日本のキリスト教弾圧とアジア植民地の実態 歴史の事実を知る

日本、特に長崎のキリスト教の弾圧は有名である。

それは「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」という世界遺産に認定されているくらいだ。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 オリエンタルエアブリッジ

長崎は最初「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として登録を目指していたが、UNESCOは認定を渋った。

なぜかと言うと、キリスト教は世界一信者の数が多い宗教で、様々な歴史的建造物は世界中にたくさん有るからである。長崎には教会は多いのだが、世界と比べると比較にならない。

そんな中で、日本のキリスト教が世界遺産に取り上げられたのは、潜伏キリシタンの特異性である。

迫害に耐え長い年月信仰を守っていた「日本人の健気さ」が評価されたといっても良い。

信徒発見という事件があった。

1865年カトリック宣教師プティジャンは大浦天主堂を一般に開放していた時、15人ほどの男女が教会にやってきて、「我らの胸、あなたの胸と同じ」とはなし、隠れキリシタンであるという事を告白したという事があった。

300年近くの間キリスト教を密かに信仰し続けたという、日本人信徒の純粋さに私も感動した。他の国ではありえない奇跡の信仰に世界中は驚き話題になったのである。


しかし、この世界遺産の件で問題点も有る。

話題になっているのは、長崎県平戸市の「生月島(いきつきしま)」の「かくれキリシタン」が世界遺産から外されたことである。

「生月島のかくれキリシタン」は、日本人の感覚からすれば、健気な人達だったと言えるのだが、世界は認めなかった。

それは、「生月島のかくれキリシタン」が独自の信仰と変化していき、キリスト教徒と呼べない信仰に変化したからである。

キリスト教の総本山のバチカンは、戦後生月島へオーストラリア人の枢機卿を差し向けたのだが、生月島の人達は、近代のカトリックへ戻らなかったという経緯が有る。

ここに日本人と西洋のキリスト教徒との違いが明白に出てくる。

日本人からすれば、最初はキリスト教だったのだが、禁教の時代を生き抜くために変化せざるを得なかったと理解している。

生月島のかくれキリシタン信仰

しかしバチカンは、その「生月島のかくれキリシタン」を異教徒として見たのだ。

なんだかとても冷たいように思えるのだが、ここにカトリックの厳しさがあると言っていいだろう。

キリスト教の弾圧

長崎に住んでいると、キリスト教は日常の中に有る。教会は観光地になっているし、キリスト教関係の幼稚園や小中校の学園も多い。

そして、その長崎では「キリスト教の弾圧」がことさら強調されているように思える。

キリシタン信者を雲仙地獄へ突き落とした拷問や、踏み絵など悲惨な事柄がより強調されている。

二十六聖人殉教の図

しかし、なぜ日本が禁教に踏み切ったのかという部分があらゆる説明から削げ落ちているのを感じるのだ。

まあこの事は事実なので反論などないが、キリスト教弾圧の歴史的事実を、世界的な視点から見ていきたいと思う。


カトリックがなぜアジアにやってきたのか

「カトリック」の語源はギリシア語の「カトリケー 普遍的、世界的」の形容詞「カトリコス」に由来している。

内容は皆さんご存知のように、神の子イエス・キリストの教えで成り立っている。

始まりはイエスの直弟子たちがユダヤやガリラヤの地において伝道活動を始めたことである。

その時代、地中海近辺に栄えたローマ帝国はミトラ教と呼ばれる太陽神ミトラス(ミスラス)を主神にした聖牛供儀を行う宗教が存在していた。その為、キリスト教は迫害され、イエス・キリストは処刑され復活を遂げる。

それからは皆さんがご存知のとおり、キリスト教はヨーロッパに広まった。

それから1500年以上栄えていたのだが、16世紀にルターの宗教改革が起きる。教会への批判が始まったのだ。そしてローマ・カトリック教会からプロテスタントの分離へと発展した。

プロテスタントとは抗議する者という意味である。

カトリックは教会というものがベースにある。そして全カトリック教会の裁治権と統治権を持つローマ教皇が頂点である。

それに対してプロテスタントは聖書主義だ。

その対立は次第に激化していき、カトリックとプロテスタントは16世紀中頃から 17世紀にかけてヨーロッパの各地で宗教戦争が勃発する。

ユグノー戦争(フランスのカルバン派ユグノー)とカトリック派の間に起きた抗争)
オランダ独立戦争(スペイン王政からのオランダ独立戦争)
三十年戦争(ドイツを中心に展開したヨーロッパ最大規模の宗教戦争)
などである。

その結果、カトリック派はヨーロッパでの影響力の低下の対策として、ヨーロッパ外に活路を見出そうとしたのだ。

長い説明になったが、これがカトリックが世界に飛び出した経緯である。

そして西洋人達は植民地政策と呼ばれる悪魔の侵略を有色人種の国に向けて開始したのだ。

デマルカシオン

デマルカシオンという言葉がある。

これはポルトガルとスペインが世界を分割して征服しようとする、とんでもない取り決めである。そしてローマ教皇はその分割に正当性を与えるという自分勝手な行為を平然とやっていたのだ。

