オーストラリアの歴史 アボリジニ虐殺と日本との戦い
オーストラリアはイギリス連邦加盟国であり、英連邦王国の一国となっている
オセアニアに位置し、オーストラリア大陸本土、タスマニア島及び多数の小島から成る連邦立憲君主制国家だ。
立憲君主制なので、現在は女王はエリザベス2世である。
首都はキャンベラ。最大の都市はシドニー。
オーストラリアという国名は、ラテン語で「南の地」を意味する terra australisから来ていて、ヨーロッパにおける伝説上の大陸を意味している。
約5万年前
更新世末期のオーストラリア大陸は、現在に比べて海水面が100m以上低かったため、ニューギニア島やタスマニア島、ジャワ島やスマトラ島、ボルネオ島はアジアと地続きだった。
これによりオーストラリア先住民(アボリジニ)はこの頃、スンダランド(現在タイの中央を流れるチャオプラヤー川が氷期に形成した広大な沖積平野)から海を渡ってオーストラリアに到来したものとみられている。
アボリジニ(アボリジナル)は長くオーストラロイドという人種に分類されてきた。
なんだか特別の人種のようだが、結局コーカソイドやモンゴロイドから分岐した人たちで、過酷な環境への適応によって、特別種のように言われていた。
しかし、遺伝子の分析や頭蓋骨の測定の結果から、広義のモンゴロイドに属するとの見方が浮上し、現在はオセアニア系モンゴロイドに分類されるようになっている。
世界の大陸から離れていることから、更新世末期からヨーロッパ人の到来までの少なくとも4万年の間、特に大きな変化はないとされている。
地理的隔離と気候の多様性が生んだその生態系は非常に個性的であり、コアラ、カンガルー、ポッサムなどの有袋類やカモノハシ、ハリモグラなどの単孔類がいる。
森林率は19%で高山植物から熱帯雨林まで様々な植物の自生地帯が存在するが、大陸の大半は砂漠とステップ(半乾燥帯)で占められる。
動物種では人間より大きい大型動物類の多くは絶滅し、多くの小型動物もいなくなった。原因は、火、狩猟、気候変動などと考えられるが、最も大きな原因は人間の介入である。
ヨーロッパ人による入植以前の人口は分かっていない。
自然環境は非常に苛酷であるとされ、大陸の40%が非居住地域(アネクメネ)となっている。
その理由は土壌の栄養分が極めて乏しいこと、塩害が発生しやすいこと、降雨量が少ないことの3つである。
古代にこの地に移り住んだアボリジニは、厳すぎる環境で農業は発達せず、狩猟生活を何万年も続けていたのである。
ヨーロッパ人がやって来た
最初に来たのは、1606年の白人はオランダ人のヴィレム・ヤンツだ。
彼は赤道付近の熱帯の北部地域に上陸し、その周辺のみしか探索しなかったため、植民地には向かないと判断し、オランダ人は入植しなかった。
その次に来たのは1770年にスコットランド人のジェームズ・クックである。
彼は温帯のシドニーのボタニー湾に上陸して領有を宣言し、入植が始まった。
ジェームズ・クックは通称キャプテン・クックといい、ハワイ諸島も発見したたたき上げの人気探検家である。第3回航海の途上、ハワイ島で先住民との争いによって1779年に落命した。
流罪植民地としてのオーストラリア
アメリカの独立により、1788年からアメリカに代わり流罪植民地としてイギリス人の移民が始まった。
初期移民団1030人のうち、736人が囚人で、その他はほとんどが貧困層の人間であった。また、当時は軽犯罪でも当地に流刑されたという。
つまりオーストラリアは島流しの刑務所扱いの場所としてスタートしたのだ。
イギリスは最初アメリカを流刑地としていたが、独立されたので、次は南アフリカ、そしてオーストラリアとしている。
島流しの刑はどこの国でもあり、日本では伊豆、四国、隠岐、佐渡などが有名である。
ただイギリスとニュアンスが違うのは、政治犯とされた人たちが主であり、後鳥羽上皇や後醍醐天皇(隠岐)、日蓮、世阿弥(佐渡)となっている。世界的に見れば皇帝ナポレオンはイギリスのセントヘレナ島へ流さた。
だが、イギリスは違っている。正真正銘の犯罪者を島流しにしているのだ。これにより、オーストラリアのアボリジニの虐殺が起こったと言っていいだろう。
イギリスではなぜ島流しの場所が必要だったかというと、産業革命による失業者が増え、犯罪が多発したからである。その為、イギリスの国内の監獄は満員となってしまったのだ。
人間狩り
イギリスからやって来た犯罪者がやった事は、アボリジニの強姦で、略奪、殺戮である。
