フィリピンの歴史 スペイン、アメリカ、日本の功罪

フィリピンの国旗

フィリピンという国名を聞いてまず思うのは、フィリピンパブの事である。

これは私が単純にフィリピンの歴史に疎かったことと、友人の一人がフィリピンパブの女性と結婚したことにある。

その友人は再婚なのだが、事あるごとにフィリピンの女性の情の厚さを私に語ったからである。

フィリピンの女性が日本の歓楽街で働いている理由は、家族の為に仕送りするためと言われている。

それだけフィリピン人は家族を大切にし、多く年長者や子どもに優しい事と言われている。またフィリピンの女性は働き者が多いとも聞く。

フィリピンパブ https://note.com/bearsnavi/n/nd206825ba0bd

2019年の統計で厚生労働省が発表した「外国人雇用状況」を見れば、中国は約41万、ベトナムは約40万、次いでフィリピンの約18万である。

フィリピンの海外出稼ぎ労働者は多く、毎年およそ180万ほどと言われており、一番多く出稼ぎに行っている国はサウジアラビアなどの中東であり、2000年には、3位日本(7.4万人)だったのが大きく後退している。

その理由は、2005年に日本政府が興行ビザの条件を厳しくして以来、ほとんどのエンターテイナーが入国できなくなり激減した事による。

いずれにして親しみのあるフィリピンの歴史をちゃんと調べてみた。

地図

フィリピン

正式にはフィリピン共和国と言い、立憲共和制国家である。

首都はマニラ市で7000以上の島があり、2015年の統計では人口約1億人で世界12位である。

言葉はタガログ語(フィリピノ語)で、英語を含め80前後の言語がある。

国名のフィリピンは16世紀の旧宗主国のスペイン皇太子フェリペの名前から命名された。現在、フィリピンという国名は植民地時代の残滓だという立場からの国名変更論もある。

第16代大統領ロドリゴ・ドゥテルテはサンスクリット語に由来し「気高く誕生した」を意味する「マハルリカ」への変更に対する共感を表明している。

それはそうだろう。何百年もスペイン人からひどい目にあった国だからだ。

日本人とフィリピン人

日本人と東南アジアの人々とは顔がよく似ている。という事は当然、東南アジアの人々に影響を受けている。

縄文人はなんとマレーシアを中心に分布するグループに最も近い。だが、そのグループに縄文人が入るかと言えば、そこまで入っていない。

東アジア民族からの遺伝子流入の影響を大きく受けているのは間違いないが、マレーシアに誕生したグループの末裔が東南アジアを経て日本に到達するまでに、その途上の民族と混血を繰り返して日本に到達したのが縄文人になったと推測されるのである。

先史時代

フィリピンの歴史は多様な民族によって織りなされてきた。フィリピン諸島で最も古い民族は25,000~30,000年前に移住してきたネグリト族である。

ネグリト(Negrito)とは東南アジアに住む身長が小柄な少数民族を指し、これらの地域にマレー系民族が広がる前の先住民族であると考えられている。

タガログ人の男女

マレー系民族の移住

そして紀元前500年~紀元13世紀の間にマレー系民族が移住してきた。

マレー人とは、本来はマレー半島、スマトラ島東海岸、ボルネオ島沿岸部などに住んでマレー語を話し、マレー人と自称する人々(民族)のことを指す。

中国(明)や東南アジアとの交易で栄えたが、7000を超える諸島である現在のフィリピンに相当する地域に統一国家は形成されていなかった。

フィリピンは古代の遺跡や資料が少ない。それは熱帯地域なので、いろんなものが腐りやすかったからだったと言われている。

だが900年頃の日付が記録されているラグナ銅版碑などによれば、当時すでにカウィ文字(古代ジャワ語)やバイバイン文字など複数の文化を受容出来る成熟した都市国家を形成していたことが明らかにされている。

