ヤマトと日本 唐との対抗策でひとつになった
ヤマトという呼び方はヤマト王権が大和と呼ばれる地(現在の奈良県内)に在ったことに由来する。ウィキペディア
なぜヤマト王権かというのかには、さまざまな説が存在する。
しかし、多くは邪馬台国からきているだろうとうすうす感じているはずだ。
大和と日本には関連性がある。
例えば、ヤマトが元は山の下(ふもと)という意味のヤマモトかも知れない。
日本はヒノモトである。
「ヤマのモト」から「ヒノモト」と変化したとすれば納得がいく。
『旧唐書』「倭国伝」には
倭国は古の倭奴国なり。
京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり、山島に依って居る。東西は五月行、南北は三月行。世ヽ中国と通ず。
其の国、居るに城郭なく、木を以て柵を為(つく)り、草を以て屋を為る。四面に小島、五十余国あり、皆焉(こ)れに附属す。
と書いていて、倭国は海に囲まれているので、近畿地区のヤマトとは違う事は当然である。
『旧唐書』「日本伝」には
日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。
とあり、ここでも違う事は明白だ。
倭国は倭人が作った国という意味で、その中心は邪馬台国もしくは邪馬壹国である。
このヤマ○○の音からみて、その後ヤマトになったのか、ヤマトという場所が新しく倭国の中心になったと思われる。
倭国は白村江の戦いでボロ負けして、新国家の建設をする事になる。
唐と新羅の脅威から、その中心は九州から本州へ移行する。
本州の近畿には、日本という国がすでにあった。
日本、すなわちヒノモトである。
ヤマのモトとヒノモトは、○○のモトというように共通性がある。
つまり、友好国か兄弟国と考えられる。
今までは、別の政権としてすみわけしていたのだが、唐と新羅の脅威は日本国全体にかかる国難だ。
喧嘩したり、言い争っている場合ではない。
九州のヤマ(モ)トは、近畿のヒノモトと合体した。
そして、唐に対して、音読みの日本 ニッポンとして再出発したのだ。
それは幕末の薩長同盟のように、外国勢の圧力に対抗するため1つになった経緯によく似ている。
また、無血革命と呼ばれる大政奉還も同じ心から出ている。
日本は、その独立性を尊ぶため、自分から進化していく国である。
阿吽の呼吸で、ヤマトはヒノモトと合体して、唐と対抗したのだ。
日本人の進化のひとつである。