日本と朝鮮半島(5) 大陸倭語と日本にやって来た倭人渡来人

アムール川流域の祖先系統は赤、黄河流域の祖先系統は緑、縄文人の祖先系統は青で示されている。赤い矢印は、新石器時代にキビ農耕民が東へ移動し、朝鮮語族やツングース語族をもたらしたことを示している。黒の矢印は、後期新石器時代から青銅器時代にかけての稲作農業との統合を示し、朝鮮半島を越えて日本に日琉語族をもたらした  ウィキペディア

 

大陸倭語(たいりくわご)はかつて朝鮮半島の中央部と南部で話されていた絶滅した日琉語族の一種として、現在多くの言語学者が想定している言語(群)である。古代の文献に記載されている地名が論拠となっている。

『三国史記』は、668年に終わる三国時代についての歴史書であり、古典漢語で記されている。三国史記の37巻は主に新羅に征服された高句麗などの地名とその意味について記述がある。

「買忽一云水城」という文は現在水原として知られている都市について述べている

これは「買忽は(別の)或る箇所(文献)では水城と云う(記されている)」という意味であるが、買忽という文字は名前の音を記録したもので、水城という文字はその意味を表したものだというのが通説となっている。

〈買〉と〈忽〉はそれぞれ「水」と「城(都市)」の地元の単語の発音を表していると推測される。

 

まあ、上記のような言葉達が大陸倭語の存在を示しているというのである。

 

さらに「高句麗地名」中の倭語と韓語 : 濊倭同系説の可能性という論文が2019年に伊藤英人氏が『専修人文論集』で発表している。2020年2月18日に東京大学で開催された講演会でも、このテーマが取り上げられました。

伊藤氏は、6~8世紀の濊語と古代日本語に系統的な関係がある可能性があると述べています。

 

濊倭同系説の可能性という論文は知らなかったが、うなづける部分が多い。

なぜなら、この「濊」は、風俗が日本とよく似ているからである。

 

濊という国を作った人種

濊と貊は違う民族だとされているのに、ひとまとめに表記されている理由がよくわからない。

 

複数の歴史書によると、高句麗は中原から渡ってきた民族ではなく、遼東と朝鮮半島中北部一帯の土着族である濊貊族が建てた国であると記録されています。濊貊は、中国の北方で活動していた貊族とは別の存在であり、三韓の韓族と同じ東夷族に属します。

濊は紀元前2世紀以来、約10世紀くらいまで存在していたとされている。地域によっていくつかの集団に分けられていたと書かれている。三韓の韓族と同じ東夷族ともある。

武田幸男は「東海の商賈(商売)、つまり日本海沿岸に居住し、活動していた商賈」とする。穢族には、狩猟漁撈で獲得したものを、広く販売する商賈もいたことを示す。

麻布を産し、蚕を飼って緜(まわた)を作る。「楽浪の檀弓(まゆみの木の弓)」と呼ばれる弓はこの地に産する。海では班魚(ハモ)の皮を産し、陸地には文豹が多く、また果下馬を産出し、漢の桓帝のときこれが献上された。

 

班魚、文豹、果下馬を調べてみたが、よくわからなかった。文字からすると魚や動物、背の低い馬だろうとは想像できる。

中国の歴史書の制作者も、濊がよくわからなかったと思う。

濊と貊は同種の近縁となっているが、くっ付いたり離れたりしている。

別の辞書には濊名。中国古代、中国東北部から朝鮮半島北東部にかけて居住していた民族の名。連記されることが多いが、濊族と貊族の別々な民族であったと考えられる。

うーん。結構複雑だ。

濊が縄文倭人 貊が朝鮮人系ととらえたほうがわかりやすい。

中国からすれば、二つをまとめて濊貊と呼んでいるが、やはり対等ではなく主従があったと思われる。

貊から扶余、そして高句麗となる。

この流れだと高句麗は、朝鮮人系と思えるのだが、大陸倭語(たいりくわご)の話では、高句麗の地名の一部が大陸倭語だという事である。

彼らの言語は,白鳥庫吉によればツングース系を主として,若干のモンゴル系を混合したものと推測されている。学者によって、かなりまちまちである。

高句麗人は、独自の文化や言語を持っていましたと解説されるが、記録などがほとんど残っていない。

なので、重要な手掛かりは古地名である。その研究から大陸倭語が想定されたという事である。

高句麗には高句麗人(コギュリン)や中国系の民族(漢人)、モンゴル系の民族(鮮卑など)などが挙げられているが、倭人たちも混じっていたのである。

言葉に関しては様々な説があることを記す。

 

