シンガポール マレーの虎と中華系都市国家の誕生
マレー半島の先端にあるひし形の島がシンガポール島で、赤道直下の常夏の島である。
シンガポールは共和国で1965年で独立している。かなり最近の話である。
シンガポールという言葉はよく聞く。
やはり観光地としての知名度がたかい。特に近代的な繁華街、高級リゾートは世界的に有名で、金満家が行く場所というイメージである。
まず都市国家というのが珍しいし、明るい北朝鮮と呼ばれるくらい政府が計画しつくして都市計画を行っているからである。
他の都市国家ではモナコ公国がある。バチカン市国も都市国家であるが、カトリック教会の総本山であり、他の都市国家とは性格が異なる、極めて特別な存在である。
まず全ての事業は政府が決め、車の所有や家について国民は制限を受け、政府は事実上の一党独裁だ。
シンガポール人は中華系(74.1%)、マレー系(13.4%)、インド系(9.2%)及びユーラシア人に大別でき、大部分は2言語使用者であり、共通語及び第2母語として英語を使用する。
つまりほとんど中華系の国である。
なので国民性も中国に準ずる。例えば店員さんの愛想が悪いとか、自己主張が強いなどである。まあ中華系は台湾を除けばほとんど同じだと言われている。
シンガポールの歴史
最も古いものは3世紀の中国の文献における、「プ・ルオ・チュン」であるという。マレー語で「半島の先端にある島」という意味だ。
それ以前は不明である。
まあ何もなかったわけではないと思うが、歴史のメインはマレー半島にあるのだろう。なので歴史も単独ではなく回りの国々と被っている。
漁村テマセック
起源はよくわかっていないが、7世紀後半シュリーヴィジャヤ王国が存在している。
この王国はインドネシアやマレー半島、フィリピンに影響力をもっていて、その中で、シンガポール島は漁村テマセックとして知られていた。
シンガプーラ
14世紀末にはサンスクリット語で「ライオンの町」を意味するシンガプーラという名称が定着している。
シンガポールではスマトラより来訪したパレンバン(シュリーヴィジャヤ王国の首都)の王子サン・ニラ・ウタマによって建設され、この名がつけられたとする説を通説としている。
タイのアユタヤ朝との対立
1293年から1478年まで、ジャワ島中東部を中心に栄えたインドネシア最後のヒンドゥー教王国マジャパヒト王国で内戦が起きる。
パルグルグ戦争が起き、パレンバンの王子パレメスワラが内戦を逃れる為マレー半島を転々としていた。
パラメスワラがシンガプーラに逃れた時、アユタヤ王の女婿であるシンガプーラ王を殺害した事件をきっかけに、マレー半島の覇権を巡るマジャパヒト王国とシャムの間の争いが激化した。
パレメスワラは1402年マラッカ王国を建国し、シンガプーラをその支配下に収めている。
マラッカ王国は周辺の海洋民族を従えていったが、そのころ有力であったタイのアユタヤ朝には服従した。
15世紀になると中国の明の使節が来航し、朝貢を求めるようになった。
インドネシアの歴史でも書いたが、この時代まではヒンドゥー教だったが、これ以降イスラーム化している。
ポルトガルの侵攻によりマラッカ滅亡とシンガプーラ消滅
この地域にポルトガル人がやってくる。南にあるインドネシアはオランダ人で、この地域の歴史はヨーロッパ人種により、絶望的な被害を受け続ける事になる。
1511年、マラッカ王国がポルトガルにせん領され滅亡し、ポルトガル領マラッカが成立する。
シンガプーラ自体も1513年にポルトガルの徹底的な侵略を受け、現地住人の多くが虐殺され、町は壊滅状態となった。その後300年以上もの間、歴史の表舞台から姿を消してしまう。
1624年以降、マレー半島で採れる錫に注目したオランダの東インド会社によりマラッカはオランダの支配下となる。
300年後イギリスによる植民地支配
1819年、人口わずか150人程度のこの島に、イギリス東インド会社のイギリス人トーマス・ラッフルズが上陸を果たす。
インド会社にはイギリス東インド会社、オランダ東インド会社などがあるが、別に正当性がある会社ではなく、西洋人が勝手にアジアを奪い合わないように、集まってもうけを確保した会社であり、西欧の国王から植民地を独占してもいいという特別許可状をもらったものである。
