令和版 長崎地名考 野母

地名の由来を考えるのは難しい。

人々は、いろんな事情で、その場所に名前をつけていく。

その事情は、記録に残っていない場合が多く、憶測に終始してしまうからである。

長崎市内をうろうろしていると、気になる地名に出会う。

例えば、野母崎、平という字がつく地名、原をばらと読む、そのき郡、女の都(めのと)などである。

一応いろんな答えをひねくり出してきたのだが、正解かどうかは不明である。

現在はAI時代である。AIは歴史的事実に弱く、あんまり使わなかったのだが、最近の進歩は目覚ましいみたいで、もう一度使ってみようと思う。

そこで、令和版長崎地名考を書き足してみたい。

野母という地名がある。長崎半島のことである。

 

ジェミニAI 地名の由来について:

「野母」の地名の由来には諸説ありますが、有力な説の一つに、紀伊国(現在の三重県南部と和歌山県南部)から漂着した漁師夫婦にまつわるものがあります。

伝説によれば、夫は故郷に帰りましたが、妻がこの地に残り開拓したとされ、「熊野の母」が省略されて「野母」となったという説があります。

この地域にある熊野神社も、この漁師夫婦が熊野から勧請したものとされています。

 

確かに野母崎には熊野神社がある。

そして、樺島にも樺島熊野神社がある。

「熊野の母」説が一般的のようだ。

一度行ったことがあるが、神社の規模は樺島熊野神社が大きい。

野母崎の熊野神社の由緒によれば、658年(斉明天皇4年)紀州熊野の漁師夫婦が漂着し、夫婦の故郷の神、熊野神社の加護によるものと感謝し自宅近くの丘に勧請しました、とある。

 

658年(斉明天皇4年)とは古い。

その前後には645年「乙巳の変」(いっしのへん)「中大兄皇子」、「中臣鎌足」らによって「蘇我入鹿」(そがのいるか)を暗殺して蘇我氏を滅亡させた。

そして663年(天智2年)白村江の戦いが起こっている。

日本の大変換期である。それらに関係しているのだろうか。

黒潮に逆らって漂流できない

「紀州熊野の漁師夫婦が漂着し」だが、これが不明なのである。

 

黒潮の影響

和歌山沖には、世界有数の海流である黒潮が流れています。この海流は時速2~4ノット(約3.7~7.4km)の速さで北東方向、つまり和歌山から本州の南岸に沿って流れています。

長崎へ向かうには、この強い流れに逆らって西へ進む必要がありますが、自然の漂流ではほぼ不可能です。

 

これがAIの答えである。

まあ、紀州熊野から漂流したとは書いてないが、科学的に無理なのである。

 

さらに質問してみた。

長崎県野母崎に漂着する場合、最も有力な出発地点は、日本海を北上する対馬海流の経路上の地域です。

和歌山沖を流れる黒潮とは異なり、対馬海流は東シナ海から対馬海峡を通って日本海に流れ込む暖流です。

この海流は五島列島を含む九州西岸を北上するため、この流れに乗ることで長崎方面に漂着する可能性があります。
したがって、東シナ海や朝鮮半島、または対馬海流の経路上の地域から出発した場合に、野母崎に漂流する可能性が高くなります。

韓国や中国の沿岸部など、東シナ海から日本海にかけての地域が、対馬海流に乗って漂流物が野母崎にたどり着く可能性がある海外の出発点となります。

つまり、野母崎に漂流したとなれば、韓国や中国の沿岸部なのである。

野母崎の熊野神社は、漁師夫婦が熊野から勧請したものとあるが、違う理由で熊野神社はできたのだと推測できる。

野母崎には浦祭りというのがある。

野母浦まつりは長崎県、野母町の伝統行事です。

約1300年の歴史があるとされ、漁業の信仰と海上の安全を祈願し毎年8月13日に行われています。旧盆に行われるもので神社仏閣に奉納する踊りと龍神、恵比須神社神社を祀る海上の浦まつりの二つからなり、これを総称して「野母の盆踊」と呼んでいます。

奉納踊りは「鉾舞(ほこまい)」「モッセー」「中老(ちゅうろう)」「トノギャン」で構成されてます。

奉納踊の中の「中老(ちゅうろう)」だが、「中老」の催馬楽(さいばら)の歌 で「催馬楽」は鎌倉時代から伝わる宮廷歌謡の一つ。その中の代表的な歌が「ちゅうろう(中老)」で、「文書き」など18種類がある。https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/uta/050729/

これから以降は、昔書いた

樺島 熊野神社 謎の多い野母崎と推理 | Artworks

野母崎の樺島大橋を渡り、樺島内の東側、樺島郵便局付近の港を過ぎて、山沿いの民家の中に参道入口がある。 一の鳥居…

というブログに、結構しつこく書いているので概略だけを述べるが

この地域には京都の貴族の文化があるのだ。

なぜ貴族の文化があるかといえば、昔この地に、京の貴族たちが居たからである。

野母崎には、長崎では最古の寺院(709年)といわれる観音寺がある。

このお寺は江戸時代大変栄えている。

 