イスラーム化

イスラム世界におけるモスクの重要性 – Pars Today

10世紀にフィリピン南部にはイスラーム教が伝えられ、13世紀ごろには南部諸島が完全にイスラーム化している。

特にミンダナオ島などの南部には熱心なイスラム教徒のモロ族がいて、現在まで続いている。

イスラムという宗教をほとんど知らない私には、このイスラム化がどういう意味を持つのかわからない。

アジアの歴史を調べていくと、このイスラム化というのが大きな意味を持つものだとわかるが、これによって何が変わっていくのかがわかっていないと思う。

ただ、戒律は多いがシンプルな教えの中に、キリスト教にない魅力があるのだろうとしか判断出来ない。

世界は十字軍の遠征などキリスト教化することでより良い世界になるとキリスト教徒は信じている。

だが、ムスリムに改宗する人たちは、キリスト教の矛盾に疑問を持つものが多い。

なぜ増える?イスラム教への改宗 – 浅川芳裕(ジャーナリスト)https://blogos.com/article/147563/?p=2 の記事を抜粋する。

ここまで様々なタイプの改宗者を見てきたが、改宗者は大きく二つに分類できる。
一つめは、あまり宗教的でない家庭で育てられた人。もう一つは、厳格なキリスト教徒の家庭で育てられたが、信仰に関する重大な疑念を抱いた人である。

改宗者はキリスト教にどんな疑問を抱いてきたのだろうか。

イエスが神であり、人間でもあること。三位一体の概念、人類の原罪、聖人の存在、旧約聖書と新約聖書の矛盾などがよく挙げられる。

なるほどとうなづく部分はある。

預言者ムハンマドは商人として活動していたが、各地を旅するうちに、ユダヤ教やキリスト教の影響を受けた。40歳の時に神の言葉を聞いたとされ、その後23年間、神から少しずつ啓示を受け、それを書き留めたものが「コーラン」である。

彼は、神の前では全て平等であると説き、偶像崇拝や貴族の悪徳を攻撃した。その教えは貧しい人たちに広まったが、裕福な支配層に迫害された。

イスラム教 http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/International/Islam/Islam.htm より

これを思えば、資本主義社会の弊害に対して起きた、反動的な社会主義的な運動のようにも見える。

イスラム教は偶像崇拝の禁止と信徒間の平等を教えとしている。この点では日本の神道とよく似ている部分があるなーというだけで、私自身はやはり理解していないのだ。

このイスラム教の問題は大きすぎて、簡単にまとめると違う誤解が生じる恐れがあるので、後日の研究課題にしたい。

マニラの日本人町

この時代まで、アジアはアジアの中で成り立っていったのだが、突然ヨーロッパから西洋人がやってくる。

これによりアジア全体は屈辱の歴史を味わう事になる。

スペイン人がフィリピンにやってくる前に、日本の商人がルソン島民の信用を得て定例的な交易が始まっていた事が記録に残っている。

豊臣秀吉の行為によりマニラに日本人町ができる。この町は栄えるのだが、徳川家康のキリシタン禁止令により、修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに追放されている。

キリシタン大名であった高山右近、内藤如安や豊後の大友宗麟の息女などもマニラに送られた。

かってのマニラ日本人町を訪ねる ― 高山右近と内藤如安の足跡を求めて https://4travel.jp/travelogue/11103053

333年のスペイン支配

マゼラン

1521年、ポルトガル人の航海者マゼランが率いるスペイン艦隊が、ヨーロッパ人として初めてフィリピンのホモンホン島に到達した。

マゼランはスペイン船5隻の艦隊を率いて、西回りでの渡航ルート発見を目指して旅立った航海者で南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を発見して太平洋に到達したことで有名。

マゼランはフィリピンで戦死するが、残された艦隊は1522年に史上初めての世界一周を達成した。

この時代はポルトガルとスペインが世界の覇権を争っていて、この争いを治めるために、両国はヨーロッパ以外の国の領地化をトルデシリャス条約で勝手に決めている。

この当時の西洋の傲慢さはそれほど酷かったのである。

なぜ西洋諸国がアジアやアメリカに進出したかと言えば、まず経済的な理由である。

侵略を正当化する西洋人

銀の富鉱が発見され大量の銀の流入をヨーロッパにもたらしたり、サトウキビなどのプランテーションで多くの富を蓄積した。

そして軍事力の差が大きかったからである。

鉄の武器や防具を標準的に装備し、騎兵を擁し火砲まで所持していたスペイン側に対し、新大陸側の勢力はアステカやインカなどの大勢力ですら鉄器文明に到達しておらず、また青銅器使用も装飾品にとどまっており、石器での応戦を余儀なくされた。

