高天原の謎(2) 稲作
斎庭(ゆにわ)の稲穂という話がある。
天照大御神が孫の瓊瓊杵尊に地上を治めるよう命じた際、
「吾が高天原にきこしめす斎庭(ゆにわ)の稲穂を以ちて、また我が御子にまかせまつるべし」
と述べ、この神聖な稲穂を地上に授けたというものです。(日本書紀)
「斎庭」は、日常的な空間とは区別された、神聖な儀式や神々との交信のために特別に設けられた、清浄で神聖な場所のことである。
つまり、稲は、高天原という神々の世界から地上にもたらされたものなのである。
それ以外にも、稲の描写はある。
素戔嗚が大暴れをした時の話である。
スサノオは、天照大御神が経営する高天原の田んぼの畔を壊し、用水路を埋めたり、神聖な殿に糞をまき散らしたりといった狼藉を働らいている。
高天原に田んぼがあったのである。
これだけだったら、高天原が稲作をやっていた地域となり、中国沿岸部の話となる。
しかし、五穀の起源神話というのもある。
食物の神である保食神(うけもちのかみ)が月読命に殺された後、その身体から様々な穀物が生まれたという神話が語られている。
保食神の頭から牛馬が、額から粟が、眉から蚕が、目から稗が、そして腹から稲が生まれたとされています。
これらの穀物は天照大御神に献上され、天照大御神はこれらを「人民が生きていくのに必要な食物」として、稲を水田の種とし、他の穀物を畑の種と定めました。
というわけで、神から生じたのが稲だということになっている。
こうなってくると、稲作のあった地域が、高天原だとは、単純に言えなくなってしまうのだ。
ところが、この話をもっと詳しく調べてみると、稗や粟は古代日本に自生していたのだが、牛馬や蚕は輸入品である。
馬は、古墳時代中期(おおよそ4世紀末から5世紀初頭)に、大陸(朝鮮半島経由)から 軍事目的で本格的に導入されたと考えられています。馬具(輪鐙など)の出土がその証拠とされています。
牛もほぼ同時期(5世紀半ば頃)に、主に 農耕や運搬の目的で伝来したと考えられています。
ということである。
3世紀頃の『魏志倭人伝』には、当時の邪馬台国に「牛馬なし」と記されているからだ。
さらに蚕については
蚕(かいこ)が日本に伝えられた時期については、いくつかの説がありますが、一般的には以下の時期が有力視されています。
2世紀頃: 『日本書紀』や『古事記』には蚕に関する記載があり、『魏志倭人伝』にも中国への貢物として絹織物が含まれていたことが記されています。これらを根拠に、2世紀頃に中国から蚕種(蚕の卵)が伝来したという説が有力です。
弥生時代中期: 養蚕技術が本格的に伝わった時期としては、弥生時代の中頃という説もあります。
こうなってくると、五穀の起源神話の存在感は無くなってしまう。
日本の神話が出来上がった頃は、稲も稗、粟、蚕、牛馬が日本にいて当然だった頃に作られているのである。
蚕の場合、一般的には2世紀頃に伝来したとされ、弥生時代中期には技術が普及し始めていたと考えられている。
牛馬は古墳時代である。
牛馬の存在は次第に社会に広がり、権力者のお墓である古墳からは、牛や馬の埴輪が出土しているからである。
なので日本神話の成立は、古墳時代以降ということになってくる。
古墳時代以降に神話が出来上がったとすれば、高天原の場所は、肥沃な土地であればどこでもよかったのだ。
こうなって来ると、ますます、場所は分からなくなってきてしまった。





