ミャンマー/ビルマ インパール作戦とビルマの竪琴
昭和30年生まれの私にしてみれば、ミャンマーという国名より、ビルマという国名の方がなじみ深い。
ビルマと聞かれて、知ってることと言えばビルマの竪琴ぐらいである。いつの間にか、ミャンマーという国名に変更したというが、その理由は知らなかった。
そんな無知蒙昧な私が、いろんなメディアを見聞きしてミャンマー/ビルマの歴史を調べてみた。
ミャンマー連邦共和国
ミャンマー連邦共和国、通称ミャンマーは、東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家。
独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦、通称ビルマ。
通貨はチャット、人口は 5,142万人(2014年)、首都はネピドー(2006年まではヤンゴン)。
多民族国家で、人口の6割をビルマ族が占め、ビルマ語が公用語である。少数民族がおり、独自の言語を持つ民族も多い。
ビルマとミャンマーの呼称
ミャンマーという国名は1989年に軍事政権が発表したもので、この軍事政権をみとめるか否かで、国の対応が違っている。
アウンサンスーチーやビルマ連邦国民連合政府(NCGUB)のほか、アメリカ合衆国や英語圏は「ビルマ」。ASEAN諸国、日本、インド、中国、オーストラリア、ドイツ政府などは「ミャンマー」表記を採用している。
いろんな解説では、日本とジャパンと同じようなものだと書いているものもある。
ビルマ語には文語と口語の区別があり、そして国名について、元来この国では、長きにわたって文語では「ミャンマー」、口語では「バマー」と表現されてきた。日本語の「ビルマ」はこれに由来している。
だが、このミャンマーという国名に変更したのが、民主的ではない軍事政権なので、反発を示す国もあるといったところだ。
実際は「ミャンマー」も「ビルマ」も同じという解釈だが、歴史的経緯から言えば、民族はビルマ民族と言い、料理もビルマ料理と言っている。
世界的に見れば、徐々にミャンマーが主流になっている様である。
ビルマの歴史
多民族国家で、人口の6割をビルマ族が占め、ビルマ語が公用語である。少数民族がおり、独自の言語を持つ民族も多い。
ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことがうかがえるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。
ビルマ族の起源は中国青海省付近に住んでいたチベット系の遊牧民と考えられている。
ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み、都市国家を形成して海上交易も行っていた。
モン族とは中国の雲貴高原、ベトナム、ラオス、タイの山岳地帯にすむ民族集団でモン族の「モン」は「(自由な)人」・「我々」・「自由」といった意味がある。
南北の歴史
ビルマの地形は南北に細長く伸びているので、北部と南部では違う歴史がある。
北部では7世紀にピュー人がピュー(驃)を建国した。
832年、驃国は南詔に滅ぼされ、モン族とピュー族は南詔(中国西南部、雲南地方の?海地区に勃興したチベット・ビルマ語族の王国)へ連れ去られたために、エーヤワディー平原は無人の地となり、200年間にわたって王朝がなかった。
9世紀頃、下ビルマでモン族のタトゥン王国が建国された。
11世紀、ビルマ人が、ピュー人やモン人を追い、統一国家パガン朝(1044~1299年)を建国する。
パガン朝 ビルマの統一
その後もパガン朝は仏教国(上座部仏教)として続き、多くの寺院を建設したので、建寺王朝とも言われている。
元の来襲
1287年に元により都パガンが占領されて、事実上パガンは滅亡。
その後、パガンの王は元朝に従属するかたちをとって統治をゆるされたが、すでに全土を支配する力はなく、ビルマは三分される形になった。
ペグー朝(1287年~1539年)はモン人がつくった国家。ビルマは分裂期
タウングー朝 ビルマの統一
ビルマ人により1531年にタウングー朝(1531~1752年)を創建。1544年には上ビルマも平定してパガンで即位、パガン朝に続くビルマの統一を再現した。
16世紀にはイギリス、オランダが進出し通商を求めたが、タウングー朝は鎖国政策をとり、都もペグーから内陸のアヴァに移した。
この辺りは日本と同じである。日本の場合は1639年から鎖国政策をとっている。
ビルマは都を移したため、下ビルマではモン人が反乱を起こし、1752年タウングー朝は滅亡した。
日本では戦国時代から江戸時代中期までである。
コンバウン朝
1757年にモン人を制圧して、三度目のビルマ全土の統一に成功した。
コンバウン朝は強く、東隣のタイに侵攻し、アユタヤ朝を滅ぼし、中国の清軍を撃退するなど強大な勢力を持った国となった。
