日本分断統治計画。日本の危機の打開策を打つ秀吉

これは

自虐史観からの脱出。 秀吉の再評価
http://artworks-inter.net/ebook/?p=3208

の補足である。

豊臣秀吉

ヨーロッパの状況

ヨーロッパの考え方は、実に身勝手である。

なぜそんなに身勝手な考えを持っているのが、アジアの日本人の私には理解できない。

しかし、現実にヨーロッパ中心に世界はまわり始めた時期があった。

 

ローマ帝国の衰退後、カトリックを精神的支柱とする国々がまとまり始める。

アジア大陸に興った、巨大なモンゴル帝国は、宗教や異民族に比較的寛容であり、ヨーロッパ人を受け入れた。

ヨーロッパ人が東洋に目を向け始めさせたのは、マルコポーロの東方見聞録である。

東洋の事を紹介したマルコポーロだが、それほど正確ではなく、「黄金の国ジパング」と紹介された日本の描写も、モンゴル人などに聞いたものであり、「宮殿や民家は黄金でできている」等といったものである。

この伝聞が、ヨーロッパ人の好奇心と欲を大きくあおったのは間違いない。

 

スペイン、ポルトガルが台頭してきた理由

15世紀、モンゴル帝国が衰退すると、オスマン朝トルコが強力に成長して地中海の制海権を獲得した。

ヨーロッパは、オスマン朝トルコによる地中海交易の支配により、新しい交易ルートが渇望され始める。

つまり、イタリアからイスラム国、インド、中国への従来の交易ルートにオスマントルコは居座り、通行に関して高い関税をかけ手しまったのだ。

これまで行っていた陸のルートが、利益を生まなくなってしまう事態が発生してしまった。

この時期、出てきたのがポルトガルとスペインである。

ポルトガルとスペインはイスラム勢力に圧迫され続けていたのだが、強力な国王がイスラム勢力を追い払い(レコンキスタ・・キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動の総称)、表舞台に出てくる。

今まで、主役でなかった両国は、ヨーロッパを見限り海へと出て行くことになった。

それは技術の革新も加わっていた。

頑丈な船が建造可能になり、中国の発明した羅針盤がヨーロッパに伝わった事で遠洋航海が可能になり、新しい利権を求め、先を争って航海に出る事になる。

これが大航海時代の始まりである。

航海は困難を伴い、現実に生還率は2割ほどであったが、新しい利権にたどり着いたものには、貧乏人や身分の低い人たちでも、一夜にして王侯貴族並みの利益と名声が転がり込んできた。

さらにプロテスタント諸派に追い込まれて、窮地に立っているカトリック教会は、この大航海時代に便乗し、新しい信者を求め共に航海に出るようになった。

そして、東の果ての日本も、植民地化のリストに入れられてしまう。

スペイン、ポルトガルによる世界分割

調子に乗っているスペイン、ポルトガルは、勝手にヨーロッパ以外の領地の配分を勝手に決めている。 

それがトルデシリャス条約サラゴサ条約である。

トルデシリャス条約は、1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれた条約。当時両国が盛んに船団を送り込んでいた「新世界」における紛争を解決するため、教皇アレクサンデル6世の承認によってヨーロッパ以外の新領土の分割方式を取り決めた。

アジアにおける線引きのための交渉がおこなわれ、新たに発効されたのが1529年4月22日に批准された「サラゴサ条約」である。

トルデシリャス条約とサラゴサ条約

このサラゴサ条約で引かれた、架空の線の上に日本はあった。

サラゴサ条約の東経133度の線は、日本列島の岡山付近を通っており、スペイン・ポルトガルは日本を分断して取り合う予定だった。

ふざけた話である。

秀吉の防衛構想

秀吉は朝鮮出兵を行っている。

文禄(1592年)・慶長の役(1598年)である。

この出兵の間にサン=フェリペ号事件が起こっている。

サン=フェリペ号事件は、文禄5年(1596年)に起こった日本の土佐国でのスペインのガレオン船、サン=フェリペ号が漂着、その乗組員の発言が大問題となった事件。

そしてその乗り込み員は、日本の役人にこう語っている。

「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3名のポルトガル人ほか数名に聞いた」

この事は、秀吉に報告された。

直後の同年12月8日に天正に続く禁教令が再び出され、京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士3人、および日本人信徒20人が捕らえられ、彼らは長崎に送られて慶長元年12月19日(1597年2月5日)処刑された(日本二十六聖人)。ウィキペディア

秀吉は知っていたのか

世界の分捕り線が決めてあるサラゴサ条約の事を秀吉は知っていたのだろうか。

サラゴサ条約の事を秀吉は知っていた。

評論家 西村幸祐氏の考え
秀吉はスペインとポルトガルで世界を二分割するサラゴサ条約の存在を宣教師から聞いて知っていたので、アジアの集団安全保障を考えた。それが明への出兵になったと僕は考えている。

評論家 宮崎正弘氏のコメント
秀吉の行為は徹頭徹尾、自衛のための戦争でした。

秀吉は1587年6月に伴天連追放令を出している。

この時点で、キリスト教の日本に対する悪影響は、十分理解している。

ただ、南蛮貿易には関心が高く、推進する方向だった。

その為、伴天連追放令に関しても、形式的で、その後も宣教師たちは制限つきでも活動は黙認されている事に注目したい。

秀吉は、経済優先である。

スペイン、ポルトガルの侵攻計画を知っているがゆえに、財政を豊かにしようとしたと考えたほうがいいだろう。

伝道師たちを監視し、行き過ぎた場合には処罰する。

キリシタン大名たちにも、それほどきつい処罰はしていない。

それも、秀吉の性格だろう。

そんな秀吉が、朝鮮出兵をするわけだが、その時代の明はとても巨大である。

征服するという妄想に駆られた行動だとされるが、秀吉には明がそれほど魅力的には映ってはいなかった。

なぜかというと、明は海禁と呼ばれる鎖国政策を取っていたからである。

秀吉の思惑は、明との正式貿易である。

朝鮮出兵といわれているが、朝鮮には魅力を感じていないのは明白である。

武力により鎖国を続けている明を揺さぶり和平交渉を取り付けたが、秀吉の希望は、正式な勘合貿易であり、明の回答は貿易は認めないという回答だった。

ここが重要である。

明の征服という野望がなかったとはいえないが、現実派秀吉は貿易が最優先だったのだ。

その理由は、侵攻してくるヨーロッパ勢に対して、財力を蓄え更なる防衛力の強化をやりたかったのである。

サラゴサ条約というスペイン、ポルトガルの身勝手な計画などわかっていたはずだ。

だからこそ、最良の防衛方法を実行しようとしていたというのが結論だ。

 

秀吉の政治力は秀逸である。

押し寄せてくる西洋勢の力は、鎖国をしている明とわけが違うからである。

本当の知者は凡人から愚かと見える。

秀吉はその代表だろう。

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