韓国人が語る日本の歴史 自虐史観の日本人に伝える事
呉 善花(オ・ソンファ)さんの「攘夷の韓国 開国の日本」1996年 文藝春秋を読んだ感想である。
呉 善花さんは 韓国・済州島出身で1988年帰化している。現在、拓殖大学国際学部教授とあり、本も多い方である。
何冊か読んだが、韓国人の考え方が出ていて時々はっとする箇所にぶつかる。
今回も、気になるところがあり書いてみた。
日本人の歴史家は、古代の事になると朝鮮半島の影響というお決まりの説を、繰り返し使ってきた。
それは説なので問題ないのだが、あまりにも朝鮮半島の影響とか帰化人の活躍などを過大に評価している気がする。
まあ、朝鮮半島の歴史は、中国の歴史書にしか書いていないので、そのあたりはしょうがないと言えるのだが、適当な憶測も多く、首をかしげながら読む本が多いのは事実である。
そこで、呉 善花(オ・ソンファ)さんの本を少し引用して、その点を考えてみたい。
韓国人の歴史観
まず、現在の韓国人の学者が日本と韓国の歴史をどう見ているかという点である。
韓国の学者は「日本文化のベースは韓国人が作った」と考えている。
本によれば、韓国のテレビでたびたびおこなわれる番組があるという。
「韓半島文化としての飛鳥、奈良、京都」
内容は現在日本の文化は、百済人や新羅人、高句麗人たちが日本に住んで、日本に新しい文化を作り上げた。
日本の古い建物は、韓半島人の進んだ建築技術で建てられたものである。
文化や政治のシステムも韓半島人から全て学んだものである。
だから、現在の日本の元は、韓半島人によって創られた文化である。
なるほどと思う。
内容を聞けば、日本の歴史学者が言いそうな事ばかりである。
そして、一般人もほとんど同じような韓国優位説を当たり前のように信じているそうである。
突っ込みどころは沢山あるが、韓国人の考えなのでしょうがない。
仏教伝来
次に仏教伝来である。
上代の日本においては6世紀半ばの欽明天皇期、百済から古代日本(大和朝廷)への仏教公伝のことを指す。ウィキペディア
この事実は間違いないが、呉 善花(オ・ソンファ)さんは、「日本人は勘違い」をしているのではないかと書いている。
仏教伝来の時期、韓半島の新羅や百済、高句麗の地で絢爛豪華な仏教文化が栄えていて、その流れで日本に仏教が伝わっていたかのように考えているのではないかと言っている。
百済に仏教が伝わったのは384年の事である。
それ以後150年間に仏教的文化が広まった形跡がまったくないといっている。
百済時代に立てられた寺の数はせいぜい数十の数で、ほとんど仏教は広がっていない。
6世紀半ばになり、やっと仏教関係の寺院が建てられたのが約50という。
日本はどうかというと、僅か30年の間に全国で46寺、僧侶1385人が存在し、平城京遷都までに480寺が建立されている。
さらに、法隆寺や四天王寺などの大規模な建築物も作られている。
この事実を日本の歴史家は知らないわけはなく、ただスルーしているのだろう。
よく日本の仏教建築の場合、韓半島の技術者が大勢来て作り上げたなどと書いている解説を見かけるが、百済を含め韓半島にはそんな技術者は存在していなかったのだ。
確かに仏教は、韓半島経由で日本に伝えられたが、韓半島を経由しただけなのだ。
呉 善花さんも、日本の歴史学者が書いた書物からは、その事実が伝わっていないと書いている。
日本の仏教文化のほとんどの主体は、日本人の努力の結晶なのだ。
元韓国人からその事を指摘されるとは、なんだか恥ずかしい限りである。
日本の学者よ。
もっとしっかり調べて欲しいし、もっと日本人の力をアピールしなければ本当の歴史は見えてこないのではないかと思う。
さらに、仏像の作り方も寺内部の作り方も韓半島の文化ではないといっている。
韓国人は、シンメトリーが大好きなのだ。
そこに美を感じるという。