その理由は、脇岬が長崎半島南端部にあり長崎へ出入りする唐船の風待ち港として用いられたことから、寺内寄進物の施主には長崎の町人・遊女のみならず中国貿易商人らも名を連ねているからである。ウィキペディア

 

また樺島という地名の由来だが、

島内には各所に湧水が多く、船舶に水を補給するための井戸が随所に掘られ、水が豊かであることから「川場島(かわばしま)」→「樺島」と転訛したとされる。ウィキペディア

 

つまり、色んな国の船がこの島に立ち寄らなければいけない事情の一つに、水の補給があったのだ。

 

貿易港

中国貿易商人たちが、この地にやってきているのは事実である。

この地で、風待ちをし、水を補給して、船が泊まっていた。

野母崎にやって来た中国の貿易船には、「媽祖(まそ)」または「娘媽神女」を祀っていた。

媽祖

 

AIの解説

媽祖は、航海、漁業の神で、台湾、福健省など華南地方海岸一帯で信仰されている。

船への安置: 中国の貿易船や漁船には、小型の媽祖像(「船菩薩(ふなぼさつ)」)が守護神として安置されるのが一般的な習慣でした。

日本への伝来: 媽祖信仰は、中国の商人や移民、僧侶などによって日本にも伝わりました。長崎では、来航した中国船が媽祖像を携えており、長崎の唐寺には媽祖堂が建てられました。

 

この事で、地名がついた場所がある。

 

沖縄県
天妃(てんぴ)小学校(那覇市):かつて那覇の久米村に、中国から渡来した人々(久米三十六姓)が建てた「上天妃宮」という媽祖を祀る廟がありました。この廟の跡地が現在の天妃小学校のあたりとされ、地名にもその名が残っています。

鹿児島県
野間半島(南さつま市):この地域に伝わる媽祖信仰は、薩摩藩が中国や琉球との交易を行っていた歴史と関係しています。特に「野間権現」として、媽祖信仰が日本固有の神仏習合の形で定着しました。「のうま」という地名自体が「媽」に由来しているという説もあります。

海の女神の媽祖は、中国の福建省や広東省などの沿海部を中心に、航海の安全を守る道教の女神として信仰されている。

別名は「娘媽(ニャンマー)」、「天妃(てんぴ)」、「天后(てんこう)」、「天上聖母(てんじょうせいぼ)」など、様々な尊号や愛称で呼ばれています。「娘媽神女」もその一つです。

 

「娘媽」は「ノーマ」とも読む。

鹿児島県の野間半島は「のま半島」である。

長崎の野母(のも)も「娘媽」(ノーマ)から来ているのだ。

後一つは、この地域には京都の貴族の文化がある理由だ。

前回の文では

その時期に、紀州熊野の漁師夫婦が野母に漂流してきたという話だが、これって大化の改新で、体制側ではない一族が、奈良から逃げだしたという事ではないのか。

と書いた。

まあ、それ以外にも可能性がある。

663年(天智2年)の白村江の戦いで、日本はボロ負けをしている。

 

白村江の戦いの敗戦後、日本の兵士たちは九州の筑紫(現在の福岡県)に撤退しました。この帰還には、百済からの亡命者も多数含まれていました。

野母崎周辺には、古くから遠見番所が設置されていました。「遠見番所」は、遠方からの船舶(異国船など)をいち早く発見し、狼煙(のろし)などで知らせるための監視所です。

この番所は防人制度とは直接関係ないと書かれているが、

野母崎は、長崎半島の南端に位置し、外海に面した要衝です。このような場所は、古来より外敵の監視や、船舶の出入りを制御する上で戦略的に重要視されていました。白村江の戦いの後、日本が大陸からの脅威を強く意識していた時期に、このような地の利がある場所に防備が施されるのは自然なことです。

 

また、鎌倉時代には、中央の武士たちが長崎にやってきている。

先に、熊野信仰は平安貴族で大流行したと書いた。

人が長崎に流れてきた時、平安貴族の文化が流れ着いたことは、十分可能性があり、熊野神社や山岳信仰の行者山がある。

樺島の方には、八坂神社、祇園山公園もあり、さらに「脇岬(わきみさき)祇園祭」という祭りがあり、その最終日に行われる激しい儀式から、「けんか祭り」という別名で呼ばれている。

状況証拠はたっぷりだが、決め手の物証がないのは残念である。

 

令和版 長崎地名考 野母編はこれで筆をおく。

基本的な推理は変わらなかったが、おそらく正しいと思う。

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