こんな悪行を行うには、侵略を正当化するいろんな理屈が考えられていた。

「文明程度の劣った植民地に近代文明を伝えることが先進諸国の責務である」と本気で思い込んでいた節もある。

イギリスでは「白人の責務」、フランスでは「文明化の使命」、アメリカでは「マニフェスト・デスティニー」(明白な天命)などと呼ばれていた。

まさに狂っているとしか言いようがない西洋人たちである。

戦うラプラプ王

マクタン島を治めていたラプラプ王はマゼラン軍に従おうとしなかったため闘いになる。

1521年マクタン島の現在のマクタンシュライン沖で、ラプラプ王と彼が率いる戦士たちがスペインの侵略者を撃退、指揮官のフェルナンドマゼランは戦死する。

ラプラプ王

ラプラプ王はヨーロッパ人からの侵略を防いだ最初のフィリピン人として、今でも「フィリピンの英雄」となっている。

だが力で勝るスペインはどんどんやってくる。

そして勝手に決めた1529年のサラゴサ条約(アジアにおけるスペイン、ポルトガルの植民地分界線の協定)でフィリピン諸島をスペイン領有とした。

ポルトガルの西回りによるアジア到達に対抗するために、東回りで大西洋・太平洋を横断するフィリピン航路と、フィリピン植民地を確保しようとした。

太平洋往復航路(ウルダネーダの道)の開拓に成功したスペインは、この航路を利用してメキシコに戻ることが可能になったことから、スペインのフィリピン経営が本格化した。

マニラ陥落とガレオン貿易

総督レガスピは、フィリピン支配の拠点として最大の島のルソン島のマニラに着目し、1570年に艦隊をメキシコをから派遣して総攻撃して陥落させ、翌年マニラ市に入城した。

マニラ(スパニッシュ)ガレオン船

これ以後はマニラ←→アカプルコ間の定期航路が開かれ、この航路には大型のガレオン船が使われたのでガレオン貿易とも言われ、18世紀末まで継続して繁栄した。

ガレオン貿易は中国とスペインの中継地点としてマニラを使った貿易で、何百年も続いたのだが、この事でフィリピン人は荷揚げ従事者として酷使され、このためフィリピンには産業が育たなかった。

この事がのちの出稼ぎ国家となった原因である。

これがスペインのフィリピン植民地化の流れだが、実に西洋目線で記録されていることがわかる。

フィリピンにしてみれば、西洋から武力を持った強盗がやってきて国を盗んだという事である。

支配者であるスペインに対する反抗は幾度となく繰り返されたが、いずれも規模の小さな局地的なものであり容易に鎮圧されてしまった。

フィリピンでスペイン人が行った悪行

キリスト教徒であるスペイン人が、なぜこんな強盗を働いても平気なのかと言えば、「先天的奴隷」という存在を、キリスト教は認めていたからである。

また、16世紀のヨーロッパの「常識」は、原住民に戦争をしかけ、奴隷にし、彼らが「不正に所有する」土地を押収することは当然だった。

エンコミエンダ制

コロニアルスペインとエンコミエンダ制システムの恐怖

エンコミエンダとは、もとは国土回復戦争で功績のあった私的個人(コンキスタドレース)に王室が与えた権利で、エンコミエンダ近くに住み、住民を守り、住民に精神的世俗的安寧を与える義務と住民から貢納を徴集する権利がセットになっていた、といわれている。

この仕組みをスペイン人は、先に行ったメキシコ征服で行い、フィリピンでも行ったのだ。

フィリピン占領に功績のあったスペイン人に一定の地域の原住民の管理を任せ、キリスト教の布教を条件に租税の徴収をさせた。

つまり武力で現地人を制圧したものに権利を与え、奴隷化して、利益のみを吸い上げる制度である。

そしてスペイン本国からの援助がなかったので、搾取を正当化して歯止めが効かなかったことも原因である。

また、アジアや南アメリカにやってきたのは、ならず者や食い詰めた犯罪者なども多く、彼らに取ったもん勝ちを国が推奨しているのだから、どうしようもない形になっていくのである。

