杵築大社が出雲大社と改名した理由


 

17条憲法

聖徳太子の17条憲法の第一条は、「和を以って貴しと爲し忤ふこと無きを宗と爲す」だ。

原文は「一曰。以レ和爲レ貴。无レ忤爲レ宗。」とある。

よく知られている文だが、後半の「忤ふこと無きを宗と爲す」の文を読んで引っかかった。

「忤ふ」という文字である。

古い文字で、音読みはゴ、訓読みは、さからうとある。

さらに調べてみると、杵(きね)の原字だった。

これにより、長年の疑問が解けたのだった。

出雲大社

出雲大社

出雲大社は古来より、杵築(きづき)の郷に由来して、杵築大社(きづきたいしゃ)と呼ばれてきたという。

ちなみに現在の住所は、島根県簸川郡大社町杵築東宮内195。

さらに「杵築」という地名の由来は「出雲国風土記」に載っている。

諸皇神達がこの大社(現出雲大社)をキヅき給うたので「キヅキ」と称するようになったと伝えている。

神社を築いたので「キヅキ」という説明である。

まあここまでは理解できる。

不思議なのは、出雲大社に改名されたのは、1871年(明治4)だという事だ。

なぜこの時期に改名したのかという説明に、他にも出雲大社には沢山の名称があり、明治に一本に統一したというのが一般的である。

ただ、複数の別名があっても、一番ポピュラーな杵築大社に何故しなかったのかが疑問として残るのである。

ご存じの通り、明治政府は、国家の宗教を神道に据え皇室の権威を高める政策を行っている。

という事は、杵築大社では都合の悪い部分があったはずである。

それを私は「杵築」という文字だと推測した。

なぜ杵築という文字がダメなのかといえば、最初に挙げた「杵」という文字が、「さからう」という意味を隠し持っているからである。

「忤」と「杵」

最初に書いた聖徳太子の17条憲法の第一条にある「忤ふこと無きを宗と爲す」の「忤ふ」は逆らうと読む。

そして「忤ふ」は杵(きね)の原字だという。

さらに「忤、杵」という漢字がなかった時代、「杵」の代わりに「午」と書いていたという。

「午」には複数の意味がある。

1、「うま」

2、「さからう」、「そむく(もとる)」

3、「交わる」、「交錯する(いくつかのものが入りまじる)」

である。

「午」は象形文字で、もちをつく時に使う「きね」の象形である。

両人がかわるがわる手にしてもちをつく、交互になる事から陰陽の交差する十二支の第七位の「うま」・「時刻では正午」を意味する「午」という漢字が成り立ちました。

「きね」の象形

漢字/漢和/語源辞典
https://okjiten.jp/kanji363.html

つまり、大きな流れを分けて、その最初が「午」だという事である。

午前、午後もそんな意味だ。

反逆という意味の「さからう」ではなく、切り替わることを意味しているのだ。

聖徳太子の時代に「忤」という字を使っていたので、それ以前は「午」という字を使っていたはずである。

杵築大社という名称は、午築大社、忤築大社と書かれていたという事になる。

だが、いろいろ調べても、そう書かれている文章は発見できなかった。

日本で漢字が本格的に使用されるようになるのは4世紀末から5世紀初め頃とされている。

十七条憲法は604年に作られているので、まだ「杵」という字はなく「忤」を使ったのである。

その時代の出雲大社は、まだ日本史の表舞台に出ていなかった。

もちろん、全然知られていなかったわけではなく、970年の子供の教科書であった「口遊」に建物の高さを比べて「雲太・和二・京三」とあるので、それなりに有名だったのだろう。

ちなみに、雲太は出雲太郎で、出雲神社の社殿。和二は大和次郎で、奈良の大仏殿。京三は京都三郎で、京都御所の大極殿のことを言う。

現在のような出雲地域の特異性の実在は、昭和58年の荒神谷遺跡発掘からだ。

荒神谷遺跡

この遺跡の発見は日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与え、これにより、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは払拭されたとされている。

それまでは出雲大社は神話の国の話に過ぎなかったのである。

明治になり、国家神道を推進していく中で、出雲地方の杵築大社という名前に、「さからう」という意味を嗅ぎつけた官僚か学者がいたという事だろう。

そこで杵築大社を出雲大社に改名したという顛末だと推測する。

杵の字を持つ地名

出雲以外にも杵築という地名はある。

大分県の北東部に杵築市がある。この市の近くに、あの宇佐神宮がある。

宇佐神宮は八幡信仰の本拠地で古来より有名な神社なのだが、古事記、日本書記には全く記述がない。

大分県の杵築(きつき)になるのは1712年以降で、それより前は木付(きづき)と書かれていたという。

1712年幕府から藩主松平重休に与えられた朱印状で「木付」を「杵築」と誤記されていたことからだと観光案内には書かれているが、簡単な文字の木付を杵築と誤記するだろうか。