そしてビルマの西のインドのベンガル地方にも進出するのだが、インドの植民地化を進めていたイギリスとビルマの勢力はついに1824年に衝突した。
3次に渡るイギリスVSビルマ戦争(英緬戦争)
第1次イギリスVSビルマ戦争(1824~1826)では、ビルマ軍は近代兵器で武装したイギリス軍に敗れ、ビルマは領土割譲と賠償金を義務づけられた。
第2次イギリスVSビルマ戦争(1851)はイギリス軍が一方的に軍事行動を開始して下ビルマ一帯を占領、イギリス領に編入した。
第3次イギリスVSビルマ戦争で敗北したコンバウン朝は滅亡、翌年ビルマはイギリス植民地に組み込まれることとなった。
結局61年間イギリスと戦ったのだが敗北してしまう。
50年に及ぶイギリス統治下のビルマ
敗戦によりイギリス領インド帝国の一部のビルマ州となってしまう。
イギリスは君主制を廃止し、王は追放。政教分離をおこなう。
そして英語とビルマ語の両方で教える学校を設立し、同時にキリスト教の宣教師がビルマに来訪して学校を設立することも奨励した。
これらは、当然仏教と伝統的なビルマ文化からは反発されることになる。
イギリスの植民地政策は分断統治である。
分断統治とは、占領した国の統治を行うにあたり、被支配者を分割することで統治を容易にする手法である。
つまり少数のビルマ人に特権を与え、外見はビルマ人の自治のように見えるが実際はイギリス統治なのだ。
これにより、特権を得た少数派はイギリスの植民地支配に協力する事になる。これが後々大きな禍根となった国も多い。
1940年に植民地政府首相となったウー・ソオは、ビルマ独立を模索し、秘密裏に大日本帝国と接触していたことが発覚し、1942年に逮捕され、解任となってしまう。
産業革命の本質
イギリスの産業革命は、海外の植民地で得た莫大な資金をもとに成し遂げられたものだ。
工業革命によって、イギリスをはじめとする欧米諸国は、いっそう強力な移動手段(蒸気機関車や蒸気船)と近代的な銃火器を手にすることになり、植民地化をさらに進める事になっている。
反英闘争とビルマ建国の父アウンサン
反イギリス組織「我らビルマ人協会」(タキン党 総書記がアウンサン)が結成された。
このような民族運動の高揚を受け、1935年、イギリスは新インド統治法(世界最長文の欺瞞的憲法)を制定すると同時にビルマをインドと分離する。
この憲法は連邦制の導入と州政府での自治は認めたのだが、実際には自治は見せかけのものにすぎなかった。
タキン党はアウンサンらの指導により、激しい反英独立闘争を展開していったが、イギリス当局によって幹部が逮捕され、組織は壊滅した。
ビルマを脱出したアウンサンらは日本に亡命、日本軍の協力を得て、独立戦争のための苛酷な軍事訓練を受け、ひそかにビルマに戻り、ビルマ独立軍の母体となった。
日本軍の独立運動支援
日中戦争で蒋介石政権を降伏に追い込むことが出来ずにいた日本軍は、援しょうルート(軍事援助するために用いた輸送路)であるビルマルートの攪乱を狙い、ビルマ独立闘争の支援に乗り出した。
日本軍の援助でタイのバンコクでアウンサン、ネウィンらがビルマ独立義勇軍(BIA)を創設した。
日本軍の侵攻と軍政
太平洋戦争が開始されるとフランス領インドシナ南部を抑えていた日本軍は、1942年ビルマに侵攻し、ビルマ軍と共にイギリス軍およびイギリス領インド軍と戦い、3月にはラングーンを占領、5月までには全土を制圧した。
日本のビルマ占領は、蒋介石援しょうルート遮断することと、イギリス植民地支配の最大の拠点であるインドに侵攻する足場とするためであった。
連合国軍は一旦退却したが、1943年末以降、イギリスはアジアにおける植民地の確保を、アメリカと中国は援しょうルートの回復を主な目的として本格的反攻に転じた。
ビルマを植民地にしていたイギリス軍と、それを追い払う日本とビルマ軍という構図である。
ここまではよかったのだが、イギリスは隣の国のインドも植民地にしている。インドのインパールにはイギリス軍がいて反撃の機会を狙っている。
また、ここにも中国の蒋介石に物資を輸送するルートがあり、日本軍はそのルートを遮断させなければ、蒋介石からも反撃を受ける可能性が残っている。
日本軍はインパール作戦を実施してその機先を制しようと試みたが、中国に利権を欲しているアメリカ軍はイギリス軍と協調して動き、インパール作戦は惨憺たる失敗に終わった。
そして連合軍は1945年の終戦までにビルマのほぼ全土を奪回した。
インパール作戦
このインパール作戦は、作戦に参加したほとんどの日本兵が死亡したため、現在では「史上最悪の作戦」と言われている。
「白骨街道」の名称まであるこの作戦は、日本ではぼろくそに言われている。さらに主導した牟田口廉也中将には愚将といった評価がつきまとっているが、一部のイギリス人のなかにインパール作戦を勇敢な作戦だという評価がある。
【ゆっくり解説】史上最悪の作戦は真実か?「インパール作戦」の作戦計画:前後編 https://youtu.be/2Z74IbJ71l4
