初めての屈辱。白村江の戦いに負けてから生まれた大和魂
白村江の戦いという大戦争があった。
663年の話である。
663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。ウィキペディア
この戦いで、結果的に倭国は日本という国家に成長していく事になる。
縄文、弥生、古墳時代という時代は、日本の少年期である。
豊かな自然の中で、独自の生活様式と豊かな文化をはぐくんでいき、朝鮮半島南部までを、倭国は生活圏としていた。
時代は進んでいき、大きな壁にぶち当たっていく。
それが、中国大陸の情勢である。
それまで隋という国が中国大陸にあった。
そして朝鮮半島には、高句麗、百済、新羅という国が出来、比較的安定していた時期である。
隋は、南北戦乱期の中国を久しぶりに統一した国である。
結構いい事を行っており、科挙(かきょ)という官僚を選ぶ試験制度や
黄河、淮河(わいが)、長江を結ぶ運河を作っている。
腕力のない頭がいいだけの国だったようだ。
しかし、朝鮮半島北部にあった高句麗(後の高麗)を攻めあぐねていた。
高句麗は領土も大きく、強力な軍事国家だった。
でたらめの多い韓国歴史番組で話題になった朱蒙(チュモン)によって作られてた国である。
現在韓国では、朝鮮民族と強力軍事国家、高句麗(後の高麗)とを結び付けて語るが、まったく関係はない。
高句麗(後の高麗)は様々な異種族や亡命中国人集団などを含む複雑な社会、又は蒙古系遊牧民の混血、満州族の祖先などといわれている。
寄せ集めだが、統率力の高い広域集団暴走族の国だった。
この暴走族の高句麗は、百済と同盟を組んでいる。
百済は倭国の属国で、素直でいい奴なのだが、あんまり腕力はない。
しかし、どこかつながる部分がある友達関係だったようだ。
まあ、高句麗は中国人や朝鮮人とは違う民族だったのは確かなようだ。
この高句麗を隋は4回攻撃して失敗している。
この強力な高句麗のおかげで、朝鮮半島は安定していたとも言える。
この時期の倭は朝鮮半島に進出しており、百済や新羅を破り、倭の臣民としていた。
順風満帆とまではいかないにしろ、倭の一番いい時期だったかもしれない。
例えば、もともと利口で、運動能力も優れていた青年が、そのセンスだけで、回りの地域を仕切っていたとも言えるだろう。
隋は高句麗との争いで、疲弊していき僅か29年で滅び、新しく唐という国が出来る。
この唐は隋と一味違う。
当のシステムを受け継ぎ、より強大な大帝国へと成長していく。
唐は約300年も続き、日本にも多大な影響を与えた国である。
この唐は戦略にも優れ、頭脳もあり腕力もある広域政治結社の雰囲気がある。
この唐は、暴走族の高句麗を攻めるため、新羅を利用する。
新羅は粗暴だが組しやすい高校生番長組織のようである。
百済は隋が高句麗を攻めあぐねている間、新羅を攻めたたている。
百済は高句麗と組んでいるので、強気になったようだ。
唐にしてみれば、暴走族の高句麗と、気のいい百済を相手にしている事になる。
そこで、百済から攻められている新羅をそそのかして、高句麗を攻める事にした。
ここに、唐+新羅 VS 高句麗+百済 の抗争図が出来上がる。
唐は広域政治結社風なのでずるがしこい。
まず、百済を攻める。
百済は人がよくて明るいのだが、弱い。
唐の攻撃を受けて、なんと滅んでしまう。
そして、高句麗は孤立してしまった。
唐は高校生番長組織風の新羅とくみ、北と南から高句麗を攻める。
高句麗はもともと出身の違う混成部隊なので、旗色が悪くなると崩れるのも早い。
ついに高句麗も滅んでしまい、唐は勝利して舎弟にした新羅に朝鮮半島を任したのだ。
ここで、朝鮮半島の抗争は収まったのかのように見えたが、百済の残党が白村江に残っていた。
そして、あまりにも悔しかったのだろう。
倭国に援軍を要請してきたのである。
倭国にしてみれば、百済も新羅も子分だったのだが、新羅は寝返り唐についてしまった。
百済の悔しい気持ちもよくわかったのだ。
倭国は、腕っぷしも男気もある。
「わかった」とひとつ返事で、百済の残党がいる白村江に応援部隊を5万ほど出すのだが、敵は新羅だけではない。
そのバックの唐が存在している。
普通考えたら、新羅には勝てるが唐には数的に負ける戦である。
唐13万・新羅5万の合計18万の大軍と戦わなければならない。
しかし、倭は兵を出し戦争となった。
倭は少し調子に乗っていた感がある。
勢いで出兵したのだが、その作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」というずさんなものだった。
結果、倭国水軍はボロ負けして、多くの戦力を失い、弟分の百済も完全に滅亡してしまった。
倭国は初めての敗戦を味わった。
それもかなり手ひどい負け方だった。
それは天才長島がプロ入りして、豪腕金田に4打席連続三振を取られたようなものだったといえるだろう。
しかし負けたからといって、唐がこのまま引き下がるとは思えないし、調子に乗った新羅も今は怖い存在である。
倭はここで一皮向けたといえるだろう。
唐に対抗するには今までの体制では駄目だ。
強力な国に作り変える決心をする事になった。
この時から、新生日本の道をスタートする事になる。
この後行われた事は、防衛体制の整備と中央集権体制への移行、そして国号の変更である。
これから日本の道は、紆余曲折の道のりである。
島国日本は、縦長い地形である。
そして、半分は大陸に向いている。
外国への防御という事を考えれば、とても困難である。
しかし、外国勢の侵略を防がなければ、奴隷国になってしまうのだ。
この守る事の困難な国を守るためにやったのが、「和を持って尊しとなす」である。
そして、大国中国と対峙していく心構えが「大和魂」と言えるだろう。
この日本の心の大本は、白村江の敗戦から生まれたと思う。
人は、苦難からしか学ばないものだ。