インドネシア オランダ350年支配とムルデカ(独立)
インドネシアと言われて思う事は、まず南国だという事である。
それ以外には、前に見た「ムルデカ17805」の映画だけで、その中のシーンに出てくるインドネシアの風景だけを覚えている。
結局、大東亜戦争敗戦後の日本人の誠意だけを知りたくて見たので、インドネシアの事はよくわからなかった。
あまりにも知らないので、HPを漁ってみる。
インドネシアではコメ食で、左手は「不浄」とされるためご飯は右手を使って食べる。これはインドと同じだ。
「ナシゴレン」という料理があった。これは名前だけは知っていたが、チャーハンみたいな料理だと初めて知る。
バリ島という観光地はよく聞くし、ジャワ島、スマトラ、ジャカルタの単語は知っている程度で、映画ではゴジラvsモスラ、戦場のメリークリスマスの舞台にもなっていた。
現在のインドネシア共和国
インドネシア共和国(君主が存在しない国家)で、首都はジャワ島に位置するジャカルタ首都特別州。
国章は、「ガルーダ・パンチャシラ」と呼ばれる。ガルーダはインド神話に登場する伝説上の鳥だ。
まずは70余の民族が居住する多民族国家である。
公用語はインドネシア語なのだが、それぞれの地域で語彙も文法規則も異なる583以上の言葉が日常生活で使われているという。
宗教の自由は保障されていて、その割合はイスラム教が87.2%、プロテスタントが7%、カトリックが2.9%、ヒンドゥー教が1.6%、仏教が0.72%、儒教が0.05%、その他が0.5%とある。
やはりメインはイスラム教だ。だが魔術師・呪術医と、精霊を含めた超自然的な力を信じる人や、「お化け」の存在を肯定するインドネシア人は多い。
古代の歴史
何といってもジャワ原人が有名だ。発見後も、ジャワ島の中部・東部地方を中心に、石器とともに原人や旧人の化石人骨が発見され、旧石器時代にこの地域で人類が活動していたことが確実となっている。
またこの地域は、ジャワ・スマトラ・カリマンタンなどをアジア大陸につないでいたスンダランドという地域があって、紀元前12000年頃から紀元前4000年にかけて約8000年間にわたる海面上昇によりスンダランドは海底に没している。
インドネシアが現在のような多島海に姿をあらわすのはスンダランドが水没する約1万年前からである。
日本も中国大陸と地続きだったが、現在の形になるのは2万年ぐらい前だと言われている。
インドネシアで水稲耕作が始まったのは、紀元前2500年から紀元前1500年頃にかけてと言われていて、中国西南地方から移住した民族が始めたらしい。
ちなみに日本の弥生時代は、紀元前1000年くらい前から始まっている。
この地域では旧石器時代、中石器時代、新石器時代、巨大石器時代の4つに分けられ、そのあと金属器時代にはいる。
まあ、原人もいたのだから、かなり古い時代から人類は住み着いている。
そして遺伝子の研究でも、様々なグループが混在されていることがわかっている。
王国時代
インドネシアは島の集まりで、最初から一つの政権でまとまっていたわけではない。
島ごとに王国が出来て、それらが影響しあって暮らしていた。
インドネシアの歴史から言えば、マレー半島からスマトラ島にかけての集団が一つ。
もう一つはジャワ島で、こちらが歴史上ではメインになる。
西暦紀元前後からインド南部のインド商人やバラモン僧、中国商人の渡来とともに、ヒンドゥー教、仏教が伝来した。
特にインドのヒンドゥー教と土着のジャワ文化が融合して、ヒンドゥー・ジャワ文化と呼ばれている。
マレー半島からスマトラ島に、7世紀ごろから仏教国としてシュリーヴィジャヤ王国が栄えている。
ジャワ島では8~9世紀にシャイレーンドラ朝のもとで仏教文化が栄えている。
さらにジャワ島中部にはヒンドゥー教国の古マタラム王国、その後、ジャワ島東部には、11世紀にクディリ朝、13世紀にはシンガサリ朝が出来ている。
13世紀のジャワ島のヒンドゥー教国マジャパヒト朝は元の侵攻を撃退している。
まあ、王朝と王国がカタカナだらけなので、様々な王国がいろいろ出来上がっていたという事くらいしか、頭に入らない。