ビルマの竪琴
『ビルマの竪琴』(ビルマのたてごと)は、竹山道雄が唯一執筆した児童向けの作品。第二次世界大戦でのビルマを舞台とし、日本兵をモデルとしている。多くの版元で重版した。
現在ビデオオンデマンドU-NEXTで市川崑監督のビルマの竪琴が見放題で見れる。水島上等兵の役は安井昌二。今回の調べ物でこの映画を見る。
古い映画なので、フィルムの関係で早口のセリフが気になるが、最後まで見る。
出発の前日、水島が収容所の柵越しに姿を現わす。兵士たちは合唱し、一緒に帰ろうと呼びかけるが、水島は黙ってうなだれ、「仰げば尊し」を伴奏して森の中へ去って行く。このシーンには泣けてしまった。
イギリス連邦に加わらず独立
日本が結局敗戦となり撤退すると、ビルマのイギリスの植民地支配が復活してしまう。
しかしビルマは再びイギリスからの独立闘争を展開し、1947年にアウンサンは国内の諸勢力の統合を進め、1948年1月、イギリス連邦に加わらない形でビルマ連邦として独立を達成した。
だがアウンサンはその直前の1947年に、政治的に対立していたグループによって暗殺されていた。
ふつうここで独立が達成され、ビルマの自主再建の道があるはずなのだが、今度は国内で大きな問題が進行することになる。
軍部独裁への移行
ビルマ連邦は議会制民主主義の国家として独立したが、少数民族の不満、各勢力の対立などから内乱が絶えず、安定しなかった。
その内乱を鎮圧し、国家統一を実現した国軍が次第に政治面でも発言権を強めていった。
結局独立して14年後の1962年、軍部クーデターによってウー・ヌ首相が退陣、国軍のネウィン将軍が権力を握って軍事政権を建て議会制民主主義を否定した。
政党はビルマ社会主義計画党しか許されず、国家機構の役職はすべて軍人か退役軍人によって占められた。
国号は1974年からビルマ連邦社会主義共和国とされたが、マルクス・レーニン主義ではなく、「ビルマ式社会主義」を標榜した。
その結果、経済、教育なども国営とされ、国家への奉仕が強要された。その紙幣廃止令などの強引な政策によって経済は混乱、貧困化が進行した。
ミャンマーに国号変更
アウンサンスーチーは建国の父アウンサンの娘である。
軍政戒厳令下では学生や市民らが民主化のための大規模なデモを行ない、アウンサンスーチーは集会で50万人に向けて演説を行なう。
ここから、アウンサン将軍の娘、スーチーは民主化のシンボルとなる。
1988年、軍事政権はビルマ民主化運動を弾圧、その指導者アウンサンスーチーは自宅軟禁状態に置かれ、軍が権力を独占、1989年には国号をミャンマーに変更した。
アウンサンスーチー
計14年以上も拘束・自宅軟禁下に置かれたが、信念を貫く姿勢が世界的に評価され1991年にノーベル平和賞を受賞している。
民主化
2016年、ついにミャンマーで文民大統領が誕生。
54年余に及んだ軍人による統治が終結。さらに、NLD党首のアウンサンスーチーが国家顧問、外務大臣、大統領府大臣を兼任して政権の実権を握っている。(アウンサンスーチーは、夫がイギリス人の為、ミャンマーの法律で大統領にはなれないので国家顧問となっている。)
ロヒンギャ問題
2017年、イスラーム教徒少数民族であるロヒンギャの村を、ミャンマー国軍が襲撃して多数の死者が出るという事件がおこった。
国際世論はアウンサンスーチー政権によるロヒンギャ保護を求めたが、ミャンマー政府の正式見解はロヒンギャを認めず、バングラデシュからの不法移民と見做しており、非難が高まっている。
ミャンマー国民がロヒンギャを差別する理由には3つある。
1.ひとつは彼らが保守的なイスラームを信仰する集団だから。
2.肌の色が一般的なビルマ土着民族より黒く、顔の彫りが深く、ミャンマーの国家語であるビルマ語を上手にしゃべれない(ロヒンギャ語を母語にしている)ことへの嫌悪感がある。
3.最大の理由が、ロヒンギャがベンガル地方(バングラデシュ)から入ってきた「不法移民」であり、勝手に「ロヒンギャ」なる民族名称を「でっちあげ」、「ビルマ連邦の土着民族を騙っている」ことへの強い反発を有しているからである。
親日国ビルマ
ビルマは東南アジア諸国のなかで最も親日的な国として語られることが多いのは事実である。
左翼系の自虐史観で、日本の占領下の罪をあおる内容は多い。
だがその前に、50年に及ぶイギリスの植民地政策も同じ論調で述べるのが筋だと思っている。
ビルマが親日的な理由は、日本がイギリスからの独立に手を貸した歴史への感謝があるという。
インパール作戦などで敗れた日本兵が英軍の追跡から逃れる際、ビルマの人々がかくまったり食事を施したりしてくれた物語は無数にあるという。
これもまた事実である。
引用参考
文章の中でミャンマーとビルマが入り乱れている個所があるが、意図的に書いているつもりです。
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