浦島太郎 仏教と神道の融合

日本中が知っている浦島太郎の話だが、このおとぎ話はどんな意味を持っているのだろうか。

念のためあらすじを書く。

月岡芳年画浦島太郎

亀を助けた報恩として浦島太郎が海中に連れて行かれ、龍宮(竜宮)で乙姫らの饗応を受ける。帰郷しようとした浦島太郎は、「開けてはならない」と念を押されつつ玉手箱を渡される。帰り着いた故郷では、龍宮で過ごしたと感じたより遥かに長い年月が経っており、失意の余り玉手箱を開けてしまった浦島太郎は、白髪の老人に化するというものである。
ウィキペディア

昔話には、よく教訓が仕込まれているのだが、浦島太郎の場合、教訓らしさが中途半端なのである。

亀を助けた浦島は、竜宮城で楽しく暮らす。

この場合、亀を助けたので、そのご褒美として楽園に行けたという展開は、仏教の因果応報の教えのとおりである。

だが、何年かたって故郷に戻り、玉手箱を開けるとお爺さんになってしまう。この後半の話が何を意味しているのか不明である。

はっきり言えば、かわいそうな話である。悪い事は何一つしていないのに年寄りになってしまうのだ。

教訓といえば、開けるなといわれた玉手箱を、約束を破って開けた事で年寄りになってしまったという、軽い罪なのに厳罰を食らったという事である。

ひどい話だと思う。

そして一番不思議なのは、乙姫様は浦島太郎になぜ玉手箱を持たせたのかという事だ。

結果だけを書けば、浦島太郎と乙姫様は相思相愛の仲ではなく、異次元世界でおもてなしをしたホステスさんのようである。

だから浦島太郎が里心がついて家に戻りたいといった時、竜宮城での遊興の清算書である玉手箱を渡したという風に思える。

ただ、「開けないで」という言葉を添えているのは、やはり情があったという事なのか。

まあ、昔話の定石である「あけるな」「みるな」だけなのかもしれない。

何はともあれ、すっきりしない不思議な話である。

浦島子伝説

この話の大本は、古くは上代の文献(『日本書紀』『万葉集』『丹後国風土記逸文』)に記述が残る。

まあ、それぞれ設定も違うし、内容も違うが、この話の流れは、異境の地に行く異郷淹留譚(仙境淹留譚)に分類されている。

日本各地には、浦島太郎が居たと伝える伝承や縁起譚があり、浦島の名の出ない類話も存在する。

日本で広く普及する浦島太郎の御伽話は、明治から昭和にかけて読まれた国定教科書版に近い内容である。

しかし、その前に室町時代に成立した短編物語「御伽草子」がある。

亀の恩返し(報恩)と言うモチーフを取るようになったのも『御伽草子』以降のことで、乙姫、竜宮城、玉手箱が登場するのも中世であり、『御伽草子』の出現は浦島物語にとって大きな変換点であった。ウィキペディア

御伽草子

いろんな話があり、最後は、太郎は鶴になり蓬莱山へ向かって飛び去ったという話もあり、今の形になったのは、教育的な配慮だという説は多い。

どうも昔は「蓬莱(とこよのくに)」に行きっぱなしのようで、不思議な話の一つだったようである。

この不思議な話は、古代から中世、そして現代まで、形を変え続けながら生き残った。

その事に注目したい。

浦島太郎が、なぜ日本国民に受け入れられているかと言えば、もちろん教科書に載ったからだという解説は正しい。

だが作られた浦島話がとても奇妙で、やはり、後半部分の玉手箱のくだりが、あまりにも衝撃的だった。

ただ、あまりにも理不尽なので、鶴になって飛び立ち乙姫様と幸せに暮らしましたという結末もある。

しかし、現代に生き残っている話は、その理不尽な方で、その理不尽さがリアリティーとして感じられるからだと推測する。

民俗学では、様々な伝承を集めて、その骨子となる事柄や日本人の心を探り当てるのだが、時代と共に付け足され、内容が変わってきたけど、日本人がこの理不尽な浦島太郎の話をなぜ許容で来たかを調べてみたい。

登場人物

浦島太郎、亀、竜宮城、乙姫、玉手箱である。

浦島太郎という名前だが、港のある島の住人という事で、特別問題はない。

だが、亀に乗る、竜宮城、乙姫様の部分は、明らかに中国の道教の影響である。

中国神話等では、背中の甲羅の上に「蓬莱山(ほうらいざん)」と呼ばれる山を背負った巨大な亀の姿をしており、蓬莱山には不老不死となった仙人が住むと言われている話がある。