●日本で高句麗をツングース系の国家とする学説が日本の学界では一時広く受け入れられ日本語圏では多くの書籍・辞典において高句麗がツングース系という説明が行われていた。
(ツングースは、主にロシア極東地域や中国東北部シベリアや極東地域)

●韓国の学者の多くは古くから高句麗語を始めとした「扶余系」の言語を古代朝鮮語の方言として扱っている。

 

高句麗は複数の民族が存在していたらしく、様々な意見が出ているのだと認識する。

そして、高句麗地名から復元可能な語彙の中に日本語と類似したものが多数みられることから、高句麗語は日本語の系統論においても古くから注目されている。

これから先は、説なので事実かどうかは不明だ。

●クリストファー・ベックウィズは高句麗語を日本語の姉妹語と仮定し、両者の共通祖語としてCommon Japanese(日本語)-Koguryoic(高句麗語)を想定した。

●李基文はあるいは高句麗語は日本語と朝鮮語の中間的な言語であったと想定できるかもしれないとも述べている。

 

なるほど、様々である。

 

●加羅の権力層には倭系の姓を帯びる集団が検出される。浜田耕策は「朝鮮半島からの『渡来人』が古代日本の国家形成に果たした成果を評価する『渡来人』史観は近年注目されている百済や伽耶にも倭人の『渡来人』がいたことが見られる。

 

ここで『渡来人』という言葉が出てくる。とても重要だと思う。

だんだんまとまりがなくなったので、最初の問題に立ち返ってみたい。

紀元前五千年ほど前に、朝鮮半島にわたった縄文人は、朝鮮半島にやって来た中国人に影響され、稲作を始めたと思われる。

縄文系倭人の使う言葉は、高句麗時代までその跡が確認されるので、大陸倭語は綿々と生き続けたのだろう。

縄文系倭人は大陸系民族との混血もあって、日本国倭人と違う発展をしていく。

それが「濊」だと推定される。

この想定は、意外と多くの学者から支持されている。

その後、古代満州南部から朝鮮半島北部にかけての地域で確立された朝鮮語族に属する言語集団が北方から南方へ拡大し、当時朝鮮半島中部から南部に存在していた日琉語族の集団に置き換わっていったとしている。

この過程で南方へ追いやられる形となった日琉語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この推論だと、日本の弥生時代から飛鳥時代までの、朝鮮半島との交流が、疑問なく理解できる。

 

朝鮮半島

 

稲作時代、朝鮮半島から逃れてきた渡来人たちは、ほとんど倭人語を話す人たちだったのだ。

だからこそ、大きな争いも起きなく、日本国内に溶け込んでいったのだ。

もう一つ大切なことがある。

なぜ、古代の縄文人が、日本を離れ朝鮮半島にわたったのかという事である。

 

幸屋火砕流と鬼界アカホヤの広がり。九州南部・東部、四国、本州瀬戸内海沿い、および和歌山県で20 cm以上あり、広くは朝鮮半島南部や東北地方にも分布する。ウィキペディア

 

これは鬼界カルデラの大噴火が原因だろう。

約7300年前の大規模カルデラ噴火は過去1万年の内では世界最大規模で、火砕流が九州南部にも到達し、九州南部の縄文文化を壊滅させたと推測されている。

壊滅的な被害を受けた地域の縄文人は、無人の朝鮮半島へ移住したのである。

Y染色体ハプログループ

遺伝子ではどうだろうか。

日本人、朝鮮人、中国人の男性のY染色体ハプログループには違いがあるのは事実である。

やはり、日本列島の人々は大きな混血はなかったのである。

ただ、弥生時代、大陸系倭人とともに、他民族もやって来たのは間違いないだろう。

大陸系倭人は、中国系、北方騎馬民族系、朝鮮語系とも交流があり、その文化の一部は弥生時代に持ち込まれたと思われる。

一般の多くの説に、中国系や朝鮮系の人たちが、渡来人として数多くやって来たという説は、言葉や文化を考えると、理解できず、受け入れることができない。

アジア人なので顔かたちはよく似ている。

しかし、それらをはっきり分けているのが言語である。言葉が違えば、文化も違う。

紀元前五千年前に朝鮮半島に移民した、縄文人たちは、古代倭語という言葉を使い続けていたのだろう。

これが今回の結論になる。

 

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