつこく取り入ろうとした。
 
高麗貢女はモンゴルが望んだとされているが、実は高麗側が進んで行った事である。
 
モンゴルもバカではない。そんな高麗側の魂胆はわかっていて、モンゴル王族は高麗貢女と結婚してはいけないというしきたりを作っていた。
 
だが、元朝最後となる皇帝・順帝トゴン・テムルは高麗貢女(奇皇后)を后としてしまったのだ。
 

奇皇后肖像画

韓国ドラマの奇皇后

 
その結果、奇皇后の一門が権勢を振るうようになり、民を搾取しはじめる。その事に反発した王族は反乱を起こす。
 
そして、ついに元は滅んだという。
 
モンゴルの年代記にも、元朝が滅んだのは高麗貢女(コンニョ)を貰ったからだと記されている。
 
引用元 モンゴル帝室に女性を献上していた「高麗時代の朝鮮」
https://nikkan-spa.jp/711388
 
朝鮮半島は、常に大国に蹂躙され、その時代その時代で、大国に寄生して生き延びてきた歴史がある。
 
そして今に至っている。
 
アジア史を知れば知るほど、朝鮮半島民族の怖さがよくわかってくる。
 
よく歴史家の人が、朝鮮半島とヨーロッパの火薬庫となったバルカン半島を比べて、よく似ていると言っていたことを思い出す。
 
そして、その事は皆さんの方がよくわかっていると思う。
 
触れてはいけないのだ。
 
その事は、歴史が教えてくれている。