ヒンドゥー教とイスラム教
この時代はいろんな分け方があるが、ヒンドゥー・ジャワ王国時代と13世紀からのイスラム王国時代と分けたほうが頭に入りやすい。
有名な王国は中部ジャワでマタラム王国(16~19世紀)、西部ジャワでバンテン王国(16~18世紀)である。
この二つの王国はイスラム教で、インドネシアは本格的にイスラム化していく。
インドネシアにはヒンドゥー教、仏教、イスラム教が出てきているので、誤解を恐れず大雑把に分類する。
ヒンドゥー教はインドの宗教でインド教とも言われている。バラモン教から聖典やカースト制度を引き継いでいる多神教である。牛を崇拝し、不殺生を旨とし菜食主義の人が多い。
仏教は日本人にとってなじみ深い宗教なので説明不要だが、やはりインド生まれなので、ヒンドゥー教と共通する神々がたくさんいる。
イスラム教はユダヤ教やキリスト教の影響を受けた一神教で、偶像崇拝をせずアッラーのみを崇拝する教えである。
イスラム教は豚を食べず酒も飲まない戒律の厳しい宗教だが、この宗教が広まった理由の一つに、「皮膚の色、人種、豊か、貧しさは関係ない」といった神の元での平等が明確に発せられたせいだと言われている。
もう一つの理由は、これまでの宗教に愛想をつかしていた人々が、より新しい改革を掲げるイスラムに大きな魅力を感じたという所だろう。
多神教と一神教
インドネシアも13世紀までは多神教の王国が様々誕生し、13世紀以降はイスラム教でまとまりを見せている。
国が大きくなっていくと、いろんな人種の人が集まるため多民族国家となる。
これをまとめ上げるのは、やはり宗教である。
イスラム教徒はムスリムという。始まりは西暦7世紀初頭のムハンマドで、新しい宗教である。そして日本人である私には、何度学んでも実はわからない宗教である。まあ日本人は宗教そのものがわかっていないのかも知れない。
元来、南国は衣食住に関して北国より充足されていて、人間関係も緩やかだ。そしてそこには自然宗教が自然と生まれ、緩やかなまとまりを見せるのが常である。
だが、環境が変わると明確な意思を持った宗教が登場し、人々は強いまとまりを見せる。
日本も例外ではなく、最初は神仏習合の多神教で始まり、富国強兵の時代は天皇中心の神道でまとまりを見せている。
宗教が人に与える肉体的、心理的な影響は凄いことを再確認する。
350年間続くオランダ植民地時代
16世紀になるとインドネシアにも西洋がやってくる。
香辛料貿易の利を求めてヨーロッパのポルトガル、イギリス、オランダが相次いで来航する。
オランダ人たちは先に来ていたポルトガルや、同じ時期のイギリスを追いやって主導権を握りこんでしまう。
1602年にジャカルタにオランダの商人が集まって世界最初の株式会社東インド会社を設立して搾取を開始する。
さらに長い時間をかけて現在のインドネシアの領域全体に巣くってしまう。
アジアの植民地を見てみれば、インドはイギリス、ミャンマー(旧ビルマ)はイギリス、マレーシアはポルトガルとオランダ、ベトナムはフランス、カンボジアはフランス、フィリピンはスペイン、清(中国)はロシア・イギリス・フランス・ドイツ、朝鮮は日韓併合である。
植民地にならなかったのは、日本とタイだけだ。ヨーロッパにしてみれば大航海時代とか植民地政策とかいうが、アジアにしてみれば暗黒の時代だったのだ。
オランダが行った汚い方法
植民地にしたオランダは、実にねちっこい方法でインドネシアをがんじがらめにしていった。
インドネシアの民衆が結束しないよう、320種以上あった種族語をまとめた共通語を作ることを禁じた。
一切の集会や路上で3人以上が立ち話することも禁止。
一部の現地人をキリスト教に改宗させ優遇することで彼らに間接統治させる。
インドネシア人とオランダ人の混血児を生ませ、支配層として活用。
搾取をする経済の流通は華僑(中国人)にさせていた。
愚民政策と呼ばれるインドネシア人には教育をしない方針。
特定作物に特化させる強制栽培制度を採用、コーヒー、サトウキビ、藍(インディゴ)、茶、タバコを強制的に栽培させて、安値で買い取りヨーロッパへ転売した。
