「朝鮮軍1万7千人」対「対馬武士600人」との戦い。対馬藩の勝利

倭寇の誕生

倭寇とは海賊である。

もっと詳しく言うと

一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の事 ウィキペディア

である。

倭寇は前期と後期では、倭寇の構成員は違っていたとされる。

前期倭寇では主に日本人で一部が高麗人

後期倭寇は中国人が多数派

となっている。

倭寇の正体は多説がある。

日本の九州、朝鮮半島沿岸、中国沿岸といった環東シナ海の人々が国家の枠組みを超えた一つの共同体で「日本」とはまた別の人間集団・村井説

倭寇の活動が「国境をまたぐ地域」で繰り広げられた国家の枠組みを越えた性格のもの・高橋公明説

上記の説はウィキペディアに載っているものであるが、当然反論もある。

いろんな説があるけれど、初期の倭寇はいろんな文献から見ると、元寇で被害を受けた、日本人の集団である可能性が強い。

 

本来倭寇は、日本の義賊軍であると思う。

しかし、その後、日本人以外の人々が集団を作り、偽装倭寇が噴出したのである。

後期倭寇の構成員の多くは私貿易を行う中国人であったとされる。

この事が倭寇の評価を散々なものにしている。

倭寇イコール日本人の集団という初期の事実を隠れ蓑にして、結構やりたい放題の暴れぶりが記録として残っている。

朝鮮人の海賊なら、鮮寇と名乗ればいいし、中国人の海賊なら華寇と名乗ればいい。

腹立たしい事である。

対馬VS朝鮮

1350年頃から活発化した倭寇(前期倭寇)に高麗は苦しむことになる。

その結果、倭寇征伐を口実に対馬を攻撃してくるようになった。

しかし、日本と朝鮮半島の歴史書の記述が大きく違う。

公平のため記載する。

最初の対馬攻撃の記録は、「高麗史」、「高麗史節要」にしか載っていない、幻の攻撃である。

高麗側
「高麗史」、「高麗史節要」に拠れば、1389年2月、戦艦100艘による対馬侵攻が行われ、日本船300艘と沿岸の建物を焼き尽くし、捕らえられていた者100余人を救出したとして、帰国後は昌王名義で賞賛されている。

しかし、当時高麗の人々の中には、「建物と船を焼いただけで、捕虜にした倭寇はいなかった。」と批判の声もあったという。

日本側
日本側史料では「宗氏家譜」(1719年編纂)に、同年2月18日に高麗軍を追い返したとある。これを称して「康応の外寇」という。

ただし、これは「高麗史」などを参考にのちに記述したものであり、この件での当時の日本側の記録は存在しない。

まあ、こんな事ばっかりである。

攻めたといっている高麗は、記録によれば戦艦100艘としている。

こんな大群が対馬にやってきているのに、対馬も日本の中枢部も知らないというのは、信用してはいけないという事だろう。

応永(おうえい)の外寇

次の攻撃は記録にちゃんと残っている話である。

応永(おうえい)の外寇は、室町時代の応永26年(1419年)に起きた、李氏朝鮮による倭寇討伐を名目とした対馬攻撃を指す。

朝鮮軍は彼らが「島賊」と称した宗氏武士団の少数の抵抗に手こずり、台風の接近もあって、漁村と船を焼き払っただけで10日余りで対馬から撤退した。ウィキペディア

両国の教科書の記載もある。

韓国の教科書

≫世宗のとき、李従茂などが200余隻の艦隊を率いて
≫倭寇の討伐に向かい、対馬島を征伐した
(韓国国定教科書より・・・韓国は教科書は国定のみ)
朝鮮では己亥東征という。

日本の教科書

≫宗氏の当主が交代し、倭寇の活動が活発になったため、
≫1419年、朝鮮軍は倭寇の根拠地と考えていた対馬を襲撃した。
(詳説 日本史・・・山川出版社)
ヤフーの知恵袋
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1121818466

韓国の教科書には対馬島を征伐とあり、日本の教科書では対馬を襲撃したとある。

征伐とは悪者・服従しない者を攻め平らげることである。

チャンチャラおかしい記述だ。

 

その結果どうだったかというと、

動員数 朝鮮:船227隻 兵17285人

動員数 対馬:2000人以下(記録が無いが最大動員力が2000)

ヤフーの知恵袋
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1121818466

一説には対馬の守護の侍が600人程度だったともいう。

韓国側の記録

朝鮮軍は船129隻を奪い、家1939戸を燃やし、この前後に114人を斬首、21人を捕虜とした。
また同日、倭冦に捕らわれていた明国人男女131人を救出する。

日本側の記録(宗氏家譜の記載)

「蒙古舟」の先陣五百余艘が対馬津に襲来し、少弐満貞の代官宗右衛門以下七百余騎が参陣し、度々合戦し、6月26日に終日戦い、異国の者どもは全て敗れ、その場で大半は討ち死にしたり、召し捕らえた。

満貞は自身が戦闘に参加したと足利義持に報告しているが、朝鮮軍が短期で撤退したこともあり、日本本土からの援軍は送られおらず、満貞も戦闘には参加していない。

これらの記録からわかる事は、朝鮮軍1万7千名を、対馬の守備のためにいた600名ほどの武士が、撃破し追い払ったとという事である。

 

対馬600名対朝鮮17000名の戦いで、対馬は勝ったのである。

そしてこの戦いの結末が、朝鮮からの貢物となる。

以後、朝鮮は定期的に、食料の少ない対馬に(海賊活動しないように)米を下賜することになったが、宗氏の側ではこれを朝鮮からの貢物と称して日本国内に喧伝した。

この時の和平交渉で、対馬の領主・宗氏が、李氏朝鮮の面子を立て、また朝鮮公益の特権を得るために、朝鮮からの信印(印章)を受けたとある。

あくまでも、国と国との貿易ではなく、対馬と朝鮮の交易である。

この時、李氏朝鮮は信印(印章)を対馬に与えたのだから、もともと朝鮮の領土であるといっているのだが、宗氏は明確に否定している。

現在も、対馬は古来より朝鮮だったというが、まったくのデマであり、史実が証明している事を付け加えておく。

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