カトリックの強制布教

支配者であるスペインに対する反抗は幾度となく繰り返されたが、いずれも規模の小さな局地的なものであり容易に鎮圧されてしまった。

スペインのフィリピン支配の特徴はカトリックの強制布教と結びついていたことである。

これは肉体だけではなく、精神面でも押さえつけようとしたのだ。

教会はマニラ総督を後ろ盾に、教区司祭を通じて聖俗の両面から原住民を支配した。

だが、フィリピン原住民の反抗は、ミンダナオ島を中心としたイスラーム教徒の抵抗(スペイン側はこれをモロ戦争といった)がスペイン支配時代を通じて続いた。

モロの紛争

独立運動

フィリピンの独立運動が本格的になるのは、19世紀末からである。

フィリピンの革命家は3人に絞られる。

ホセ・リサール

一人目が穏健派のホセ・リサールでのちに建国の父と呼ばれるが、失敗。 

アンドレス・ボニファシオ

二人目は武闘派アンドレス・ボニファシオ。ホセ・リサールの信奉者だったが失敗。

エミリオ・アギナルド

三人目はエミリオ・アギナルド。スペイン軍と互角の戦いをしたため国内で人気があったが、下層階級の代表ボニファシオと上層階層のアギナルドは対立。

ボニファシオは負けて処刑されるのだが、この内紛で革命派は弱体しスペイン当局と妥協して香港に亡命してしまう。

結局、フィリピン革命は失敗に終わった。それほどスペインは強かったという事である。

アメリカ帝国主義による米西戦争

そしてここにアメリカが出てくる。

アメリカ合衆国は南北戦争の危機を北軍の勝利で終わらせて、一つの国家としてのナショナリズムを獲得し、強力な連邦政府のもとで北部を中心とした工業国家建設を進めた。

フロンティア・スピリット「開拓者魂」がアメリカ民主主義を増進させたが、開発してきた領土は限界に達し、並行して新たな移民も増加し、いわゆる開拓者精神は行き場を失いそうになった。

その結果アメリカは新たに海外領土・植民地を獲得するというアメリカ帝国主義の時代がスタートしてしまう。

それに対して、強国としてのスペイン帝国の地位は19世紀後半までの数世紀の間に低下していった。

米西戦争

アメリカ大衆紙の扇動

そして、ここでアメリカのマスコミが登場する。

もともとキューバのカリブ海はアメリカ人が好きな保養地だった。

だが、キューバはスペイン領だ。そのキューバでも独立運動が高まっていた。

キューバの独立運動を弾圧するスペイン政府の残虐行為の非難が高まり、マッケンリー大統領も「非文明的で非人道的な」行為を止めるようたびたびスペイン政府に勧告した。

世論を操作した「新聞王」ハーストの華麗なるウソ https://www.bizcompass.jp/original/re-tips-096-4.html

それをあおったのが、アメリカの大衆紙(イエロー・ジャーナリズム)で、新聞王ハーストは、現地に派遣した画家のフレデリック・レミントンに対し、「君は絵を提供しろ。私が戦争を提供するから」と話したという。

そんな中、ハバナに停泊中のアメリカ軍艦メイン号の爆発事件をイエロー・ジャーナリズムは「メイン号を忘れるな」というスローガンを大衆をあおり続ける。

そんな世論に押され、マッキンリー大統領は1898年4月スペインに宣戦布告をする。

アメリカ対スペインの戦争はアメリカの帝国主義戦争の最初のものであり、この戦争は4ヶ月でアメリカの勝利となる。

これによって、アメリカはフィリピン・プエルトリコ・グアムを領有し、海外に植民地をもつ国家として一躍世界の強国となったのである。

スペインの代わりにアメリカが占領

次はフィリピンが標的になった。

アメリカ海軍は、マニラ湾を攻撃、大小10隻のスペイン艦隊を全滅させた。

陸上に拠点を持たないアメリカ軍は、急遽、香港に亡命中のアギナルドをアメリカ艦船でフィリピンに上陸させて、フィリピン軍とともにスペイン軍を攻撃する態勢をとり、8月13日マニラ総攻撃を行い、スペイン軍を降伏させた。

アギナルドは、アメリカに協力することによって独立を保証されると考え、1898年6月12日にフィリピン共和国の独立を宣言した。

つまりアメリカ軍は独立を餌にフィリピン軍を利用したのである。

アメリカ、フィリピンを2000万ドルで買う

アメリカVSスペイン戦争はアメリカの勝利に終わり、1898年パリ条約(パリ協定)が締結され、アメリカはスペインからフィリピンを2000万ドルでアメリカに譲渡された。

アメリカは、フィリピンの独立に口頭の約束を与えていたが、フィリピン独立を認めず植民地支配を開始した。

そしてアギナルドらのフィリピン独立運動は、フィリピンの安定の障害になるものとして排除されることとなった。

ひどい話である。結局アギナルドらの独立運動家は単に利用されただけだったのだ。

フィリピンVSアメリカ

米比戦争

アメリカはフィリピン共和国を認めなかったので、アギナルド大統領のフィリピン共和国(マロロス共和国)の民衆はスペインに続いて新たにアメリカに対しても戦いを開始することとなり、翌年には、アメリカとの間でフィリピンVSアメリカ戦争となった。