植民地に勝手にされたアジア諸国にとってみれば、言語道断の集団であることは間違いない。
ラッフルズはシンガプーラの地理的重要性に着目し、ジョホール王国から許可きょかを得て商館を建設。
1824年には植民地としてジョホール王国から正式に割譲がなされるとともに、インドネシアを支配しているオランダもイギリスによる植民地支配を認めることとなった。
ざっくりその経緯を書けば、この地域には古代の地域人が王国を作り、興亡を繰り返しながらも繁栄していった。シンガポール島も同様だった。
だが1511年に、ポルトガルがやってきて、マレー半島を自分たちの物にしてしまう。
その狼藉の結果、シンガポールは、300年間もほぼ無人の島になってしまう。
その後、後発のイギリスが商売の為に割り込んできて、イギリスの植民地にしてしまったという事である。
移民の島
1824年、シンガポール(シンガプーラの英国読み)は正式に英国の植民地となる。
イギリスはシンガポールを無関税の自由港政策港として繁栄させ、人口を増やしていく。
この時やって来た人々(マレー人・中国人・インド人そしてヨーロッパ系のユーラシア人)の子孫が現在のシンガポール国民を構成している。
イギリスはアジア系移民に対して、民族ごとの居住地を割り当てるという民族別の棲み分け政策を実行。
その結果、3つの民族・信仰社会が分かれて存在する場になる。
イギリスによる植民地となった後は、同じくイギリスの植民地であるインドやオーストラリア、中国大陸などとの間でのアヘンや茶などの東西交易、三角貿易の中継地点として活用される。
この時期に、すず鉱山、天然ゴムなどのプランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商、行政官吏として、中国人、インド人、インドネシアなどから多くの移民がシンガポールへ渡来し、現在の多民族国家の起源となった。
1824年にはマレー人が6割ほどだったが、人口過剰であった福建省および広東省から、大量の中国人移民が押しよせるようになる。
そして1840年には中国人が過半数を超え、1910年にいたると中国人が72.1%に達する。
シンガポール自体は発展したが(イギリス人だけ儲かっていた)、マレー人を中心とした在来住民や移民労働者による自治が認められない隷属状況が続く。
20世紀に入った後には、知識層の間において独立の機運が高まると、イギリスは非常事態宣言を出し、反英活動家に対しては徹底的に取り締まりや弾圧を行う。
逮捕され裁判にかけられた労働組合や学生指導者らの弁護を引き受けたのが、のちの初代首相リー・クアンユーである。
日本による占領と軍政
イギリスは、シンガポールを東南アジアにおける植民地拠点として、15万人を超えるイギリス海軍および陸軍部隊を駐留させ要塞化していた。
大東亜共栄圏を理想とする日本は、イギリスがいるシンガポールを陥落させなければ未来はなかった。
そして、有名なシンガポールの戦いが始まる。
2倍を超える兵力差を覆して、当時難攻不落と謳われたシンガポール要塞を日本軍が10日足らずで攻略した結果、イギリスが率いる軍としては歴史上最大規模の将兵が降参した。
当時イギリスのウィンストン・チャーチル首相は自書で、「イギリス軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と評している。
日本軍の山下 奉文(やました ともゆき)中将は、この武勲で「マレーの虎」と呼ばれている。
完全再現!史上最強の軍隊 日本vsイギリス マレーの虎
その後は日本陸軍による軍政が敷かれ、シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」と改名された。
シンガポール華僑粛清事件
シンガポール華僑粛清事件とは、1942年日本軍の占領統治下にあったシンガポールで、日本軍が、中国系住民多数を掃討作戦により殺害した事件である。
なぜこれを行ったかと言えば、アヘン麻薬貿易組織や抗日、旧政府関係者の摘発・処刑のためである。
