自虐史観からの脱出。 秀吉の再評価

私は戦後生まれで、戦後の教育を受けている。

勉強はどうだったかというと普通の出来だったのだが、唯一歴史の授業が嫌いだった。

やはり、歴史上の人物の名前と年号の暗記が嫌だったからだ。

おかげで高校時代、世界史の実力試験で2点という点数を取ったことがある。これは学校内で下から2番目だった事を覚えている。

しかし、大学時代司馬遼太郎の小説を読み始めるようになって、大の歴史好きになってしまった。

司馬遼太郎氏の本は、歴史的史実を基にしているが小説である。それも理解しているつもりだ。

それなら、何が真実なのか知りたいと思う。

日本の教科書

真実は立場によって違うのだが、日本の教科書の書き方は、やはり偏っている。

日本の教育の場で、学生たちが教わる教科書的事実は、やはり自虐史観そのものだと思う。


現在の教科書の記述をみてみると

東京書籍版中学歴史教科書(東書版)
「海外貿易と朝鮮侵略」と題して、「1592(文禄元)年には,明の征服を目指して,諸大名に命じ,15万人の大軍を朝鮮に派遣しました(文禄の役)」

1592(文禄元)年には、明の征服を目指して、諸大名に命じ、15万人の大軍を朝鮮に派遣しました(文禄の役)。

育鵬社
全国を統一した秀吉は,国力のおとろえつつあった明にかわり,日本を東アジアの中心とする新しい国際秩序をつくろうとしました。フィリピンや台湾に服属を求めるとともに,明に出兵しようとしました。

1592(文禄元)年,秀吉は明への案内役を断った朝鮮に15万あまりの大軍を送りました。

国際派日本人養成講座
http://blog.jog-net.jp/201702/article_4.html

東京書籍と育鵬社では、視点が大きく違う。

育鵬社の方が的を得ており、東京書籍は間違っている。

この事を日本人はもっと知るべきだろう。

さらに言うなら、その当時の国際状況を書かなければ秀吉の行動は評価できないはずだ。

スペインを筆頭にした西洋のアジア侵攻、植民地政策の残虐さ。

スペインは秀吉の朝鮮出兵の30年前(1533年)にインカ帝国を滅ぼしていたという事実。

スペイン軍のピサロ将軍

この事実を書かない限り、教科書にしてはいけないはずだ。

君が代を歌わない先生たちが教えてくれた日本の歴史

昭和から現代まで、自虐史観と呼ばれている歴史認識を植えつけたのは、紛れもなく先生たちである。

日の丸 君が代 国旗国歌の重み http://wishcomestrue.ti-da.net/c168610.html

学校の行事の際に「起立しない」「日の丸を歌わない」教師が多くいたのを覚えている。

今思えば、反日的組織に加わっている先生たちだったと思うが、公務員である場合規則違反である。

日本には思想の自由はあるので、本人が歌いたくないといえば歌わなくてもいいと思う。

しかし、公務員は日本国民の税金で雇われている身の上である。

反日をやりたいのなら、公務員を辞めて違う組織で教師をやればいい。

私が言いたいのは、それほど教育は大切なのだ。

私自身が自虐史観を持っているのは認める。

なぜ、心の奥底に自虐史観があるのかは、やはり受けてきた教育だと思う。

正しい歴史的事実を知るにつれ、偏った歴史観があるのが悔しいのだ。

だから、60歳を過ぎた今、歴史を再勉強している。

まずは事実である。

その事を大切にしていきたい。


豊臣秀吉


ご存知豊臣秀吉だが、最近読んだ本で6本指だった事が書いている。

ルイスフロイスのの「日本史」や前田利家の「国祖遺言」に書いてあるので、信憑性は高い。

信長も秀吉を呼ぶとき“六ツめ”といっていたと「国祖遺言」にある。

こんな話を高校時代聞いたのなら、もう少し歴史の成績はよかったかもしれない。


さてその秀吉だが、朝鮮出兵という出来事がある。

文禄・慶長の役といい、日本の天下統一を果たした天下人秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。という説明が載っている。ウィキペディア