竜宮城は中国道教の影響で最初は海の底ではなく蓬莱山だった。

だが日本人は山より海が身近であるので海の底になったという事だろう。

また、海幸彦、山幸彦の神話や日本各所にある海神にまつわる伝説もある。

なので竜宮城という設定は万人が納得できた結果だと思う。

次は亀だが、道教では不老長寿の仙人の使いが亀という事になっている。

さらに鶴は千年、亀は万年という言葉もあるし、昔の占いも亀の甲羅であったり、元号も「神亀」「宝亀」などがある。

これは道教の影響もあるが、日本の海岸でよく見慣れた生き物で、言い伝えでは縁起のいい生き物になっている。

浦島太郎の水先案内としては、亀はベストチョイスだと思われる。

乙姫様は楽園に美女が存在するのは男の願望で、特別な違和感はない。

本来は,兄姫 (えひめ) が姉の姫をさすのに対して,妹の姫をさす弟姫 (おとひめ) を意味する言葉であった。

つまり若い女性だという事である。

これも異論はない。そして竜宮城での酒池肉林とまでは書いてないが、贅沢三昧の楽しい暮らしとある。それには美女が必需品だからだ。

ここまでは良い。

問題は後半である。

里心がついた浦島は、竜宮城を後にする。

その際乙姫は開けてはいけない玉手箱を浦島太郎に渡す。

何百年もたった故郷に戻ると、その変貌ぶりに唖然として、なすすべもなく玉手箱を開けると、一気に年寄りになってしまった。

このくだりは道教の影響はない。鶴に変身したとかの話を除けば、単純に悲劇である。

ハッピーエンド風の展開にしても、結局元の生活に戻れず、それが幸せかどうか不明と思われる結末だ。

二つの話の合体

この話で感じるのは、楽園で遊び惚けて、現実から逃避した人間は、罰を受けるという事だ。

つまり勤労を放棄した事で罰を受けたのである。

日本国の憲法には、他国にない国民の義務がある。

「憲法27条第1項 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」である。

この義務を忘れた浦島太郎は懲罰の対象になったのだ。

明治44年の文部省唱歌「浦島太郎」はその事を暗に示している。

遊びにあきて 気がついて おいとまごいも そこそこに
帰る途中の 楽しみは みやげにもらった 玉手箱

帰って見れば こはいかに 元居た家も村も無く
みちに行きあう人々は 顔も知らない者ばかり

心細さに 蓋取れば あけて悔しき 玉手箱
中からぱっと 白けむり たちまち太郎は おじいさん

富国強兵を目指す明治政府は、浦島太郎を強引に教訓話にしたのである。

「遊びにあきて」とか「あけて悔しき 玉手箱」の歌詞には、悪意がちりばめられている。

質実剛健、武士道を目指す明治政府は、日本を強力な国にしたかったのである。

また、日本国民も、遊び惚けて最後は哀れな末路という話に、リアリティを強く感じた結果であろう。

古代、異郷淹留譚だった話を作り替えたのは明治政府だ。

清楚な乙姫様も、この歌にかかってしまえば、キャバレーのママのようで、玉手箱の中身は高額な請求書だったとも勘ぐれる。

明治という時代にはそれでよかったのだ。それが結論だと思う。

だが、不思議さは、それでも残るのである。

乙姫様(豊玉姫)

時間の概念

この話を現代の科学を引き合いに出し、合理的な話だったと捉えている人も多い。

日本では複数のSF作家や漫画家が、時間経過が遅くなる現象を背景に、浦島太郎の物語の筋書きをめぐり「主人公が宇宙人とともに亀(円盤型宇宙船)に乗って、竜宮城(異星)へ光速(亜光速)移動したために地球との時間の進み方にずれが生じた」とする解釈を提示している。

また、光速ないし亜光速で飛行する宇宙船が登場する作品ではしばしば時間の経過のずれを指して「ウラシマ効果」として言及する。ウィキペディア

私も大好きな話の展開である。

古代の昔話に、最新の科学概念で解説がされ、一層の不思議さを付け加えているからだ。

欧米にも「リップ・ヴァン・ウィンクル」という話がある。

リップ・ヴァン・ウィンクルは、旅先で出会った小人に酒をご馳走になります。あまりに美味しいお酒なので、飲み過ぎて寝てしまい、目覚めると数十年経ってしまっていた、という昔話だ。

