前方後円墳は男性のシンボル
前方後円墳の形については諸説様々で、私も持論をいくつも掲載している。
壺形土器の形、盾の形を模倣、水濠を作るための土の処理結果など秀逸だと思われる説もあるのだが、いまだ決定打はないと思う。
ある時ふと、そういえば男性のシンボルの形と言えないこともないなーと思いついてしまった。
天皇家の霊廟で、世界一の規模を誇る日本の遺跡を、男性のシンボルかもと言うのは恐れ多い。
非難轟々で反論が矢のようにやってくるだろうなーと苦笑いをしてしまう。
なぜそう感じたのかということを言い訳がましく書いてみる。
向きがバラバラ
基本的にお墓だと思うのだが、そう考えると、その並び方がバラバラで宗教的な一貫性がない。
風水や太陽の運行に対して、なにか規則性があれば理解できるのだが、グーグルで見ても、やはりバラバラだ。
これに対して、街道に沿って作られているからという説明がある。だが古墳が先にあって街道があとからできたとも考えられる。
今年、大阪の大仙陵古墳に行ってみたが、大き過ぎて前方後円墳という形を認識できなかった。
ただ参詣するのは円墳部分の先っちょなので、小山に向かって参拝することだけはわかった。
となれば円墳のほうが先だと思う。やはり向きはあるのだ。
宗教的要素が少なく、それでも向きがある。そして先端は円形の先。
そして、その大きさは権威の象徴だ。
多分現在の私達には想像もつかない気持ちが存在しているんだと感じる。
前方後円墳の起源
3世紀中ごろ、大和地方の纏向に巨大都市が出現し、最古の前方後円墳とされる箸墓古墳を築造する。
これが古墳時代の始まりだ。
3世紀といえば、九州で卑弥呼が活躍した時期である。それに対抗するかのように巨大な前方後円墳が突然造られる。
卑弥呼は女性で、ヤマト王権は男性主導である。
なのでヤマト王権のシンボルは、男性のシンボルを具象化したとも思う。
「いやいや」という声が聞こえてくる。
あまりにも露骨だし、単純すぎないかと軽蔑されそうだが、わかりやすさから言えば男根がダントツだからだ。
男女の呼び名がある古墳
宮崎県西都市の九州最大の古墳、男狭穂塚・女狭穂塚がある。
男狭穂塚が帆立貝形古墳、女狭穂塚が前方後円墳である。
伝説では、男狭穂塚が邇邇杵尊、女狭穂塚が木花咲耶媛だと言われているが、これは2基並んでいるから、男女の区別を勝手につけているだけだ。
女狭穂塚の築造年代は男狭穂塚よりやや新しい5世紀前半中葉頃だ。
ただ、古墳の築造を巡っては、近接して立地することもあり、男狭穂塚が先行古墳で、女狭穂塚の築造に際して男狭穂塚前方部を破壊したとする説と女狭穂塚が先行古墳で、男狭穂塚の築造途中に女狭穂塚との重複可能性により男狭穂塚前方部の築造を停止したとする説がある。
どっちが先かわからないのが現状である。
墓の形
縄文時代の墓の形態は、自然の洞窟や岩陰に遺体を葬ったもの、地面に穴を掘って遺体を直接納めた土壙墓、墓壙の上面や内部に礫を配した配石墓、板状あるいは扁平な礫を組み合わせた石棺内に遺体を納めた石組石棺墓、深鉢や甕などの土器内に遺体を納めた土器棺墓(甕棺墓)、竪穴住居内に遺体を放置あるいは埋葬した廃屋墓など多彩を極める。
つまり縄文時代は権力の象徴と祭祀を含めた墓ができるのは、古墳時代からである。
形の最初は円墳だ。
これは日本だけではなく、新石器時代後半から青銅器時代にかけ,世界各地での築造が認められている。
土を盛り上げるだけなので、自然にできた形で、ベーシックなものだ。
なので、この形に特別な意味はないだろう。
しかし前方円墳が出現すると、突然意味を持ってしまう。
男狭穂塚、女狭穂塚のように2基並べば、2つとも性器を象徴するように見える。
ホタテ型古墳は円形にちょっと帆立貝の出っ張りがあるように見える形だ。
これは女性器を象徴している。(または妊婦の腹で胎児を出産する象徴か)
もともと貝は女性器を表す例えとしている。
ホタテ型古墳の出っ張りは、そうするとクリトリスだろう。
そしてその横に前方後円墳だ。
見方を変えれば、男根と女陰が並んでいると見える。
人間が作るものなので、だいたい丸が基本形だと思う。だから丸いから女性性器というのもこじつけだが、日本は母系社会だったので、曲線の女性系が基本だったのだ。
ところが大和朝廷はちがう。
男系男子である。つまり男女の区別がはっきりとしている王権なのだ。
縄文の石棒
縄文時代の土偶はほぼ女性像である。