独立運動
こんな過酷な摂取が何百年も続けば、おとなしいインドネシアの人々にも民族意識が芽生え、1920年代にはインドネシア共産党が労働運動を通じて植民地政府と鋭く対立する。
そして民族の指導者スカルノが登場する。
現在テレビによく出てくるデビィ夫人の旦那である。デビィ夫人は赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働いていたのを、暴力団関係者から東日貿易の秘書という名目で、スカルノ大統領のもとに送り込まれる。1962年(昭和37年)にスカルノと正式に結婚、4人の夫人のうちの第3夫人になった。
しかし、インドネシア共産党は弾圧され、スカルノらの民族主義運動家は逮捕され、拷問を受けた末に長く流刑生活を送ることになった。
3年間の日本軍政
1939年ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。
大東亜戦争の最中の1942年2月、インドネシアは日本軍の侵攻によってオランダの植民地支配は崩壊した。
インドネシアには「我が王国には空から白い布をまとって降りてくる黄色い人々がやってきて、白い人を駆逐する」という伝説があった。
インドネシアに侵攻してきた日本軍のスラウェシ島メナドへの落下傘部隊は、まさに伝説そのものであり、その為日本軍はインドネシア各地で、メラプティ(旗)とインドネシアラヤ(インドネシア国歌)の大合唱で迎えられたという。
東インドを占領した日本は、インドネシア全域を軍政支配下に置く。
石油をはじめとする天然資源の確保のため、軍政に現地住民の協力をとりつける必要があったので、インドネシア人に対する緩和政策を基本とし、大東亜政略指導大綱にもとづき東インドを大日本帝国領土とすることが決定された。
オランダによって捕らえられていたスカルノやハッタらの民族主義運動の指導者を解放。
イスラーム系諸団体の宗教指導者らに協力を要請し、彼らの指導力を利用して、物的・人的資源の調達をはかろうとした。
これに併せて日本は、迫害されていたイスラム教の存在を認め、インドネシア語と日本語による教育を行った。
いいことずくめのようだが、負の部分もある。
最初は、大部分のインドネシア人が喜んでオランダの植民支配からの解放者として日本側を歓迎したが、占領後しばらくすると、オランダ同様に結社や集会、政治に関する言論、行動および民族旗使用の禁止を布告しインドネシア民衆の期待を裏切ったこともあったのだ。
インドネシア人にとっては厳しい規律の日本式の軍政や皇民化が施された。飢饉を招いた籾の強制供出。防衛強化のためのロームシャ(労務者)と呼ばれる過酷な重労働を課す。
これにより、日本に対しての反感も生まれている。
ただ、厳しい教育により優秀な人材が育成されたことや、英語やオランダ語ではなく「インドネシア語」が公用語になったことなどは事実である。
インパール作戦の失敗
ビルマ戦線において、インド・マニプル州のインパールを攻略する作戦を開始し、連合軍の補給ルートを遮断したかに見えたが、日本軍は前線への補給が続かず、作戦は発動から3か月あまりで失敗に終わった。そして、撤退路の多くで、将兵が飢えと病に倒れた。無謀な作戦の代名詞として引用されている。
インパール作戦の失敗によって戦況が悪化すると、日本はインドネシアの独立を認める方針に変更した。
1944年9月にはインドネシア国旗の掲揚と国歌の斉唱を解禁した他、1945年3月には独立準備委員会を発足させた。
日本人の葛藤
日本は大東亜という、ヨーロッパに対抗するアジア諸国をまとめるという野望を抱いて、連合軍と戦争になっている。
そして戦地で、理想と現実のはざまであがいていたことは事実である。また、日本国のやり方と日本軍人の思いのギャップにも苦しんでいた。
インドネシアではその葛藤が強く出ているのだ。
日本が連合軍に敗れたことを知ったインドネシア共産党過激派は、「日本軍は連合軍の手先となって、インドネシアの独立を妨げる敵だ」「日本人は水道に毒を入れた」などのデマを広げた。