これは想像だが、昔からこの地域はもともと「杵築」だったのではないかと思う。

なぜなら、お宮を築くだけなら、築だけでいいし、わざわざ杵をつける必要がないからだ。

杵築という文字が持っている意味は、さからうである。

日本の歴史の中で、大きな変換点を持つ地域だから、「杵築」だったのだと思う。

ちなみに杵築大社(出雲大社)も、宇佐神宮も、他の神社の参拝方法とは違い、二拝四拍手一拝である。

宇佐神宮 二拝四拍手一拝

ただの偶然ではないはずだ。

それ以外にも杵の字を使った地域に、佐賀県武雄市の杵島があり、その東には長崎県の彼杵郡がある。

この地域は、古代史に土蜘蛛族がいたと記録に書かれている。

さらに佐賀県武雄市の杵島地域の近くに、吉野ケ里遺跡があり、さらに徐福伝説がある。

ただの妄想ではない「確信」がある。

杵という文字は多くの隠された意味を持っているのだ。

出雲大社の模型

 

杵築大社が出雲大社と改名した理由” に対して10件のコメントがあります。

  1. 古事記鉤 より:

    杵築大社の杵についての考察は大変勉強になりました。杵という文字は多くの隠された意味を持っているのだ。の(確信)に賛同します。私も最近この杵築大社の杵に意味があるのではと考えていたところでしたので、感動したのです。

  2. artworks より:

    コメントありがとうございます。推理は出来たのですが、残念ながら肝心の証拠が出てきません。何時かその証拠が出てくる日を待っている次第です。

  3. 古事記鉤 より:

    杵の文字が原字は忤、古代は午であっただろう、と資料で見る忤と推理の午は、古事記を理解するうえで重要な文字になりうると考えます。午は干支の七番目、宇佐神宮と出雲大社は二拝四拍手一拝で数字の七に。出雲大社の天井壁画の八雲は七つです。artworksさんの午からひらめきをもらいました。

  4. artworks より:

    コメントありがとうございました。長崎は古代、彼杵と呼ばれていました。なぜなんだろうと考え続けていた結果です。

  5. 古事記鉤 より:

    出雲の肥河(ひかわ)で須佐之男命が八尾の八俣遠呂智の中の尾を割いたら、都牟刈の太刀がでてきます。中の尾とは排泄口だと思うのです。排せつ物が流れるから肥河なのです。上流からが流れてくる(箸)は、お尻を拭くはしのことだと思います。肥河の肥は肥前長崎の肥です。この肥が彼(ひ)になり彼杵に変化したものと、単純に思いました。僭越だとはおもいましたが。

  6. 古事記鉤 より:

    ウオーキングのあと植え込み前のベンチに座っていたら、蜘蛛が目の前で巣をつくり始めました。成人男性の親指の爪ほどのお腹をした蜘蛛でした。蜘蛛は八本の足をもっていることを知りました。八本の足は八俣遠呂智の八尾と同じです。土蜘蛛族は八俣遠呂智の血統を意味しているのでは!

  7. すやすや より:

    とても興味深い推察でした。宇佐神宮の宮司家の宇佐家の方(宇佐公康さん)が書かれた本には、今の出雲あたりに菟狭族(ウサ族)がいて、他の勢力から圧迫されて、大分の地に移ってきたのでは?みたいな内容が書かれていました。(うろ覚えてすみません。)そして、そうした軋轢が出雲の白兎(菟狭族と和邇族の対立。)として書かれているとも。杵の逆らう、まつろわないというのは、そうした歴史を背負っているのやもしれませんね。

  8. artworks より:

    コメントありがとうございます。新しい事実を教えていただきありがとうございます。

  9. 寝てたウサギ より:

    戦火で長く消失していた東京駅八角形の東西ドームは牛頭天王の八王子による方位結界です。陰陽道を心得た雲の上の人たちからの指示で帝都の玄関口から疫病を入れないように設けたと聞いています。
    1907年東宮(大正天皇)出雲大社参拝・韓国京城(ソウル・新羅ソシモリ)訪問の翌年から建設工事を開始しました。
    その設計を担当した建築家辰野金吾は佐賀県唐津市出身ですが、神功皇后・武内宿禰・応神天皇と縁の深い、佐賀県武雄市武雄温泉楼門の設計も行いました。そして、この龍宮の形をした建物の扁額は「蓬莱泉」です。

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