そしてスポーツハンティングとして多くのアボリジニを虐殺した。
それだけではなく、数千の集団を離島に置き去りにして餓死させたり、水場に毒を流したりするといったことなども行われた。
アボリジニ虐殺は20世紀半ばまで続けられている。この白人たちによる残虐行為の非難本は数多く出ているので掲載を省く。
さらに1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行されている。
これによりアボリジニの人口は90パーセント以上減少してしまう。
この時期の日本は江戸時代で、ドイツ人シーボルトがオランダ商館員として来日していたり、勝海舟、西郷隆盛、大久保利通らが生まれた時でもある。
西洋は日本を植民地として狙っていたことを覚えておきたい。
ゴールド・ラッシュ
1851年にオーストラリアで金鉱脈が発見されたのをきっかけに、ゴールド・ラッシュの時代を迎える。
これにより大量の移民が流入し、1850年代初頭に40万人だった人口が、わずか10年で115万人まで急増した。
移民としてやって来たのはインド人や中国人が中心であり、安価な年季契約労働力として導入され始める。
これはよくあるパターンである。
そして、お決まりの中国人労働者の排斥運動へと発展する。なぜ嫌われたかというと、移民たちが勤勉だったからで、これもまた皮肉な話なのだ。
これが白人優位の白豪主義へ発展していく。
白豪社会の実現とオーストラリア連邦成立
植民地同士の関税制度、移民問題、そして防衛上などの観点から、植民地6州を統合したオーストラリア連邦政府の樹立が模索され、1895年に6州による連邦成立はイギリス議会で法制化された。
1901年に正式にオーストラリア連邦が成立し憲法が発効された。
そして白人はアジア系移民の流入を合法的に制限する移住制限法を制定している。
その法律とは、アジア系移民希望者にヨーロッパの言語での入国テストを課し、ほぼ全員が不合格となるシステムを導入したのだ。
西洋人の人種差別はいつの時代でもすさまじい。
この人種差別意識が、植民地時代と呼ばれる侵略の歴史の元にあり、アジア人をはじめとする非白人を奴隷にする感情である。
国際連盟での人種差別を反対した日本
差別は人間には必ず付きまとう。同じ人種でも階級社会があれば、おのずと生じてくる。
なので西洋人だけを非難するのは片手落ちと思うのだが、西洋人の人種差別は強烈なのだ。
島国の日本では単一民族のせいで、人種差別意識は希薄だった。絶対ないとは言わないが、西洋人の差別意識とは別次元の話である。
特筆すべきことがある。
第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、日本は人種差別の撤廃を明記するべきという提案を出している。
フランス・イタリア・ギリシャ・中華民国・ポルトガル・チェコスロバキア・セルブ・クロアート・ユーゴスラビア王国の委員が賛成。
イギリス(オーストラリアと同調)・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計5名の委員が反対した。
結果、この提案にアメリカ合衆国大統領は全員一致で無ければ可決されないと言って否決している。
オーストラリアの白豪主義はすごく、第二次世界大戦中にはアメリカの黒人部隊の上陸を拒否したほどである。
この事でもわかるように、西洋人の考える平和と、日本人が望む平和とでは大きな隔たりがある事がわかる。
西洋の世界観に、根本的な矛盾を突き付けた日本は、西洋中心の世界では驚きであり、要注意の脅威の国として認知されてしまう。
白豪主義者で第2代首相にもなったアルフレッド・ディーキンは「日本人は優秀であるがゆえに危険であり、排除されねばならない」と述べている。
この事はとても重要である。
第一次世界大戦
1914年にイギリスがドイツに宣戦布告すると、オーストラリアも第一次世界大戦への参戦を表明する。南太平洋のドイツ植民地を占領、ニュージーランドとともにアンザック軍を結成する。
1915年にドイツの同盟国であるトルコにアンザック軍が進軍、イスタンブールを陥落し、その功績を持って1919年には国際連盟加入が認められる。
オーストラリアの必死さは驚くべきものがある。
これは自治植民地から1901年には独立を認められ大英帝国連邦(コモンウェルス)の一員となっている事によるのだろう。
