今更ながらの「ルッキズム」
ルッキズムと過度な権利意識について
人を外見で評価することを「ルッキズム」と呼ぶらしい。
新しい言葉だと言われているが、古代から人間社会では当たり前のように行われてきたことである。
「ルッキズム」という用語は、1970年代のファット・アクセプタンス運動の中で初めて登場した。
1978年の『ワシントン・ポスト』の記事によれば、「ルッキズム」という言葉は“見た目に基づく差別”を表すものとして、“太った人々”によって作られたとされている(出典:ウィキペディア)。
「人を外見で判断するな」というのは、多くの人が理解しているし、ある意味で当然のこととも言える。
太った人々が見た目で差別されてきたという怒りが、この言葉の原点なのだ。
過度な権利意識は社会を壊すのか?
「権利意識」とは、自分(または集団)が持つ権利を正しく理解し、それを主張・保護しようとする意識のことだ。
たとえば、「働く人の権利」「少数派の権利」「表現の自由」「ジェンダー平等」などがこれにあたる。
しかし、この意識が過度になると、以下のような問題が起こる。
他人の権利や立場を無視して、自分の権利ばかりを主張する
義務や責任を果たさずに、権利だけを要求する
あらゆる不快や意見の違いを「差別」「抑圧」と決めつける
このような「過剰な権利主張」は、社会にさまざまな悪影響を与える。
社会のバランスが崩れる
社会は、「権利」と「義務」、「自由」と「責任」のバランスの上に成り立っている。
どちらか一方が強くなりすぎると、対話が成立しにくくなり、分断や対立が深まってしまう。
対話が困難になる
過度な権利意識は、「自分が正しい」という前提に立ちやすい。
そのため、異なる意見に対して耳を貸すことが難しくなり、建設的な対話ではなく「攻撃」や「キャンセル」に発展してしまうことがある。
権利の価値そのものが損なわれる
本来、守られるべき正当な権利さえも、「わがまま」「被害者意識」と捉えられやすくなり、必要な保護や支援が軽視される恐れがある。
では、どうすればよいのか?
「権利の主張」は必要不可欠。しかし、それは「他人の権利」と両立するかたちで行うべきである。
「義務」や「他者との共存」もセットで考えなければならない。
お互いの立場を尊重しながら議論できる「寛容な空間」を守ることが大切だ。
とはいえ、こうしたことを声高に語るのは、人間だけかもしれない。現実には、世界中のペットたちは見た目だけで判断され、売買されている。
やはり、私たちの社会は矛盾に満ちているのだ。
過度な権利意識が「自分さえよければいい」という姿勢と結びつくと、社会の調和が乱される恐れがある。
むしろ、バランスと共感を忘れたときにこそ、社会はゆっくりと壊れ始めるのかもしれない。