大和が九州を飲み込んだのは2回めの遣隋使の時

遣唐使船。貨幣博物館蔵

遣隋使(けんずいし)の話だが、やはり大きな謎の一つになっている。

というのは第1回目が600年だが、日本書紀には載っていないが、隋書には高祖文帝の問いに遣使が答えた様子が掲載されている。

第2回目は日本書紀に記載されており、607年に小野妹子が大唐国(本当は随)に国書を持って派遣されたと記されている。

この時の隋の煬帝に宛てた国書に、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」と書き出されていた事は有名だ。

倭王、阿毎多利思北孤

どこが不思議かといえば、600年の第1回目の時の書のやり取りに、倭王、姓は阿毎、字は多利思北孤とある事だ。

「隋書」や「北史」はこの王を妻のいる男性としており、「旧唐書」においても倭国の王の姓は阿毎氏であるとしている。

さらに、この大王には妻がいて、後宮に600から700人の女がおり、太子の名は利歌彌多弗利というとも書かれている。

だが、この時期に男性の大王は「日本書紀」、「古事記」には登場しない。

一体この倭王は誰なんだろうか。

九州王朝と大和朝廷

一般的には女帝の推古天皇か厩戸皇子、蘇我馬子のことだとする論者もいる。

古田氏の九州王朝説では、この阿毎多利思比狐(アマ・タリシヒコ)は、九州王朝の王と述べている。

そして2回目は日本書紀にも載っているし、日出ずる処の天子という言葉にあるように、1回目の遣隋使の態度とかなり違う。

とすれば、2回目は大和朝廷からの使者と考えれば、辻褄が合う。

なんの問題もないと思うのだが、歴史学者の人たちは九州王朝というのを認めていないので、いろんな苦しい説で解説をするはめに陥っている。

遣隋使の意味

ウィキペディアにも技術や制度を学ぶために隋に派遣したとあるが、事実は朝貢使である。

つまり、倭国は随の国に従うという報告である。

多利思比狐は随という中国大陸の国と関係を結びたかったのだ。

なぜかといえば、九州王朝が存亡の危機にあったから、他国の力が欲しかったからだ。

九州王朝の存亡の危機 磐井の乱

岩戸山古墳(推定)筑紫君磐井

磐井の乱(いわいのらん)は、527年に朝鮮半島南部へ出兵しようとしたヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争とある。

なぜ筑紫君磐井は、大和朝廷軍の出兵を阻止しようとしたのか。

それは、朝鮮半島南部が九州王朝の勢力範囲だったからである。

朝鮮半島南部には鉄資源があり、その当時に加羅に任那という場所があった。

磐井の乱はこの鉄の奪い合いである。

そして九州の筑紫の国は負けてしまう。古事記には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」というかんたんな記述がある。

この時すでに、九州王朝は衰退しかかっていたのだ。

大和朝廷は、この時代すでに日本統一の力を蓄えていて、九州王朝は一部の反大和勢力としか見ていないフシがある。

それが「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」という表現だ。

磐井を打ち負かしたヤマト王権は、再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。

これにより九州王朝は絶対的な存亡の危機に立たされたのだ。

だから、起死回生の策として、随に使いを出したのである。

これが第1回目の遣隋使である。

隋王朝の文帝は604年に病に倒れ618年に滅亡している。

阿毎多利思比狐の使いは600年である。

多利思比狐は随の衰退を気づいていなかったと思われる。

文帝の崩御により煬帝が即位した。

煬帝は派手好みで、それは臣下にも広まり、風紀の弛緩を招いたとある。

第2回目の遣隋使は、607年であり、多利思比狐が使いを出した真面目な文帝ではなく煬帝が君臨している随である。

大和朝廷は、この代替わりを狙って小野妹子を随に使いを出したのである。

この時点で九州王朝は崩壊したと言えるだろう。

608年以降に小野妹子が再度派遣され、この時は多くの留学生を引き連れたとある。

遣隋使を善意の文化の交流だけで考えてはいけない。

日本は朝鮮半島の鉄を巡って小競り合いを行っており、大国随の後ろ盾を持って、新羅を牽制しようとしていたのだ。

日本国の精神的独立

奴国王や邪馬台国の女王卑弥呼、倭の五王が中国王朝の臣下としての冊封を受けていたのに対し、日本国は別の路線を進んでいったのだ。

1回目の遣隋使は倭国からの哀願を込めた使者。

2回目の遣隋使は大和朝廷からの正式な国交の要請。

こう考えれば、なんの不思議もない。

NHK邪馬台国サミット2021

先日NHKの2021邪馬台国サミットという番組を見た。

相変わらず九州説と近畿説の話しの内容だったが、邪馬台国と大和朝廷の連続性になると、近畿説は突然端切れが悪くなってしまう。

別に連続性にこだわらなくてもと思うのだが、学者というのは不思議な存在だと思う。

 

 

大和が九州を飲み込んだのは2回めの遣隋使の時” に対して3件のコメントがあります。

  1. takashi より:

    こんにちは初めまして。なかなか面白いですね。

    新唐書日本伝の記述には、
    『用明亦曰目多利思比孤直隋開皇末始與中國通』
    「用明、また多利思比孤の代理として隋の開皇末に、初めて直接中国と通じた。」
    って書いてあるんですよね。なんと初めて通じたですよ。倭国が魏に通じてた話は関係ない?
    『目多利思比孤』の部分は「多利思比孤の代理」という意味です。
    wikiだと、用明天皇また曰く目多利思比孤としてますが、、目って何だよって話です。
    じゃぁ、多利思比孤とは誰のことなのか? 天皇を代理にするような真の王がいたってことですよね。

  2. artworks より:

    コメントありがとうございます。阿毎多利思比狐の事が昔から引っかかり続けていました。結局、誰なんだということに詰まっています。やはり謎だらけの時代です。

コメントを残す