古代九州は外人の独立国
邪馬台国の記録は、古事記にも日本書紀にも載っていない。
確かに古い時代の出来事なので、人々の記憶には残っていなかったのは十分憶測できるが、まったく何もないというのは逆に気にかかる。
6世紀前後には、中国大陸との交流もあるので、中国の歴史書から「邪馬台国」の記録を知ってもおかしくない。
しかし、その記録も一切ない。
なぜだろうか。
その不思議さを考古学者は、意図的に無視をしているという風に解釈をしている。
本当にそうだろうか。
島国日本の盲点
もし、何の意図もなく日本が邪馬台国の存在を書いていないとすれば、その理由はただ一つしかない。
倭という国は、外国だったからである。
現在でも、日本の歴史には日本であったことしか書かない。
私たち日本は島国である。
だから、日本列島に住んでいる人たちは、すべて日本人だと思っている。
しかし、大陸などは陸地に境界線があるのが当たり前である。
むかし倭国と呼ばれていたのは、九州に存在していた別の国家だったのである。
たぶん、倭人たちは、姿や言葉も日本人と大きく異なる種族だったと推測できる。
そして、姿かたちの違う種族の人々とは、縄文人のことである。
アジア人ではない縄文人
NHKの時論公論という番組で、三貫地貝塚の縄文人の番組があった。
それが興味深くて色々調べてみると、面白いことがわかった。
縄文人が現代の東アジア人と比べて遺伝的に特異な集団であったことが明らかとなりました。
【プレスリリース】『縄文人の核ゲノム配列をはじめて決定 ?東ユーラシア人の中で最初に分岐したのは縄文人だった?』国立遺伝学研究所
https://www.soken.ac.jp/news/30232/
福島県の北部海岸地方にある、約3000年前まで続いた三貫地貝塚から、1950年代に大量の人骨が発見され、それらが東京大学総合研究博物館に保管されています。これら縄文人4名の歯からDNAを抽出し、その微量なDNAからミトコンドリアDNAの系統(ハプロタイプ)を推定しました。その結果、N9bとM7a2という、縄文人に高い頻度で見つかっている系統を、それぞれ2名ずつが持っていました(論文1に既発表)。新地町三貫地貝塚
つまり、縄文人はアジア人ではなかった可能性がある。
何千年も昔の話なのだが、核ゲノム配列の解析から、縄文人の正体が明らかになってきたということである。
島国であるため、大陸のアジア人とは交わらなかったという事実がある。
倭国とは、そんなアジア人たちと違う人種の国ではないだろうか。
もちろん、縄文人が一種類だったとは限らない。
さまざまな縄文人の集団があったと思われる。
しかし、アジア人を祖先に持たない縄文の血統は、大陸からの渡来系や弥生人たちとは一線をきする一族だったのであろう。
記紀に邪馬台国の事が書かれていないのは、邪馬台国が外国だったからだったというのが、一番すっきりする論理である。
外国から脱出した神武天皇
古事記には、神武天皇の事が書いている。

神武天皇
九州宮崎あたりに天孫降臨して、その後宮崎を出発している。
神武東征である。
なぜ、神武天皇は九州を出たかというと、九州は倭国だからである。
地図を見ればわかるが、九州には九州山地と呼ばれる山々がある。
この山々が、国境線だった。
宮崎の日向地域は、倭人達の国から孤立しており、アジア人を祖先に持つ縄文人や、大陸からの渡来人の国が細々とあったと推測される。
だからこそ、倭人メインの九州の情勢をみて、決死の覚悟で宮崎から脱出したと考えたほうが筋が通る。
その後ヤマト王朝が強大になり、九州を征服しようとして「行幸」となる。
「土ぐも」や「熊襲」「隼人」などと呼んだのは、倭人達の国だったのである。
中国の『旧唐書』東夷伝においては、冒頭で日本国が倭国とは異なる国であることを述べている。
これまで、倭国と日本が大きな流れでつながっていると考えていたが、
縄文人がアジア人を祖先に持っていない種族だとしたら、歴史は大きく変わってくるはずである。
外国、それもアジア人ではない人々の国が邪馬台国だったら、古事記にも日本書紀にも書かれていないことは当然なのだ。
古代縄文人は金髪で巻き毛だったのかも知れないし、アラブの人のようだったかもしれない。
沖縄で発見された港川人は現在の人類ならば、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いのではないかという説もある。
オーストラリアの原住民アボリジニ
邪馬台国の人たち。男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。入墨は国ごとに左右、大小などが異なり、階級によって差が有る。

港川人
邪馬台国の女王卑弥呼は、金髪の西洋風女性だったかもしれないし、アラブの美女だったかもしれない。
「事実は小説より奇なり」
まさにそのとおりで、それは科学が解明してくれるだろう。