ところが石棒(せきぼう)と、縄文時代の磨製石器がある。単純に男根を模したと考えられる呪術・祭祀に関連した特殊な道具とみられるとある。
最大の石棒は長野県佐久穂町にある北沢大石棒で、長さは223cm、直径は25cmである。
古代より、男性のシンボルの形は呪術・祭祀に関連した特殊な道具だったのだ。
弥生時代
超リアルな男根が登場する愛知県小牧市の田縣神社豊年祭をみれば、みんなが納得するだろう。
稲作時代になってくると、祭礼で使われる男性のシンボルは巨大になり、あからさまに世間の前に姿を見せることになり、祭りのシンボルとして男根は大活躍をする。
まさに珍宝なのである。
現在では奇祭と呼ばれているが、全国各地に陰陽石があることを思えば、性器崇拝というより、やはり繁栄のシンボルなのである。
東南アジアの男根
ヒンドゥー教の多い地域でよく見る「リンガ」がある。
特にインドで男性器をかたどった彫像が、シヴァ神や、シヴァ神の持つエネルギーの象徴と考えられ人々に崇拝されている。
何を言いたいかといえば、男根の形は農業社会ではよく見る信仰の対象であり、人種を超えたまさにシンボルオブシンボルなのだ。
前方後円墳の堀
前方後円墳の周りには周濠がある。
この堀の形だが、前方後円墳の形に沿っていないのはなぜだろうか。
まるで包み込むような円柱である。
そしてそこに水を張っている理由も不明だ。
墓を守るためと言われているが、墓泥棒を防ぐには防御力がかなり低い。
または見せる効果だとも言われている。
だが、前方後円墳を作るのも大変な作業多々だが、堀を作り水を張るのも大変な作業である。
しかしみんなは頑張って作っている。
前方後円墳の形にそった円柱だ。
だけど円柱にはくびれは存在しない。つまり別の形なのである。
そう思えばこの2つの形がセットで、つまり男根と女性器に間違いないだろう。
水はセックスの際に溢れ出る愛液、もしくは大量の精液を暗示している。
だから前方後円墳には堀が必要だったのだ。
前方後円墳が全国に広まった理由
前方後方墳は統一された様式で、7世紀までに全国に16万基あまりが造られている。
なぜこの形は広まったのだろうか。
大和朝廷の力が大きくなるにつれて、連合国の証で作られている。
だが、前方後円墳を作るにはかなりの労力がいる。
しかし、各地の首長は頑張って作っている。
その理由を考えた時、全国の首長にしてみればわかりやすいシンボルだったからである。
そして作ることを誇りに思っていたのだ。
だからこそ、頑張って作ったのだ。
そんな物があると言えば、世界共通の繁栄のシンボル、巨大な男根である。
男ならわかると思うが、巨大な男根は憧れだからである。
もちろん大和朝廷の服従を示すのだが、それと同時に首長は自分の地域の住民に見せて、その憧れを満足させたのである。
大和朝廷が、権力のシンボルとした前方後円墳は、きっと周りの地域の首長には、そのシンボルの意味がすぐ理解できたはずである。
だからこそ大和朝廷は巨大な男根をシンボルとした古墳を作ったのだ。
形のわかりやすさと、男性のあこがれを狙った、うまいシンボルだったのだ。
だからこそ、日本隅々に広がっていった。
前方後円墳の終わり
6世紀になると前方後円墳の造られ方に変化が生じてくる。
大きさも形も変化していき、各地域ごとに変化していっている。
この理由だが、6世紀といえば仏教伝来という、大きな出来事があった。
チベット仏教やヒンドゥー教や男根崇拝はしっかり残っているが、日本に伝わってきた仏教は戒律が強い仏教だったと言われている。
修行の妨げになる煩悩を呼び起こす性的なものは、この時からタブーになったのだ。
言い換えれば6世紀後半から、仏教先進国を真似た倫理観や道徳観が日本に染み込んでいったのである。
その結果何が起こったかといえば、あからさまな男根賛美は鳴りを潜めていったのだ。
それまで、裸同然でセックスを謳歌していた日本人たちは、急に前を隠し、女性もまた貞操概念を突きつけられていったのだ。
まるでりんごを食べたアダムとイブのように、裸から衣服をつけるようになったのである。
だから、男根シンボルの古墳の製作をやめていったのだ。
男根の大きさを競う時代から、都会的な節度を持つ紳士へと憧れが移っていったのだろう。
だから前方後円墳はなくなっていったのだ。
私の想像は下品なのかもしれないし、想像力が貧困なのかもしれない。
しかし、現代でも男性の心の奥に巨根願望が潜んでいることを知っている。
これは男性が存在する限りなくなるはずはない。
愚かしく単純なのが男だからである。