アギナルドのフィリピン共和国はゲリラ戦術を採って抵抗したがアメリカ軍の激しい掃討戦によって次第に後退し、1902年に屈服させられた。

布引丸事件
アギナルドは、日本に支援を求めたが、政府の正式な援助はなく、宮崎滔天らの努力で旧式の銃と弾薬が送られたが、それを積んだ布引丸が1899年に暴風雨のために沈没したため支援は実現しなかった。

フィリピン共和国は短命に終わり、アメリカ帝国主義の植民地支配を受けることとなった。

帝国主義によるアジア分割

フィリピンにアメリカがやってきた時、当初現地の人々の猛烈な抵抗にあい、アメリカ軍はその勢力を押さえ込むために数十万人規模の虐殺を行うなど、暴力で押さえ込んでいたことは記録に残っている。

日本の態度

そのころ、回りの世界情勢に対してアジアの危機を察知し、大陸進出を目指す。そして日本は日露戦争をへて朝鮮半島植民地化を進めていた。

この頃はアメリカと対立していなくて、桂=タフト協定というのを結び、日本の朝鮮半島支配と、アメリカのフィリピン支配を相互に承認しあっている。

変わっていくアメリカの態度

アメリカは1902年からフィリピン統治を本格化させたが、なおもゲリラによる抵抗は続いた。1907年までに武力抵抗を押さえつけると、次第に形式的な自治を認め、議会の開設などをアメリカ主導で行なった。

また学校教育を通じて英語を普及させ、アメリカとの同化をはかった。

しかし、世界恐慌を期にフィリピン統治の経済的マイナス面が強まったため、アメリカ側にフィリピンを独立させる動きが強まり、1934年、アメリカ議会でフィリピン独立法が成立、10年後の独立を約束した。

ここで、ついにフィリピンは独立するはずだったのだが、第2次世界大戦がはじまってしまう。

第2次世界大戦勃発

マニラに向けて進撃する日本軍戦車隊(1942年1月)

1941年12月にアメリカ合衆国軍との間に開戦した日本軍が、アメリカ合衆国軍を放逐しマニラ市に上陸した。

アメリカ合衆国陸軍司令官のダグラス・マッカーサーはオーストラリアに撤退し、日本陸軍は1942年の上半期中にフィリピン全土を占領した。

この時にマッカーサー(父)は「I shall return」といったのは有名だ。

アメリカは1935年にはフィリピンの独立を約束していたので、日本も1943年5月に御前会議でフィリピンとビルマを独立させた。

フィリピン第二共和国の成立

1943年10月14日、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が成立した。

しかしアメリカは、日本の傀儡政権であるとしこれを認めなかった。その後ラウレルは日本との協力関係を築きフィリピン政府の運営を進めた。

しかし日本は、フィリピン人と戦うようになる。

それはアメリカの援助を受けて結成された反日ゲリラ組織のユサフェ・ゲリラと共産系のフクバラハップが各地で抗日ゲリラ戦争を行ったからである。

その後1944年末に米軍が反攻上陸すると、フィリピン・コモンウェルスが再び権力を握った。

日本敗戦の色が濃くなると、日本はフィリピンを最終防衛線とし、アメリカの日本進出を止めることを決定し、使える兵士、航空機、海軍船舶をすべてフィリピンの防衛に送った。

