タイの歴史 六昆王となったサムライ山田長政
微笑みの国タイの話である。
このキャッチフレーズで連想するのは、タイの仏像のアルカイックスマイルの事である。つまり国民95%が仏教国だという事にもつながるイメージだ。
だが、微笑みではない最強の格闘技もある。
タイと言えば格闘技のムエタイ、すなわちタイ式ボクシングだ。ムエタイは立ち技最強といわれ、それに対抗してできたのが日本人が作り出したキックボクシングである。
ムエタイが盛んになった理由は、隣国のミャンマーやカンボジアに対して常に戦闘状態にあったからという。
これは地図を見れば一目瞭然で、国の回りはすべて他国と隣接している。
ヨーロッパが東南アジアに攻めてきた時、タイの回りの国はすべてヨーロッパの植民地になってしまったが、タイ国はしたたかな外交で唯一植民地にならなかった国だ。
仏教国なので一見柔らかそうに見えるが、実は強靭な国だと思っている。
そんなタイ国の歴史を調べてみた。
先史時代
紀元前2千年紀には、タイに初期の青銅器文化を持つ集落があり、続く紀元前3世紀までにはタイ東北部で製鉄が開始されたと考えられる。
それが世界史上でも比較的早期の農耕文明を持つことにつながっている。
農耕文化は鉄器の使用で飛躍的に進化するからである。
日本の場合、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説だ。遺跡の発掘から5世紀製鉄が始まっていたとされている。(弥生時代後期からという説あり)
これを思えばタイ国の農耕(稲作)がいかに早かったかがわかる。
古代のタイ国は現在の国境はなく、主に南と北の部分に分かれて文明が発達している。
まず東南アジアのマニ族が、タイ南部の先住民としてマレー半島に住んでいた。次いで、東南アジアのモン族およびクメール族が到達していたとされる。
現在のタイに居住しているタイ族は、中国の揚子江以南の地域がその起源であると言われていたが、先史時代の遺跡、古代王朝の史料から、現在その説は否定されている。
古代国家
現在のタイ国の地域に最初に現れた国家は、モン人のドゥヴァーラヴァティ王国であった(タイ人の国家ではないので、通常はタイの王朝には加えない。)。そして東のクメール人の侵攻を受けて衰えた。
その後13世紀くらいまで、この地で様々な王朝が興亡を繰り返している。
まず「幸福の夜明け」と名づけられたタイ族初の王朝、スコータイ王朝ができ、現在のタイ文化の基礎を築き上げている。
この王朝は約200年、9代にわたってつづく。
その後は国際交易港として栄えたアユタヤ王朝が栄える。この王朝は417年間続く。
17世紀には日本人も貿易でシャムにやってきて、日本町が作られ山田長政が活躍した。
王となった日本人 山田長政
山田長政は駿河国の駿府(現・静岡市)の染め物屋に育った。成長してからは、大柄で屈強な体躯を活かして藩主の籠をかつぐ人夫の職に就く。
「海を渡って一旗揚げる」という志を抱き、慶長17年(1612年)長政は23歳で駿府の豪商の船に便乗し、シャムの国(タイ国)都・アユタヤへ渡る。
長政は、日本人町の初代頭領の下で貿易の実務を学び、貿易家として才覚を発揮するようになる。
日本人の海外進出が活発になる前、日本とシャム間の貿易はオランダが独占していた。
そんな中、頭角を現した長政は、有力な日本人貿易家として江戸幕府の首脳である本多正純らに書状と献上品を送って、両国の親交に多大な役割を果たすようになる。
長政が主導したシャムと日本との貿易はアユタヤ王室に莫大な利益をもたらし、王室財政にも大きく寄与した。
貿易家としての才覚ばかりでなく、日本の軍法にも通じていた長政は戦術家としても実力を発揮していく
スペイン艦隊を2度撃退
元和7年(1621年)に日本人町の頭領として数百人の傭兵を率いる存在になったこの年、スペイン艦隊がシャムに攻め込んだ。
この頃、長政の軍勢は水上警備に当たっており、決死の奇襲を仕掛けた結果、スペイン艦隊に勝利し、王朝の平安が保たれることとなった。
寛永1年(1624年)にも、スペイン艦隊を破っており、アユタヤを狙う敵から国を守る役割を担うようになっていく。
日本人特有の忠義にも篤かった長政は国王ソングタムからの全幅の信頼を得る。
そして渡航から、わずか20年足らずで王朝の最高官位のオークヤーへと出世を果たしたのである。
だが、王の死後、王位継承争いに巻き込まれていくのである。
王朝の実力者であった大臣のカラホムは王位の強奪を画策し、長政を王室から遠ざけるために配下の国、リゴールの王へと推挙。
六昆(リゴール)の王になった長政
謀反劇の重要人物は、部下なのに王になりたい大臣カラホム。それに反対して王の息子に王位を継がせる意見の長政。
この関係で首都から地方に追いやられ、六昆(リゴール)の王となる。
長政が地方のリゴールに赴任している間に、カラホムは王の遺児を次々と殺してしまう。それを知った長政は亡き王への忠節を守りカラホムへの報復を誓った。
だが長政の側近の部下の裏切りで、長政は毒殺されてしまうのだった。
1630年、40歳の若さで殺されてしまった。
長政の去ったあとのアユタヤの日本人町では、殺された長政を慕う日本人たちの復讐を恐れたオークヤによる弾圧の憂き目にあい、ある者は抵抗して戦い、ある者は国外へ逃亡するなど混乱していく。