歴史書では秀吉自身は「唐入り」と称し、他の同時代のものとしては「大明へ御道座」という表現もあった。

今までの認識では、もうろく爺の誇大妄想やアジア征服という視点が多かったようである。

NHKの大河ドラマでも、そんな描写が多かったようだ。

秀吉の真の目的はどこにあったのかを客観的事実で検証してみたい。


秀吉と当時の外国情勢

秀吉の天下統一は、北条氏を滅ぼした1590年の小田原征伐あたりでほぼ完成していた。

そして、天正19年(1591年)8月、秀吉は来春に「唐入り」を決行することを全国に布告している。

かなりすばやい対応である。

それには理由がある。

秀吉はスペインの植民地政策に強く脅威を感じていたのだ。


日本に迫っていたスペイン船隊

この時代、世界の8割は、スペインの植民地だったという。

その当時、アジアで植民地化されていない国は明と日本だけだった。

そしてスペインは、アジアを植民地化しようと、どんどん計画を進めていた。

その計画を進めるために、ルソン(フィリピン)に対アジア諸国戦略を考える総督府をおいていた。

当時のスペインや西洋諸国の行為の残虐さは筆舌にしがたいものだった。

秀吉の朝鮮出兵の30年ほど前に、スペインはあのインカ帝国を滅ぼしている。

ポルトガル、イギリス、アメリカもアジアの国々を植民地にしている。

白人たちは、キリスト教を信じていない国を野蛮人だと思っていた。

(まあ、今でも黄色人種や黒人に対しての偏見は根深い)

だから、国を奪ってその国民を奴隷にする事にたいして、良心の呵責など一片もなかった。

織田信長も秀吉もその事は、十分理解していたのだ。


この時すでに日本には宣教師のフランシスコザビエルが来ていた。

ザビエルはキリスト教を布教し、結果長崎を中心に九州である程度浸透していた。


当然当時の覇者、織田信長は外国にすごく興味があり、警戒しながらも南蛮貿易を推奨している。

ルイスフロイス像

キリスト教の布教を許す代わりに海外の情報を仕入れ、参謀として使っている。

ここが信長の視野の広い所でもあり、戦略家でもある所以である。


信長はキリスト教を仏教勢力に敵対するものとして利用していた感がある。

大友宗麟、細川忠興などのキリシタン大名が存在していたのもその為である。

また、スペインの日本征服の野望も承知の上で、さまざまな対抗策も取っている。


フロイスの「日本史」には、

「信長は、事実行われたように、都に赴くことを決め、同所から堺に前進し、毛利を平定し、日本66ヶ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を派遣して支那を征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった。」

とある。

もし、信長が死んでいなかったら、どんな海外戦略をするのか見てみたい。


秀吉の政策

信長ほどの戦略的思考はないとしても、頭脳明晰な秀吉は、ポルトガルやスペインを含む西洋の野望を当然理解していた。

そして、西洋に対抗すべく「唐入り」を実行する。

それが文禄・慶長の役である。

秀吉は(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。


秀吉のこの行動が、朝鮮人にとって屈辱で、朝鮮人の3大悪人の中の一人になっている。

朝鮮における日本の三悪人とは豊臣秀吉、西郷隆盛、福沢諭吉である。


まあこれはおいといて、秀吉は明の国を説得したかったのである。

明の国と共に西洋の植民地化政策を食い止めたかったのである。

しかし、明はスペインなどの西洋諸国の脅威など何も考えていない。

変な「中華思想」「中国が世界の中心」で凝り固まっており、秀吉の相談などまったく聞き耳を持っていない事がわかる。

そこで、秀吉は明を制圧しようと決断した。

まあ、現代で考えれば、日本だけでやったほうがよかったのだが、明がスペインに制圧されれば、必ず朝鮮と明は、日本に攻めてくるとわかっているので、何とか手を打ちたかったのである。