神風特攻隊

神風特攻隊は特にフィリピンを守るために作られ、第二次世界大戦最大の海戦となったレイテ沖海戦もこの時起った。

1945年の日本敗戦に伴い、1946年のマニラ条約で、フィリピン・コモンウェルスの組織を引き継ぎ、戦前から約束されていたフィリピン第三共和国が再独立した。

フィリピンでの日本とアメリカ

戦争時の虐殺は後年いろいろな問題を起こしている。

この事をどの目線で語ればいいのかと考えた時、結局事実のみを書くしかないと思う。

日本の左翼系の論客は、フィリピンの話になると日本軍の残虐な行為についてつるし上げをする。

右翼の論客は、その事は認めつつも、当時の世界情勢を語り、結果的にフィリピンが独立を果たした事に言及する。

なので歴史の事実だけを書く

米西戦争
アメリカとフィリピンを植民地としていたスペインと戦争をして、それに勝ちフィリピンからスペインを追い払う。

勝ったアメリカはパリ条約(1898)でフィリピンを2000万ドルで買い取って領有する。

フィリピン戦争
アメリカはフィリピン人と戦争をして勝利し、スペインに代わりにアメリカがフィリピンを占領する。

第二次世界大戦が始まり、アメリカと戦争を始めた日本は、フィリピンにいるアメリカを攻撃して、アメリカをフィリピンから追い払う。

日本は1943年フィリピンとビルマを独立させる。

1945年日本は敗戦してフィリピンから撤退。

その後1946年のマニラ条約でフィリピン第三共和国が再独立する。

これが流れである。

そして各戦争時には多くの犠牲者が出ている。

フィリピン戦争では、アメリカに対してフィリピンの民衆はゲリラ戦で抵抗している。

アメリカの将軍のは「10歳以上はすべて殺すこと」と簡潔な命令をして、本土で攻撃したインディアンたちと同列にフィリンピン人を見ていた。その結果、米比戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ軍により虐殺されている。

日本のフィリピン占領は約3年間にわたっている。それじゃフィリピン人は日本を大歓迎したかというとそうではない。

追い出されたアメリカはフィリピン人を支援し、今度は日本とフィリピン人との戦いが始まるのだ。

なぜかというとアメリカがフィリピンの独立を保証していたため、アメリカに従っていたからである。

また日本軍も占領後に島の独立を約束したにもかかわらず、独立した共和国と宣言するまで、民事を指揮する国務院を組織して、日本人の下で働かせたからである。

さて第二次世界大戦終了後、東京裁判と呼ばれる戦勝国側の裁判で、日本人のフィリピン人虐殺を一方的に糾弾され、日本人将校はすべからく断罪される。これにより日本は犯罪人となってしまう。

東京裁判

だが歴史を時間軸で見れば、そんな短絡的に言い切れるものではない事は明白である。

スペインの罪、アメリカの罪、日本の罪をすべて並べた上で、神のごとき公平な第三者が判断する以外に、善悪をつけられないはずである。

フィリピン第三共和国としてついに独立

だがフィリピンでは、内戦の様相になる。それは共産主義者が暗躍を続けたからである。

それに対抗するため、アメリカ合衆国からの支持を得た反共産主義を唱えるフェルディナンド・マルコス大統領がマルコス独裁国家体制を築いた。

ここまではよかったのだが、20年に渡る独裁政権でイメルダ・マルコス大統領夫人をはじめとする取り巻きによって、私物化され腐敗してしまう。

イメルダ夫人が住んでいたマラカニアン宮殿には、1060足の靴、15着のミンク・コート、508着のガウン、888個のハンドバッグが残されていて、マスメディアによって「イメルダ・コレクション」と取り上げられた事は有名である。

イメルダ夫人の靴コレクション

これに対して中華人民共和国やソビエト連邦からの支援を受けたモロ民族解放戦線や再建共産党の新人民軍(NPA)による武装蜂起が発生した。

アメリカの撤退

1990年代米軍のアジア駐留軍縮小、およびピナトゥボ山の噴火に伴う基地機能の低下、フィリピン国内のナショナリズムの高揚、フィリピン共和国憲法改正により、在比米軍は軍備を沖縄に集約し、フィリピンから撤退した。

共産主義勢力の暗躍

フィリピンの共産主義勢力は、第二次世界大戦中に日本軍と戦い、日本軍の撤退後もアメリカ軍と独立後のフィリピン政府軍と戦闘を続けたが、1954年までにマグサイサイ指揮下のフィリピン政府軍に制圧された。

共産主義勢力はしぶとく根強い。

この勢力は自国のために戦うのではなく、共産主義のために戦うので、日本もアメリカも敵だったのである。

第四共和国体制が成立

その後のフィリピンは、マルコス独裁をエドゥサ革命で倒し、現在のフィリピン第四共和国体制が成立している。

その後もいろいろあるのだが、現在は第16代ロドリゴ・ロア・ドゥテルテ大統領である。

戦後、世界の情勢は変わり、フィリピンは親日とまで言われるように日本とフィリピンの関係は変わっていっている。

いろんな所で似ているフィリピンと日本。これからはずっと仲良くしていきたいものである。


参考 ウィキペディア フィリピンラボ フィリピンから見た世界史 ゆっくり歴史解説 フィリピンの歴史 落書き世界史CH その他HP多数