金比羅山 謎の天孫降臨伝説を追え(13) 完結
まとめである。
長崎港の古名だが、「瓊杵田津(にぎたづ)」という。
その「にぎたづ」と言う名前は古代史に出てくる。 その場所は、愛媛県の道後温泉の港の事である。
「にぎたづ」を歌った歌がある。
「熱田津に船乗りせんと月待てば 潮もかないぬいまはこぎいでな」 万葉の佳人 額田王
額田王の歌となっているが恐らくは斉明天皇(女帝)御自身の歌であろうといわれている。
この資料から、熱田も熱海(あたみ)と同じだと判断したのである。
しかし、熱田は「あつた」とは読んでいない。「にぎた」と読んでいる。
この事から、再度検証してみる。
この歌を歌ったのは、本当は斉明天皇だと言われている。
しかし確定ではない。 額田王かもしれない。
(額田王の絵)
すこし、斉明天皇の事を調べてみた。
斉明天皇と皇極天皇(こうぎょくてんのう)は同一人物である。
つまり、2度天皇をやっている。そして実在の人物である。
実在の女帝・斉明天皇の時代、新羅征伐への出発を歌ったものである。
女帝なのに、とても勇ましい。 日本史の中で、勇ましいといえば神功皇后がいる。
この神功皇后は、三韓征伐を行ったとある。
住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。
これは史実とはいえなく、伝説として有名なのだ。
そして、大陸にいったとされる神功皇后のモデルになったのは斉明天皇(皇極天皇)の可能性が高いといわれている。
この神功皇后に、ついて行ったのが安曇族、阿曇比羅夫(あずみ の ひらふ)(武内宿禰)だ。
このチームは、百済を救うために出向いたのだが、新羅との戦いに敗れた。
そして、642年3月5日には阿曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国。同年4月8日(5月12日)には追放された百済の王族、翹岐(ぎょうき)が従者を伴い来日した。そして、663年8月27-28日の白村江の戦いで戦死したとされる。
そんな、戦いだったのだ。
「にぎたづ」の歌は、大陸へ戦争に行く時に歌われている。
もし、長崎港が「にぎたづ」と呼ばれたとしたら、帰国の際に長崎港に寄った時しかない。
しかし長崎に阿曇比羅夫が立ち寄ったという記録はない。
だが長崎には百済の事が記録にあるのだ。
「肥前古跡記によれば稲佐神の祭神は百済国聖明太子、空海人唐の折、稲佐山に上って怪異あり寺を創して海蔵庵と号す」
稲佐神の祭神は百済国聖明太子とある。聖明太子は倭国に仏教を伝えたと言われている。
現実に稲佐氏という一族が長崎にいた。 稲佐山の麓である。
その祭神は百済国聖明太子なのだ。百済族の末裔だという事は間違いない。
つまり、チーム斉明天皇(神功皇后)は、長崎港に寄った可能性が高いのである。
長崎港には「神功皇后」伝説が多い。長崎港にある、神ノ島、皇后島などがそうだ。
「斉明天皇」イコール「神功皇后」なら、なぜ長崎に「神功皇后」伝説がおおいのかの謎も解けるのだ。
さらに長崎は大陸と関係が深い。以前有明海が安曇族の縄張りだったと書いた。
そうすると当然長崎も縄張り内である。阿曇比羅夫の進言により、長崎港に寄ったとも考えられる。
さらに、チーム斉明天皇が長崎に立ち寄った理由がもう一つあった。
それは、斉明天皇と共に行動していた額田王の事である。
額田王の親戚が長崎港を治めていたのだ。
その親戚とは、丹治氏の事だ。
前、長崎には丹治氏が住んでいて栄えたと書いた。
驚く事に丹治氏は、今回の「にぎたつ」を詠んだとされるの万葉の佳人 額田王と親戚である。
さらに額田王の兄弟は「猪名(いな)氏」「威奈(いな)氏」となり、後生へ続いていく。
長崎氏の出自である丹治一族には、額田王の一族という親戚があり、それらは「威奈(いな)氏」という。
驚くべき事に、長崎の稲佐氏と見事に繋がっていく。
複数の理由から、チーム斉明天皇は長崎港に寄ったのに間違いない。
長崎半島には丹治氏がいて、島原には髙来族が住んでいる。
