長崎の原風景(5) 古代長崎で繁栄してい野母崎の宮廷文化
日本と中国大陸の関係は密接だった。
その事は歴史的史実である。
現在の日本の地理から見れば、九州、長崎は端っこにある地方だが、アジアという概念から見れば、中心にあたる。
日本と関わりがあるのは中国や朝鮮だけではない。
東シナ海を渡ると、上海があり、フィリピンがある。距離はあるが、日本へ渡れる海流がある。黒潮、対馬海流など、海の高速道路が太古から存在していたからである。
五島列島福江島、長崎、天草、鹿児島と東シナ海の沿岸部は、大昔から九州の航路があったのは事実である。
そして東シナ海沿岸部(日本も含まれる)には大和とは違った、海洋文化圏があったということである。
この説は、日本の学者の人たちも認知していることでも有り、大陸の文化に大きく関わっている。
長崎半島の野母崎で暮らしていたのは、山の民である。
山の民といっても様々だが、野母崎の伝説や状況から山伏の集団だと思われる。
野母崎には行者山という名前の山があり、行者神社がある。野母町に、熊野神社と日の山神社という2つの神社がある。
まあ山で生活する人々は山伏だけではなく、木こりや鉱山採掘者、そして狩猟を生活の糧にしている人々も当然含まれる。
また、長崎は山を降りれば海である。当然漁業を営む海人たちも大勢いる。
彼らの共通点は、その土地に縛られない集団だということだ。
つまり大和に組み込まれない集団といったほうがいいだろう。
大陸への拠点 野母崎
山人、海人たちというのは土蜘蛛であり、隼人であり、熊襲である。
野母崎にはそれらの拠点があったのだ。
縄文と呼ばれる時代から、自然発生的に集団が出来上がった。
それがベースである。
大和が完全に日本を征服するまでは、大陸との拠点としてにぎわっていたに違いない。
決定的な証拠がある。
長崎市に牧島という地域がある。
牧島は長崎半島と島原半島に囲まれた千々石湾に浮かぶ小島で、その東端には嘴状につき出た礫洲が発達しており、曲崎とよばれている。
曲崎古墳群は、5世紀末から7世紀はじめ(古墳時代)につくられた古墳です。平成20年度末現在で、101基の積石塚と遺構約500ヶ所が確認されています。一般に見られる古墳の形状とは異なり、丸石を積み上げているのが特徴で、これが積石塚と呼ばれるものです。また、ガラス製品の玉類や、当時の人々が使用した壺や甕も発見されました。
この古墳は狭い場所にある。
その場所になんと101基の積石塚と遺構約500ヶ所がある。不思議だという人がいるが、実は不思議ではない。
それは墓地なのだ。曲崎古墳は野母崎族の墓場なのだ。
一般に見られる古墳の形状と異なるのは、大和族と違うからである。
http://www.nagasaki-tabinet.com/guide/65/
石室構造には竪穴系横口式石室の特徴をもつものが見られ、 北部九州に分布する同種の石室構造をもつ古墳群と同様で、このことからこの地域が北部九州の文化圏に属していたことが判明しました。
竪穴系横口式石室は、日本では百済や伽耶の影響があり、中期初頭には北九州で築造が開始されたとある。
朝鮮半島の百済、伽耶は倭族の地域と言われている。
伝説だが神功皇后の三韓征伐、古代朝鮮半島南部の伽耶の一部を含む任那にあった倭国の出先統治機関、任那日本府というのがあった。
さらに、任那日本府は、大和が直接関わったものではなく、大和以外の倭人達が起てたという説も近年有力である。
長崎と百済
長崎は百済と直接交流があったのである。
曲崎古墳群のすぐそばには、戸石神社というのがある。祭神はスサノウの尊だ。
起源は不明だがその神社の1の鳥居が海に向かって建っている。
その鳥居は、かつて海中にあったという。さらに戸石神社にある御神木が光り、遭難しかけた船の目印になったといういい伝えも残っている。
つまりその神社を信じる人達は海の民たちであったという証拠だ。
野母崎にも同じ伝説がある。
曲崎古墳群のある、かつて島だった牧島と野母崎の海岸沿いには、神功皇后伝説がちりばめられている。
神功皇后が茂木に上陸したとき、「三韓の見えるところはないか」と尋ねれたとき、土地の人はこの岩に案内しました。このとき、お昼になったので、甑で飯を炊きました。山を吹き下ろす風は、飯の蒸れる匂いを麓の浦へ運びました。この飯の香りで、神功皇后が昼食をとっていることを知り、以来、この浦を「飯香の浦」といい、この岩を「甑岩」と呼ぶようになったという。
「甑岩神社」は大きな岩に埋め込まれ、海に向かって作られている。祭神はヤマトタケルだ。
牧島と野母崎の海岸沿いには古代史のスター達がずらり並んでいる。
神功皇后、ヤマトタケル、スサノオの関係はどうであろうか。
神功皇后は14代仲哀(ちゅうあい)天皇の后で、ヤマトタケルにすれば仲哀天皇は義理の父親である。
神功皇后は卑弥呼と考えられている。卑弥呼は天照大神と推測されている。スサノウは天照大神の弟だ。
不思議だが、見事に、すべてが繋がっている。
南九州は、大和にとって征服すべき場所であった。
すなわち長崎、熊本、鹿児島は反政府族であり、その範囲は朝鮮半島の一部と東シナ海沿岸だ。 そして野母崎はその重要な港だったのである。
山の民
長崎半島の山には、鉱物が有る。
たとえば燃える石、石炭は古代から認識されていた。
長崎では端島が有名だが、石炭は地上にも露出しており、端島にも江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、露出炭を採炭していたという記録がある。
現在の女の都や三ッ山町の六枚板(小字名)辺りで、江戸時代以降に何度か金鉱の採掘が行なわれたという記録が残っている 。
山伏達の元は山の民達である。
彼らは猟をし、鉱山を探り当て生業として暮らしていた。
そしてその収穫物は、海の交通網を駆使して交易して商業圏を作っていたのだ。
山の民と海の民は兄弟の関係である。神話の海彦山彦はその関係を物語っている。
山の民の信仰は、道教のような自然神を信仰する。
長崎にある古い神社、金比羅、岩屋、甑岩などはまさに自然神を祭っており、金比羅、甑岩のご神体は巨岩である。
そして巨岩と社は一体として作られている。
鉱物の採取を生業としている人々の中から、長崎の原風景の人々が登場してきたのだ。
長崎氏の前の時代に長崎で繁栄していた丹治(たんじ)一族である。
丹と言う字は、水銀を象徴している。長崎で水銀がとれたという記録はないが、なかったということではない。記録にないだけのことである。
丹治(たんじ)一族は長崎の民ではなく、何処からかやってきた民である。
元を正せば天皇家にもつながる一族である。その一族が長崎に住み着いた。
どこか役行者達につながる所がある。
もしかすると、彼たちはつながっていて、野母崎に宮廷文化を振りまいたかも知れない。
土蜘蛛、熊襲、隼人と呼ばれていた反大和の海人、山人たち。
何時しか、大和に飲み込まれていく。
長崎に残されている伝説や遺跡がそれを雄弁に物語っているのだ。
しかし、それらは記録に残されなかった。
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