特別の国 日本の集合的無意識

先進国はほとんど一神教である。

しかし、我が日本は多神教の国である。

先進国ではかなり珍しい。

珍しいというより異端である。

しかし、私たちはあまり気にしていないのが現状である。

逆に日本には宗教が溢れている。

初詣は神社、葬式はお寺、結婚式は教会だ。

世界の人から見れば、理解不能だと思う。

私自身、外国人にどう説明していいのかわからない。

しかし、このちゃんぽん宗教感は大昔から私たちの中に存在している。

寺院と教会の見える風景

神仏習合

神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。

これは日本に仏教が伝わった時から起こっている。

宗教的な解釈は置いとくが、日本人は神と仏を同時に受け入れたといえる。

まさに「和をもって尊しとなす」が骨の髄まで染み込んでいる証拠である。

世界を見れば、争いは宗教がらみである。

平和を愛するキリスト教さえ例外ではない。

なぜ、日本は現代におけるまで、こんな混沌とした宗教観を手放さないのだろうか。

いろいろ考えていく内に一つの結論にたどり着いた。

日本は特別

この話は色々語弊があるが、そう考えないとつじつまが合わないのだ。

どこが特別かというと、多神教というより無宗教の国民性である。

国民性という言い方は、大雑把で例外も多くあたっていないのも多いが他に言い方が見つからなかったのでとりあえず国民性とする。

もちろん、日本には、仏教、神道、キリスト教を熱心に信仰している人たちは存在する。

私の場合だが、日常の中で一つの宗教に大きく偏るようなことは無い。

その時の状況で、神道、仏教を自由に行き来する。

葬式の時は仏にすがり、正月の初詣には神に祈る。

ごく自然にそうなってしまうのだ。

お前だけだといわれれば素直に黙ってしまうのだが、たぶんみんなも似たり寄ったりじゃないかなと思う。

苦しい時の「神頼み」が正直な私の宗教観だ。

宗教

 

やはり、それは島国という地理的条件によるものが大きいのだろう。

一つの神に真剣に祈ったという危ない過去は一度もなかった。

自然災害は別である。

地震、津波、火山。自然の脅威はどこの国よりも多いだろう。

ここで言う安全とは、対人間の侵略などの戦争や治安のことだ。

海外の人がよく言うことだが、日本は安全な国なのだ。

そして義理堅く、勤勉でおとなしい。

外国の人には、お客様として丁重におもてなしをする。

余計な争いはしないし、回りとうまくやっていこうと気遣いをする。

いい事だらけのようだが、その逆は察しのとおりだ。

日本人の集合的無意識

そんな日本人の心理を考えると一つの説が浮かび上がる。

ユング心理学の集合的無意識という説である。

言語連想試験の研究によってコンプレックスの概念を見出したユングは、個人のコンプレックスより更に深い無意識の領域に、個人を越えた、集団や民族、人類の心に普遍的に存在すると考えられる先天的な元型の作用力動を見出した。ウィキペディア

日本人には集合的無意識が存在し、共有しシンクロしているという仮説が成り立つと思う。

私は専門家ではないので、詳しい議論は出来ない。

しかし、日本人の総論としての宗教感覚は、日本国に住む日本人たちに確かに存在する。

そしてその集合的無意識は、宗教の上に存在する。

だから無宗教でも、その精神性は損なわれないのだ。

ここで言う無意識というのは「心のなかの意識でない或る領域」に近いと思う。

SF的に言えば、「無意識のテレパシー共同体」

そんなイメージだ。

歴史の中の集合的無意識

たとえば戦後の驚異的な経済的成長。

戦前の特攻隊を生み出した軍国主義。

江戸から明治への無血革命。

いい悪いというものではなく、これらは集合的無意識がシンクロしている証ではないだろうか。

そして、世界中から不思議の代名詞になっている、一系万世といわれている天皇制。

それこそ日本人が生み出した集合的無意識の産物だといえる。

正しい、正しくないではなく

結果としての生き残り戦略。

「2割の働かない蟻」の存在のような、ダーウィンの進化論と相反する進化するという無意識。

うまくいえないが、そんなイメージである。

 

日本人語の表現にこんなのがある。

「言わなくてもわかるだろ」

日本人はそうだと思う。

 

「俺の目を見ろ。なんにも言うな。男同志の 腹のうち」

兄弟仁義の歌詞である。

 

以心伝心。ツーと言えばカー。

 

数え上げればキリがない。

これなど外人から見たら、テレパシーがある国民だと言われてもしょうがない。

 

 

この特別な意識はいつからわれわれの潜在意識の中に巣くったのだろうか。

日本の成り立ちの中で、日本が世界の歴史と比べて大きく違うところを考えると、はるか古代にまでさかのぼる。

縄文の集合的無意識

縄文時代といわれている期間は、われわれが考えているよりはるかに長い。

縄文時代(じょうもんじだい)は、約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)から約2,300年前(紀元前4世紀頃)までといわれている。

日本列島が大陸から離れる直前から、縄文時代がスタートしている。

縄文草創期当時の日本列島の植生は冷涼で乾燥した草原が中心であったが、落葉樹の森林も一部で出現していた。

北海道と樺太は繋がっていたし、津軽海峡は冬には結氷して北海道と現在の本州が繋がっていた。

瀬戸内海はまだ存在しておらず、本州、四国、九州、種子島、屋久島、対馬は一つの大きな島となっていた。

この大きな島と朝鮮半島の間は幅15キロメートル程度の水路であった。

その後、温暖化により海面が上昇した結果、先に述べた対馬・朝鮮半島間の水路の幅が広がって朝鮮海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込むこととなった。

こんな時代から縄文はスタートしている。

最近では、4大古代文明に匹敵する高度な古代文明社会として位置づけようとする人たちさえいる。

確かにエジプトのピラミッド文明や、メソポタミヤ、チグリスフーフラテス、黄河文明などは5000年ほど前の文明である。

そしてさらに驚くのは、それだけの長期間にわたり循環型生活様式を黙々と続けてきたことである。

ピラミッドのような派手な建造物も無く、大きな国家も作っていないが、脈々と日本は熟成を続けてきた。

稲作に代表される弥生時代だが、縄文人はその稲作を最初拒否している。

http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/007_1inasaku_wo_kyohisitariyuu.html
長江文明の伝播と水田稲作を拒否した縄文人

その果てしない時間の中で「集合的無意識」は、日本人の遺伝子の中にしみこんでいったのではないだろうか。

 

それらが、日本を特別の国に変えていったのだ。

そして、その事を理解しないと、正しい歴史がわからないのではないかと思っている。

 

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