1914年の第一次世界大戦勃発直後にオーストラリアの首相となったアンドリュー・フィッシャーは「我々は最後の一人、最後の一シリングまで大英帝国と共に戦わなければならぬ」と演説している。
熱狂の渦の中で、オーストラリアは33万人の義勇兵を送り出し5万9000人の犠牲者を出している。
それほど大英帝国に忠誠を誓っていたのだ。
第二次世界大戦
1941年に日本軍が真珠湾を攻撃した際に、アメリカ、イギリスとともにオーストラリアも宣戦布告する。
日本軍がオーストラリアに対して一連の空襲を実施した目的は、日本軍がオランダ領東インド諸島を占領したのに対抗しようとして、連合国軍が北オーストラリアにある各基地を使用するのを妨害するためだった。
この時の日本軍の戦いを侵略戦争と解釈している人たちが多い。
「この地で日本軍はいかに残虐だったか」とか「日本軍の本当の恐ろしい姿」などおどろおどろしい内容で、まくし立てていることが多い。
しかし戦争である。そもそも勝者である連合国側の意見だけを聞くのは片手落ちなのだ。
大航海時代から第二次世界大戦に行くまでの世界の歴史を見れば、日本軍の必死さが見えてくるのが事実である。
オーストラリア本土は、第二次世界大戦中に日本軍機により少なくとも97回の攻撃をうけている。代表的な攻撃をあげる。
ダーウィンへの最初の空襲
188機の日本海軍艦載機はポート・ダーウィンに甚大な被害を与え、アメリカ海軍の「USS パーリー」を含む9隻の船舶が沈没した。
この攻撃で、最終的に確認できた連合国側の人的被害は251人が死亡、300人から400人が負傷し、その大部分はイギリス軍やアメリカ軍などの、オーストラリア人以外の連合国軍水兵たちだった。
ブルームへの攻撃
9機の日本海軍の零式艦上戦闘機が、西オーストラリア州北西沿岸の町であるブルームの空港と港湾施設を攻撃した。零戦による地上掃射で、爆弾は投下されなかったが、アメリカ軍のB-24リベレーター爆撃機が破壊されたほか、14機の飛行艇が破壊され、35人から40人が死亡するという大きな被害を出した。
クイーンズランド州北部への攻撃
オーストラリア北東沿岸部のクイーンズランド州最大の港湾都市であるタウンズビルの郊外には、アメリカ陸軍航空隊の主要な航空基地があり、1942年7月後半の3夜に、日本海軍飛行艇の空襲をうけた。
オーストラリア以外のシンガポールやパプアニューギニアでも戦いは続けられ、日本との戦争で死亡したオーストラリア人の数は2万とも3万ともいわれている。
また、戦争の間に捕虜になったオーストラリア兵の3分の1が処刑や病気、栄養失調のためになくなり、捕虜への虐待と非難されている。
その結果、1945年日本は力尽き、原爆を二発撃ちこまれ無条件降伏を受け入れる。
日本人の戦没者数の総数は310万と言われ、東京大空襲という日本本土への無差別爆撃で、爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上、負傷者は約15万人でる。
その後の戦勝国側の東京裁判で、戦争犯罪人として日本軍人の多くが殺害されたが、イギリス領インド帝国の法学者パール判事は、「日本を裁くなら連合国も同等に裁かれるべし」という意見書を出していたことは有名である。
多文化国家
1951年にサンフランシスコ講和条約を締結して日本との関係を修復する一方、アメリカ及びニュージーランドとの太平洋安全保障条約で、日本の再軍備や共産勢力の膨張に備えている。
その後の流れだが、年表があったので掲載する。
1950 朝鮮戦争に参戦。アメリカ軍を援助
1956 メルボルン・オリンピック開催。南半球で初めてのオリンピック開催となる。
1958年にはアジア系移民を拒否するため行なわれていたテストを廃止、1972年には移民制限が廃された。
1965 ベトナム戦争へ派兵
1967 連邦憲法が改正。アボリジ二が国民として認められる
1972 白豪主義の廃止。
積極的な移民政策により、戦後700万人だった人口は1959年には1000万人を超え、経済発展をもたらした。
インドシナ難民も多数受け入れ、アジア系社会を包括する多文化社会へと歩みだしている。
オーストラリアの歴史を見れば、白人たちの侵略という事に尽きるが、この罪を現在のオーストラリア国民にかぶせる事は理屈に合っていない。
祖先のやって来たことを現在の人間が償えという論理は間違っている。
ただ歴史は知るべきである。
知ったうえで、未来の為のより良い努力を尽くすのが、いま生きている人間の義務だと信じる。