この事件に関しては、日本国内の左派の論客は、日本軍の残虐さを告発するものが殆どである。
日本軍の粛清の理由は、敗残兵が軍服を捨て一般市民に紛れ込んでいたからとされている。だが、日本軍の脅威を知らしめるために、無差別に残虐したとして、後年非難されている。
その数は日本軍の記録では6千人であり、華僑側は4万人としている。
そして現在、華僑により血債の塔(慰霊塔)がシンガポール・ダウンタウン・コアの戦争記念公園に立てられている。
私は日本軍が正義の為だけに戦っていたとは思わないので、この事件に関して、特別な意見はない。
事実を認識するだけである。
ただ、この事で日本軍の残虐の証明にするなら、ヨーロッパの東南アジアで行った何百年もの残虐な植民地支配や、連合軍による日本国土への無差別空襲や原爆投下も、同じ線上に並べるべきだと思う。
イギリスによる植民地支配の回復
1945年8月に、日本の敗戦により第二次世界大戦が終結し日本軍が撤退する。
戻ってきたイギリスによる植民地支配は継続することとなり、シンガポールの願いである独立への道は再び閉ざされてしまう。
そして長年マレー半島において搾取を行った宗主国のイギリスに対する地元住民の反感は強く、その後も独立運動が続く。
ただ、第二次世界大戦によって大きなダメージを受けたイギリスに、以前ほどの力はなくなっていた事が独立につながっていく。
マレーシア連邦誕生
1957年にマラヤ連邦が独立し、トゥンク・アブドゥル・ラーマンが首相に就任する。
その後の1959年6月にシンガポールはイギリスの自治領となり、1963年にマラヤ連邦、ボルネオ島のサバ・サラワク両州とともに、マレーシア連邦を結成する。
マレー人優遇政策を採ろうとするマレーシア中央政府と、マレー人と華人の平等政策を進めようとするシンガポール人民行動党の間で軋轢が激化。
1964年マレー系のデモ隊と、中国系住民が衝突しシンガポール人種暴動が発生、死傷者が出た。
その結果、マレーシア連邦から追放され、1965年中華系の都市国家として分離独立する。
まとめ
最初は、地域人の王国が出来て、興亡を繰り返し繁栄する。
16世紀、突然やって来たポルトガルに徹底破壊され、その後19世紀にはイギリスは約100年間シンガポールを植民地にする。そのイギリスを大東亜戦争で追い出した日本の占領は約3年半である。
戦後、戦争で力の衰えたイギリスから、マレーシア連邦は独立するが、中華系の勢力が強く、単独の都市国家として独立を果たす。
そんな流れである。
日本との関係
日本人が多く移住してきたのは明治維新後の1870年代のことで、初期にシンガポールにやってきた日本人の中には、多くの売春婦(からゆきさん)が含まれていた。
第一次世界大戦が始まると、東南アジアに向けたヨーロッパからの輸入が止まり、日本製品がそれに取って代わった。
これが引き金となり、シンガポールの日本人経済の中心は小売業、貿易業へと変化していったが、日本の敗戦後、軍や一般人を含むすべての日本人は帰国した。
その後1950年代後半には日本人の入国規制が緩和され、日本の貿易商社はシンガポール事務所を再開し、1957年には日本人居住者達によってシンガポール日本人会が再設立された。
日本企業の工場の東南アジア移転が盛んになった1970年代前半に、急激に日本人が増加し、現在に至る。
最初が「からゆき(唐行)さん」なのは悲しい。
「からゆき(唐行)さん」は、長崎県島原半島、熊本県天草諸島の農村、漁村などの貧しい家庭の娘たちが多かったと言われている。
からゆきさんはシンガポールだけでなく、中国、香港、フィリピン、ボルネオ、タイ、インドネシアなどアジア各地に出掛けて行った。これはアジア各国を殖民支配していた欧米の軍隊からの強い要望があったからだとされている。
つまり、西洋のアジア植民地支配は、日本にも大きな変化を与えている。
その事はとても重要である。
参考・引用
ウィキペディア、日本軍の通信簿・シンガポール(1、2)、完全再現!史上最強の軍隊 日本vsイギリス マレーの虎、【ゆっくり解説】~歴史編~どうしてシンガポールは発展してるの?、【ゆっくり国解説】シンガポール共和国編、シンガポールの歴史、他ホームページ多数