中国では邯鄲の枕(かんたんのまくら)という話がある。

ちょっと眠っている間に、人生のすべてを経験してしまう。

これらは、時間の不思議さを表している。

ニュートン力学では絶対時間の存在は存在していて、その世界は構成されていると考えられていた。

しかしアインシュタインの登場で、時間は相対的なものだという「発見」がなされた。

アインシュタインは1900年代の人物である。

この最新の考えが、すでに古代の話に織り込まれている事が驚きなのである。

想像力の範囲

人間の想像力は、現実の世界から飛び出す事が出来ないと言われている。

例えば、すごく恐ろしい怪獣を想像で書いてみても、その姿は古生代の生き物に似ていたり、不思議な昆虫の姿を超すことはできない。

つまり、人間の脳みそは人間がかかわっている世界の枠から出る事は出来ないのだ。

とすれば、今まで、オカルトや昔話、神話に関しても、いつか科学的な理由がつくかもしれないのだ。

げんに量子論という世界では、「存在は確立である」といった事や、テレポーテーション現象も確認されている。

幽霊話も多次元宇宙という論理を駆使すれば、説明できる世界である。

その事を浦島太郎の話は含んでいるので、アニミズム信仰が残る人々の間で、科学的根拠は別にして、日本人は直感的に理解できていたのかもしれない。

神道の存在

さらにもう一つ、日本人ならではの解釈がある。

浦島太郎の前半の話は、因果律の話である。

亀を助けた浦島は、竜宮城でいい目にあった。これは、いい事をすればいい目に合うといった事だろう。

仏教の思想を伝えるものだ。

ところが後半では、国に戻った浦島は何百年もたっていたことを知り、悲観する。そして玉手箱を開け年寄りになってしまう。

これは話の中にある因果律の崩壊である。

浦島太郎は亀を助ける善行を行ったのに、結局、いきなり年をとるという過酷な罰を受けたのだ。

仏教の説く因果律の理想に対し、現実を突きつけたのである。

ここには日本人の仏教に対しての、不信感があるのだと思う。

仏教やキリスト教は、死後どうなるかを説いて人類を救済してきた。

しかし、災害の多い日本では、因果応報だけでは救済されてこなかった現実がある。

自然の考えは、人間の考えと違うものであると考えている。

宗教では説明しきれない自然の摂理

毎年台風が来る、津波、火山の爆発そんな自然災害に対し、自然を肯定しなくてはいけない日本人。

そんな日本人に対して、仏教では救いきれなかったのである。

台風や津波は罰ではない。だが西洋的な考えや仏教では罰になってしまう恐れがある。

そんな感覚では日本人は生きてこれなかったのである。

だから神道が存在し続けたのである。

神道は原始宗教から発生していると言われている、祖先崇拝や自然や自然現象をも対象にしている信仰である。

とくに、一族や村などの共同体を守ることを目的に信仰されてきたと思われる。

だからこそ自然発生的に神社が建てられ、共同体は神の脅威から身を守るため、ひたすら祈るのである。

神は人間を救う存在ではなく、善悪を超えた自然の力であり、その力の災いを避けるために、清く正しく、身を律して神の怒りを買わないように祈る。

善と悪の存在を語る二元的な教えより、一つの大きな魂の中に、善と悪、幸せと災いが存在しているといった一元的な教えの方が、現実に即していたのだ。

海は豊穣で人に食糧を与えてくれるが、津波もあり時化では漁に出た人の命を奪う。雨は作物を育てるが、嵐になれば、やはり人の命を奪っていく。

そんな神道なのだが、人々の暮らしが進んだ時、死後の世界を考える余裕が出てくる。

だが神道では死は穢れであり、語る事はない。

そこに外国から仏教が入ってくる。仏教では人間中心で、死後の世界での救済を語る。

なので、神仏混合が必要だったのだ。

妙にリアルな浦島太郎の話が現在まで生き残っている理由がここにある。

亀を助けて竜宮城に行くのは、仏教の教えの通りだ。

善行を施すことで、その報いを受ける事が出来る。

だが、後半の玉手箱を持たされて国に帰り、玉手箱を開けて年寄りになる部分は、神道的な自然の定めを秘めている。

自分が過ごした享楽的な時間は玉手箱に入れられ、帰る浦島に手渡される。

それは、年を取るという自然の摂理からは、人間は逃れられない。

だからこそ乙姫は浦島太郎に玉手箱を渡したのである。

つまり浦島太郎の話は、仏教と神道の合体話だったというのが結論となる。

善意で始まる話でも、破滅的な結末をもって閉じる浦島太郎は、現実の話として受け取る事が出来たのだろう。

日本人は複数の宗教の教えの中から、自分たちに即した教えをチョイスする事が出来た超現実的な民族なのである。