武装中立の道を歩んだ江戸幕府。鎖国の真実
教科書から鎖国という文字がなくなったというニュースが少し前に流れた。
イメージから言えば、外国との関係を全て絶つというイメージだったが、現実には、それほど強いイメージではなかったという事である。
しかし、鎖国はなかったというのは、やはり間違いで
日本人の海外渡航の禁止、外国人の入国禁止などの法律はあり、江戸幕府が、対外国の干渉に関して一元管理をしていたと言う事である。
中国明清時代に行われた領民の海上利用を規制する政策を「海禁」というが、鎖国政策も「海禁」政策と同等だったのである。
17世紀の危機
江戸幕府は1603年からスタートしたが、その時の海外情勢は決して平穏ではなかった。
小氷期の到来により気候が寒冷化して、ヨーロッパでは農作物の不作が続いて経済が停滞した。
貧すれば鈍すの諺のとおり、あの魔女狩り等が起こり、不幸にもペストの大流行が起きている。
さらに、カトリックとプロテスタントとの争いである三十年戦争が起こり、人心も乱れヨーロッパ中が、この宗教対立の影響を強く受けたと言われている。
それと平行して、ヨーロッパによるアメリカ大陸やアジア各地における植民地の増加も進んでいて、世界はヤバイ状態になっていた。
徳川家康は、この状態に危機感を感じ、海禁という政策を取ったのである。
日本には、スペイン、フランス、オランダ、イギリス等の船がしょっちゅう訪れており、日本を植民地化しようと虎視眈々と狙い続けている。
そんな江戸幕府は、大きな決断をした。
ヤバイ連中とは極力付き合わないぞという態度
つまり武装中立である。
それが、可能だったのは日本の軍事力である。
海外は強力な軍隊を持っていたが、日本も決して負けてはいなかった。
鉄砲の数では世界一である。
常駐の軍隊武士団がいる。
さらに世界の軍隊が強いと言っても、ヨーロッパと日本では距離がありすぎるので、ヨーロッパが日本を攻めても、攻めきれる訳もなく、逆にやられてしまう事は容易に推測できた。
そこで、ヨーロッパの諸国は、日本は直接植民地に出来ない事を知り、同盟国にしようとしたりと仲間に引き入れようとしていた。
しかし日本はそんな関係を嫌がった。
そこで、中立の立場を取ったのだ。
それは、日本の軍隊が強かったからである。
ただし、いくつかの港は貿易のために空けておいた。
長崎口:対オランダと対清朝中国:長崎会所(天領)経由
対馬口:対李氏朝鮮:対馬藩経由
薩摩口(琉球口):対琉球王国:薩摩藩経由
蝦夷口:対アイヌ:松前藩経由
この政策は、ペリー来航まで続けられた。
なぜなら、鎖国時代日本の文化は熟成したが、世界の兵器開発はどんどん進み、明らかに日本の軍備は時代遅れとなっていたのと、常備軍である武士たちも平和ボケのため弱体化をしていたからである。
開国させられたのは、日本の軍事力の低下だったのだ。
現在永世中立国として、日本の憧れの的スイスにしたって、軍備はちゃんとしている。
国民皆兵で、男子は軍事訓練の義務がある。
各家庭に武器が支給されている。
スイスの主な輸出品はスイス人の傭兵。
国中が秘密基地だらけであり、針ねずみ化して中立を守っている。
中立国というのは、周りと仲がいいという事ではなく
周りは全て敵であるという事である。
17世紀の日本はスイスと同じような状態だった。
さらに人口も少ないので自給も出来、資源大国でもあったのだ。
もし日本が、スイスや江戸時代のように中立国でありたいと思うなら、誰にも頼らない軍備が必要なのである。