国王の号令のもと、日本人町の再建が図られるも、かつての隆盛を取り戻すのは難しく、次第に衰退の一途を辿った。
そして、日本で発布された鎖国令が決定的となり、完全に母国との連絡通路が途絶。
日本との貿易による生計が成り立たなくなり、アユタヤから完全に日本人の姿が消えてしまった。
この物語は私の子供時代に見聞きしていて、シャムで王になった日本人を誇らしく思っているのだが、現在では語られることが少なくなっている。残念だと思う。
1767年ビルマのコンバウン朝の侵入によってアユタヤが破壊され、アユタヤ朝は滅亡した。
イギリス、フランスの侵出
19世紀からイギリス、フランスの侵出が始まり、タイ国も植民地化の危機を迎える。
1855年、ラーマ4世はイギリスとの通商条約を締結、さらに同様な不平等条約を欧米諸国と結び自由貿易を受け入れざるをえなくなった。
しかし、その逆境の中、同時に外国人顧問を多数受け入れ、近代化を図った。
「王様と私」という映画がある。あの中で出てくるシャムの王様はタイ国近代化の礎を築いたラーマ4世がモデルとされている。
世界的に大流行した映画だが、タイ国内では描かれている事がタイ王室を侮辱するものとしてタイ国内での上映が禁止されている。
これは日本にも言える事で、世界的にヒットしたラストサムライで描かれている日本が、中国か日本かわからないような珍妙な描写が多く、非難轟々だった事と同じである。
まあ、ヨーロッパ人が持っているアジア感はいつだって適当だ。その程度の認識しかないので、平気で植民地にして虐待を続けたのだ。
次のラーマ5世は巧みな外交でイギリスとフランスを操り、両者が牽制し合ったこともあって、東南アジアで唯一、植民地化の危機を脱し、独立を維持することができた。
この歴史を見れば日本とよく似ていると思う。
第二次世界大戦 日本の進撃
1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、直後にタイは中立宣言を出す。
1940年9月に日本軍がフランス領インドシナに進駐すると、ピブーンソンクラーム(永年宰相)はこの変化を機にフランス領インドシナと国境紛争(約半年)を起こした。
タイ・フランス領インドシナ紛争
フランスは11月28日にタイ側を空爆しタイ・フランス領インドシナ紛争の開戦となった。
フランスがドイツに敗れた事と、日本軍による仏印進駐が迫っていたことなどの状況からタイは旧領回復への行動を開始したのだ。
フランスの優勢が見えたが、タイは日本の仲介により、フランスと東京条約を締結し、タイが割譲した領土のほとんどを取り戻す。
1941年イギリスやアメリカなど連合国に宣戦した日本軍が、イギリスが支配していたマレー半島へ向かい第一次マレー上陸作戦を実行する。
イギリス統治下のビルマに日本軍が進攻を開始すると、タイは領土の拡大を目指して1942年に北部より進軍し、ビルマ東部のシャン州を占領した。
また、日本軍はタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設を1942年、翌1943年10月に開通させた。
このようにタイ国は日本軍と共に領土を拡大するのだが(日泰攻守同盟条約)、日本のみが権益拡大する事に対して不信を強める。
1942年「自由タイ」という抗日運動をアメリカでタイ人外交官や留学生らと組織し活動をはじめ、アメリカと組み抗日戦を準備する。
日本が1945年に連合国に対して敗北すると、8月16日にプリーディーは「タイの宣戦布告は無効である」と宣言し、イギリスに対しては、日本より移管されたシャン州やマラヤの州を返還することを表明するなど、連合国との敵対関係を終結させようとした。
この巧妙な政治手腕により、タイは敗戦国としての状況を早期に免れたことになり、戦後はアメリカの支援で経済復興を進めることができたのである。
これらをまとめてみる。
まずタイ国の回りは、ほとんどが欧米の植民地支配下におかれていた。
タイ国は日本軍にとって太平洋戦争におけるインドシナ半島の重要な作戦基地、兵站基地、海運中継地点となりうる地であり、この地域における安定が必要だった。
だがタイ国は植民地にされていなかったので、日本はタイと戦争する必要がなかったのである。
日本軍はあくまで内政干渉をせず、戦争目的を理解してもらった上で同盟国としての友好関係の促進を努めており、タイ国の軍・民との不要な紛争の発生を防止するように厳に命じていた。
「日本・タイ同盟条約」を締結し同盟国となっていたのは事実である。
歴史系ホームページでは、タイへ日本軍が侵攻したとよく書かれているが、実情はかなり違っていた事がわかる。
民族と宗教
文化的にはインド文化の影響が強く、ビルマなどと同じく小乗仏教が盛んであり、現代においても寺院・僧侶は崇拝されており、建国の理念の一つとされている。
政治はラタナコーシン朝の王をいただく立憲君主制。
憲法と議会があり選挙も実施されているが、時として軍部クーデターが起きることが多い。
そのたび事に王様が仲介をして、なんとか平和を維持している。
さて現在はタイ国王への抗議活動が盛んに取り上げられている。
他国のことながら気になる事である。