元寇の先兵朝鮮半島軍と侍との戦い

現在対馬は朝鮮の観光客でいっぱいである。

しかし、その事で多くの問題を抱えている。

ひとつはマナー問題である。

トイレに紙を流さない。酒を持って居酒屋に入る。等がテレビでよく報道されている。

最近は、対馬の土地を朝鮮人が購入し、朝鮮観光客相手に朝鮮人店舗が対応をはじめ、観光で日本人が潤うのではなく、対馬の経済は朝鮮サイクルになってしまっている。

長崎県も国も、対馬正常化のため、ちゃんとした政策を打たなくてはいけない時期にきているだろう。

しかし、いろんな問題は昔からあった。

その歴史を手繰ってみよう。


対馬は朝鮮半島が近いので、何度か侵攻目的で攻撃された歴史がある。

ただ、朝鮮の歴史と日本の歴史では表記に食い違いがあるので注意して考えていきたい。

李氏朝鮮の誕生

朝鮮半島は高麗が統一していたが、クーデターにより李氏朝鮮が誕生する。

朝鮮の最初の王朝である。


高麗は元寇(文永の役1274年、弘安の役1281年)の時、モンゴルの尖兵として日本を攻撃した、日本侵攻をした最初の外国である。

2度攻め入られたが、2度とも打ち破ったのは歴史書の示すとおりである。


その後、倭寇が発生している。

倭寇というのは海賊といわれているが、義賊軍という意味合いが強い。

蒙古襲来の際、日本は2度ともその攻撃を打ち破ったのだが、けっして無傷ではなかった。

対馬での戦い 元冠の油絵 本仏寺

http://www.city.ukiha.fukuoka.jp/imgkiji/pub/detail.aspx?c_id=71&id=22

元寇と倭寇の誕生の理由

何せ日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった。

総数900隻、約3万人(ほとんど高麗軍)の兵力で日本を襲った。

第1回目は、対馬、壱岐の島民を惨殺され、肥前沿岸の松浦郡および平戸島・鷹島・能古島の松浦党の領地に襲来、松浦党は数百人殺され、その後博多湾に上陸、博多の町は焼き尽くされる事になった。

どれほどの被害が出たかは詳細がないが、残虐行為の数々は日本人の心に強く植えつけられる事になった。

日蓮宗の日蓮は、元寇の2年後当時の伝聞を記録している。

対馬島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立てた。

捕虜とした日本人の子供男女200人を奴隷として高麗国王に連れて行った。

元兵はよく奮戦した武士の遺体の腹を裂き、肝をとって食べ、また、射殺した軍馬も食べたという。

しかし、その日のうちに博多を引き上げ、すべて船に戻り夜のうちに高麗へ退却していったのだが、高麗が作った船が粗雑だったらしく、海上で暴風雨に遭遇したため、多くの軍船が崖に接触して沈没し多くの被害を出した。

なぜ、優勢にもかかわらず博多から引き上げた真意は不明だが、日本人の反撃を恐れたとも言われている。

私説だが、高麗は儒教の国であり、兵士の扱いを優遇してはいない。一部の指導的立場の将がやられると、まさに烏合の衆だと思われる。

日本人も少数ながら、勇猛に戦っていて、敵将の首を多数上げている。本来敵地を制覇したなら、前線に基地を作り第2次攻撃の準備をするはずなのだが、高麗軍にはその戦略はまったくなく、勢いで勝ち進め、散々やりたい放題をやったが、反撃を極端に恐れたと思われる。


第二回目の弘安の役(1281年)では

元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000~56,989人
軍船900艘と旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人および江南軍水夫(人数不詳)

軍船3,500艘、両軍の合計、約140,000~156,989人および江南軍水夫・軍船4,400艘の軍の最大数が日本に向けて出航した。

この時は日本軍の強さが際立っており、対馬では激しい抵抗を受け元軍の将たちが戦死、壱岐も攻めるが暴風雨で元軍は多数の被害を出し、博多湾では、準備万全の日本軍に太刀打ちできなかった。その後モンゴル軍も参戦のため長崎県の鷹島に集結したが、日本軍の夜襲を受け、その後台風により、元軍は大損害を受け敗戦となった。


この侵攻事件により、朝鮮半島を標的とした倭寇は誕生した。

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