いわゆる「先制的自衛」である。

加藤清正

危機に直面してもそれを撃退!加藤清正と慶長の役

歴史をわかりやすく解説!ヒストリーランド
http://history-land.com/kiyomasa-korea/

加藤清正


この時加藤清正は大活躍をしている。

朝鮮半島に入った加藤清正は天正20年4月12日に釜山に上陸すると、翌日には釜山城を落とした。朝鮮兵は6千人もいたが、鉄砲を知らなかったのだから、話にならない。

わずか3週間後の5月2日には漢城(ソウル)に入った。日本軍が近づくと、李王朝を恨んでいた民衆が進んで城門を開けてくれた。

国際派日本人養成講座
http://blog.jog-net.jp/201702/article_4.html

ここで、注意しなくてはならないのは朝鮮半島を征服したかったわけではないという事だ。

日本の国土を広げたいわけではなく、明へ交渉にいっただけである。

朝鮮半島はその通り道だっただけである。

日本軍はわずか3ヶ月で釜山、漢城(ソウル)、平壌、さらに満州国境地域まで、言わばほとんど朝鮮全土を占領してしまった。


しかし、明軍がやってきて朝鮮軍も寝返り、共に日本軍は攻められる。

敵地の上、北朝鮮にいるので孤立している。さらに朝鮮水軍の攻撃により、食料や物資をたたれ苦境に立たされ、漢城(ソウル)まで撤退をする。

これが、朝鮮出兵のただ一度の敗北だった。

明軍4万5千プラス朝鮮兵20万対小西行長軍約1万5千の戦いだった。

窮地に陥った日本軍は和平交渉に入る。

その際、和平交渉を担当した小西行長と小西如安が偽りの降伏文書を作成したことがわかり、秀吉が激怒し第二次朝鮮出兵がはじまる。

明との講和交渉も行われ、日本に明の使節が来たのだが、明は秀吉に対し「日本国王としてやる」と、言い、その世界情勢の認識のなさに秀吉は激怒したという。

「国王など明のこせがれに任じてもらわなくともいつでもなれる。そもそも日本には天皇がおわします」

そんな文章が残っている。結局明とは話にならなかった。


その後「慶長の役」で再度朝鮮へ出兵する。

この時は明に頼らず、日本軍は朝鮮半島に城を築き、朝鮮半島を制圧してスペインを含め西洋諸国の侵略を食い止めようと考えたとされる。

激戦があったが、日本軍は朝鮮内に城郭群を完成させ、次の朝鮮出兵を待っていたが、その時秀吉は死亡する。

その後、日本軍は撤退をして、朝鮮出兵は終了してしまう。

余談だが、島津義弘率いる島津軍の勇猛な戦いぶりから、明軍には「鬼石曼子(グイーシーマンズ:鬼島津の意)」と呼ばれて大いに恐れられたという。


日本軍は強烈に強かったのは世界が認めている。


しかし、世界情勢は大きく変わっていった。

文禄・慶長の役は1592年と1597年だが、すでに1588年にスペインの無敵艦隊はイギリスに敗北し、それを期に衰退の道をたどっていく。

しかし、スペインの次に出てきたのはイギリスである。国が変わっただけで侵略される脅威はなくなってはいない。


秀吉の死亡で、この朝鮮出兵は幕を引くのだが、このことで日本軍がいかに強いかを世界に知らしめる事となった。

この後も西洋は日本に食指を伸ばしていくのだが、武力による侵略はなくなったのである。

徳川家康は鎖国状態にする事で、外圧をさえぎっているが、長崎だけはその情報口として残していたのである。

徳川家康も外圧は十分意識しており、国内の体制充実という道を選んだ。

信長、秀吉、家康は当時のヨーロッパ各地の植民地政策による侵略の真っ只中にいた。

しかし、日本の独立を守るためあらゆる手段を打っていたのだ。

秀吉の朝鮮出兵は、耄碌したからでもなく、誇大妄想ではなかったのだ。

なぜ、日本の教科書にその事を書いていないのか、腹が立つ。

秀吉のおかげで、日本は植民地にならなかった。

そう断言してもいいのである。

秀吉の朝鮮出兵を責めるのもいいが、その千倍ヨーロッパの悪行を責めてこそ、公平というものである。

まず、西欧諸国の侵略構想という事実があり、それに呼応して日本国が自衛の為に行動したという、紛れもない事実が合った。

その事をまず第1番目に知る必要がある。

その視点がない日本の歴史などありえないのだ。

そして、戦争の悲惨さは別の次元で語らなければならない。

私は戦争反対論者である。

だからこそ、事実は事実として知っておきたいだけである。