さらに共産党過激派は日本軍が反撃できないことを知って武器を奪い、日本の民間人を殺害し、ジャワ地区の防衛司令官の邸を襲撃して旅団長を監禁し日本海軍将兵らを拉致する。
スマランの治安に当たっていた日本の歩兵隊は拉致日本人約400人の救出のためにインドネシア共産党過激派との戦闘を余儀なくされた。突入するとすでに130人の日本人が惨殺されていた。
そして、日本兵らが死ぬ間際に壁に血書し「インドネシア独立万歳」「インドネシアの独立に光栄あれ」、「天皇陛下万歳」という血文字が残っていたという。
その血文字はインドネシア側に非常な感動を与えたため、その後に記念として保存されている。
この事実は、日本国と日本人をよく表していると思う。
日本敗戦とインドネシア共和国の独立
戦後処理のため9月末にイギリス軍が駐屯したが、戦後の混乱から回復すると、オランダは植民地の復活を策してきた。
そして再植民地化に乗り出したオランダと独立戦争を戦う。
日本の連合国軍への降伏後に多数の日本の有志将校がインドネシアの独立戦争に参加して武装化した。
彼らはインドネシア側に武器や弾薬を提供した。他にも、刀剣、竹槍、棍棒、毒矢などを調達し、農村まで撤退してのゲリラ戦や、都市部での治安を悪化させるなど様々な抵抗戦によって反撃した。
この独立戦争には、スカルノやハッタら民族独立主義者の理念に共感し、軍籍を離脱した一部の日本人3,000人(軍人と軍属)も加わって最前列に立ってオランダと戦い(残留日本兵)、その結果1,000人が命を落とした。
しかしながら、インドネシアに数百年来住む華僑(中国人)の大部分はオランダ側に加担しインドネシア軍に銃を向けた。
ムルデカ 17805
第二次世界大戦における日本の敗戦後、インドネシアの独立運動のために戦った日本人兵士のドラマ。題名中の "ムルデカ(MERDEKA)" はインドネシア語で「独立」を意味し、"17805" は日本の皇紀2605年と8月17日の数字を並べたものである。
独立戦争は4年間続き、オランダに対する国際的な非難は高まっていった。最終的に、共産化を警戒するアメリカの圧力によって、オランダは独立を認めざるを得なくなった。
独立承認
こうした武力闘争と外交努力の結果、1949年12月のオランダ-インドネシア(ハーグ)円卓会議で、オランダから無条件で独立承認を得ることに成功し、オランダ統治時代の資産を継承した。
これによって国際法上、正式に独立が承認された。
1949年のハーグ協定で成立したインドネシア連邦共和国は、インドネシア共和国とオランダの傀儡政権である周辺諸国の連合体であったが、周辺諸国が翌年の1950年までに次々とインドネシア共和国に編入を遂げ、単一の「インドネシア共和国」となった。
スカルノ体制の崩壊とスハルトの開発独裁
共産党勢力の台頭を容認するスカルノ政権に対し、軍部や大資本、アメリカなどが警戒心を強め、1965年軍を背景としたスハルト将軍によるスカルノ追い落としが行われ、ついに68年に大統領を辞任する。
1960年代後半からスハルト大統領は政権を独占し、開発独裁の政治を行う。
外交ではベトナム戦争に対応して東南アジア諸国連合を結成。
だが長期政権下で不正・腐敗が進行し、1997年に民主化運動が起こり、翌年退陣した。
1998年スハルト大統領が退陣し、開発独裁の時代が終わり、民主化が始まる。
現在はASEANの中心国家として、その広大な国土、資源が重視されている。
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参考 引用 ウィキペディア 予備校講師が教えるインドネシアの歴史! 【インドネシアの歴史 Indonesian History】マジャパヒト王国と宰相ガジャ・マダ Majapahit Kingdom & Gadjah mada【ゆっくり解説 Commentary】 6分でわかる!オランダ植民地時代のインドネシア。過酷な環境と卑劣な政策【エモい留学/パレ英語村】 ~インドネシアの歴史~-20
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