ところが日本の仏像はシンメトリーではないものが多いという。
非対称の美意識は日本人独特だと書かれている。
本では百済観音の事を取り上げている。
百済観音とは奈良県斑鳩町の法隆寺が所蔵する飛鳥時代(7世紀前半 - 中葉)作の仏像(木造観音菩薩像)である。
元禄11年(1698年)の『法隆寺諸堂仏躰数量記』に「虚空蔵立像 長七尺五分」とあるのが、像高からみて百済観音に当たると推定され、これが百済観音の存在を記録する最古の文献とされている。
百済観音とは俗称である。別に百済から来た像だとは何処にも記録がない。
法隆寺では虚空蔵立像といっている。
しかし、本当のところ何も分っていない仏像である。
左右対称の朝鮮式仏像ではないかといわれているが、専門家の間ではどうも違うようである。
異国から入ってきた仏像さえ、短期間の間に日本の美が付け加えられ、日本人が作る仏像のさきがけになったものと想像される。
城壁のない都
日本人は唐の様式や法律を真似て、日本国をスタートした。
しかし、そのやり方は真似をしたけど、日本で出来上がったものはまったく別のものだった。
それが藤原京の城壁のない都作りだったのだ。
呉 善花さんは言う。
中国も朝鮮半島の都も、頑丈な城壁で都を囲む様式で、城壁のない都などありえないという。
中国の正史、随書や旧唐書にも「倭国には城郭なし」とはっきり書かれていて、それがどんなに奇異な事なのかを特記している。
見た目は同じようでも、根本的な事が違う国、それが日本なのである。
これらの事を全て合わせて、韓半島から高度な文化的影響を受けたと言い張る歴史学者は、全ておかしい存在である。
韓国人は、日本の神社と注連縄を怖がる。
韓国人にしてみれば怨霊のいる場所に注連縄らしきものを張っているからである。
影響を受けたのではなく、影響を与えたのである。
稲作もそうだ。
日本の学者が安易に、稲作は韓半島から伝えられたと誤った解釈を教科書に載せたのだ。
さらに、弥生人は大人数でやってきた韓半島の渡来人たちだと言いふらしている。
弥生時代の遺跡の下に縄文人の遺跡が発見されている。
弥生人は縄文人とイコールだったという事実は、誰も語ってはくれないのだ。
新羅の言葉はどうだったのか。
高句麗語や百済語に似ていたという見方もあるが、数詞などが明らかに異なるため、別系統の言語と考えられる。
百済はどうだろう。
百済の王族は高句麗から出ているため、彼らは扶余系高句麗語を話していたと考えられる(扶余系百済語)。一方百済の民衆は三韓の言葉(韓系諸語)を話していた(韓系百済語)が、どの言語に属すかなどについては不明である。
高句麗語は高句麗の滅亡とともに衰退し、言語としては消滅したと見られている。
それぞれ不明な点が多いし、分らない事だらけである。
それなら、現在の韓国で使われている朝鮮語はどうだろうか。
歴史学の見地から考えると、百済、新羅、高句麗では言語体系が異なるという説も存在しており、『三国志』魏書弁辰伝には馬韓、辰韓(秦韓)間においては異なる言語が用いられていたという記述が存在している。
結局、民族も言葉もばらばらな集団が、朝鮮半島を舞台にして住んでいたのである。
倭人も1世紀には、朝鮮半島も倭国としていた証拠もある。
そんな場所の韓半島に、大雑把に高度な文化の影響を受けたと書くのは、真面目な学者とは思えない。
百済や新羅の大量の難民を日本は引き受けている。
その時、言葉はどうだったのだろうか。
通訳が必要だったのか。その記録は残っているのか。
百済の場合、通訳の存在は見当たらない。
それがどんな事なのかを深く考えて欲しい。
また、韓半島人が移り住んだ日本の地域に、その国の言葉は残っているのだろうか。
それもまた大切な事である。
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