それで、稲佐山の麓に百済一族を住まわしたのだと推測される。
長崎港を「にぎたつ」と呼んだのは、 額田王や斉明天皇がこの地によったのを記念に付けられた名前だと思われるのだ。
さらに、「にぎたづ」は古くは「温泉津」ともいわれているという。
温泉が近くにある港を「にぎたづ」というのだろう。
長崎港の近くには、道ノ尾温泉が今でも有り、三ッ山町の六枚板にも”金湯”という冷泉の湯治場があった。
長崎港の古名が「にぎたづ」という理由はわかった。僕なりに十分根拠のある説だと思う。
そして、その港にある山が「にぎざん」と呼ばれたのだろう。「にぎ」は「瓊杵」と漢字を替え表記される。
「瓊」は、長崎で生産される翡翠のことを指していたのだ。さらに「瓊杵」は「瓊瓊杵尊」を連想できる。
ここで初めて「天孫降臨伝説」とつながる。
「瓊杵」が「瓊瓊杵」となり、天孫降臨の話しが生れる。
そういう事だろう。
只の言葉あわせではない理由がある。
天孫降臨を決めたのは天照大御神と高木神とある。
島原の国津神は「高来 たかき」という。
そして、天孫降臨の話しは、天照と「高木(たかき)神」が決めたのである。
高天原の「高木(たかき)神」と島原の国津神「高来(たかき)神」は、同一の神ではないだろうか。
高天原の「高木(たかき)神」は、今回の天孫降臨の決定に大きな助言をしている。
「高木(たかき)神」は「高皇産霊神」と呼ばれている重要な神様だが、謎が多い神様でもある。
島原の国津神「高来(たかき)神」がそれほど重要で力のある神だったとは、記紀の中に何処にも載っていない。
しかし、安曇族が背景にいるとすれば、話が違ってくる。
記紀の天孫降臨の話しの中に、島原の国津神「高来(たかき)神」が登場している可能性は高いと僕は思う。
さらに天孫降臨の描写にも長崎地方ではないかと思われる節がある。
赤ん坊の「瓊瓊杵」が地上に降りてきたとされる場所は 「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。 それで、ここはとても良い土地である」とある。
「笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて」 この「かささ」という岬は長崎にはない。
だが日ノ御碕と呼ばれていた「野母崎」はあり、「野母崎」には観音寺という由緒正しきお寺が有り、現実に信仰の道が残っている。
(野母崎 観音寺)
「朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。」
これはしっかり当てはまる。
記紀に書かれている「天孫降臨」の物語と一致するところもあるが、完全一致ではない。
しかし、「ニギ」という港の古名から「瓊瓊杵の命」の話しが出てきたのは、 全くのでたらめではないのは間違いないだろう。
只の言葉遊びではなく、長崎の「天孫降臨」の話しとして、十分根拠がある話しだったのだと思う。
神功皇后が、朝鮮征伐のあと、百済の王子たちを連れて長崎に立ち寄った。
食料や水の補給だったのだろう。または有明海の安曇族と合流するためだったのかも知れない。
その際、百済系の人々が一部長崎に住み着いた。
そしてその人達が金比羅山の金比羅神社の起源となった。
当社の起源は、昔百済の琳聖太子が山上に香をたいて北辰を祀った故事に由来するといわれています。
阿曇比羅夫の部下たち一部も長崎に残った。
なぜなら、長崎には土蜘蛛と呼ばれる反大和勢が、多く残っていたからである。
そして、阿曇比羅夫の軍隊は長崎を大和化していったのだ。
金比羅山の文字をよく見てみれば、阿倍比羅夫と同じ文字が使われている。
「金比羅」と「比羅夫」
わざわざ金比羅神社を勧進したのは、阿倍比羅夫を偲んでのことだった。
これが、長崎天孫降臨伝説の正体だったのだ。
理論的には正しいと思うのだが、なにせ物証や証拠となるものが、極端に少ない。
ただ、長崎の「天孫降臨伝説」は、長崎の消えてしまった過去を示唆していたのだったとおもう。
誰も見向きもしないが、この長崎の地には大いなる過去があったのだ。