スペインは西へ、ポルトガルは東へ」と宣教許可を出す始末である。

西に行ったスペインはアメリカ大陸を侵略し、東に向かったポルトガルは、アフリカ、インド、東南アジアを侵略している。

これにより、アフリカ人は奴隷としてヨーロッパやアメリカに連れてこられ人種差別の根源を作った。

さらに、南アフリカのインカ帝国を殲滅し、伝染病を撒き散らす。北アメリカでは、インディオたちを、オーストラリアではアボリジニを虐殺して、やりたい放題の限りを尽くすという事になってしまった。

インドの場合

インド西海岸の州ゴアは1510年以降、インドにおけるポルトガルの拠点として東洋におけるキリスト教布教の中心となった。

1580年スペイン王フェリペ2世によりポルトガルはスペインに併合され、その海上の覇権と領土はスペインに継承された。

16世紀ではインドのムガール帝国が力を持っており、この時代ではカトリックとの大きな争いはまだなかったが、17世紀になると東インド会社を設立した英国、オランダ、フランスがインド各地で先を争って争うようになる。そして様々な容赦ない弾圧がインドの人達を苦しめる。

Astraと東インド会社

ザビエルは1545年にインドに到着している。ザビエルはスペイン人なので本来西方面に行くはずなのだが、ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣されてきたのだ。

そしてインド、ゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人とともに日本をを目指す事となった。

中国の場合

中国には古く7世紀の唐の時代には、ネストリウス派が「景教」という名で伝来していた。

1310年ごろには泉州にもフランシスコ会の修道院が建てられたが、その後宣教師の到来が途絶えたことで中国のカトリック教徒たちは14世紀中に自然消滅したとある。

日本にザビエルがやってきた時期、当然中国にもカトリックが布教されている。

しかし、日本での布教とはかなり違っていることも注目したい。

中国に行けなかったザビエルの遺志を継いで中国宣教の実現を図り、ヨーロッパ人の宣教師で中国語と中国文化をマスターしたものを宣教に派遣するという大方針を立てた。

リッチ(宣教師)らは苦労の末に中国の土を踏み、自ら中国名を名乗り、中国の儒者の服装をして中国文化の理解につとめた。

彼のやりかたは後のイエズス会中国宣教師たちに引き継がれていく。

まあ、明朝から清朝初期の中国は巨大である。中国側を怒らせないようにと配慮した結果だろう。

西洋の文化を惜しみなく与え、中国に根付こうとしたカトリックだったが、典礼論争という事件が起きた。

17世紀後半にはロシア人コサックが北京などに入植し、正教が再度伝来した。 しかし、フランシスコ会やドミニコ会などがイエズス会の適応政策を批判、イエズス会は中国における偶像崇拝を容認していると教皇庁へ訴えた。

典礼問題

また、中国内でも国を超えて活動しながら教皇に忠誠を誓うイエズス会は危険視される。

これ以後、カトリックイエズス会は中国内で総攻撃を受ける。これは宗教の弾圧ではなく、政治的な弾圧だった。

そして1773年に中国におけるイエズス会は解散に追い込まれ、宣教活動も終止符を打つことになる。

余談だが、その後西洋から目をつけられた中国はその後西洋人によっていいようにされていく。

特にイギリス、フランスは容赦なかった。イギリスは、インドで栽培し製造したアヘンを、清に密輸して販売し収益を得ていた。

清はそんなイギリスのやり方にアヘン販売流通禁止という対抗策を立てたのだが、最新鋭のイギリス海軍に勝てるはずもなく、戦争になりイギリスは勝利する。

その結果、この英国と清国との南京条約という不平等条約の他に、アメリカ合衆国との望厦条約、フランスとの黄埔条約などが結ばれている。

詳しく書くのを省くが、貿易完全自由化、治外法権を強引に中国に認めさせる内容である。

フランスの黄埔(こうほ)条約の結果、布教保護権を獲得したパリ外国宣教会は、中国西南地方で布教を行い、他省からの移民コミュニティを中心に改宗者を増やした。

しかし、列強の圧力を背景とした尊大な宣教は反発を招き、教案と呼ばれる反キリスト教暴動も頻発している。

いろいろあったが結局中国で布教に成功したのだが、今度はカトリック同士が仲違いしてしまう。これを典礼論争という。まあ人の国で我が物顔に振る舞う西洋人達はどこの国でも同じようなことをやってきたのだ。

現在の中国は共産党一党支配である。宗教は認められていない事になっている。


朝鮮・韓国の場合

朝鮮に初めてキリスト教の宣教師が足を踏み入れたのは、1593年に文禄・慶長の役に参加していたキリシタン大名小西行長の求めに応じて朝鮮に渡ったイエズス会司祭グレゴリオ・デ・セスペデスが最初であるという。

しかしこの時は布教はしていない。

1549年フランシスコ・ザビエルが日本に来た時点では、スペインイエズス会では韓国は布教の対象ではなかったからである。

この時代は李氏朝鮮であり、経済的文化的にも遅れており、西洋のカトリック宣教師たちの話題にも登らなかったと言う。

しかしそれでもカトリックは伝わっている。

1777年頃から、中国経由でキリスト教に関する書籍(天主実義)の本を研究した学者たち(キリスト教を朝鮮では西学と呼んでいた)の中からイエスを信じるキリスト教徒の共同体が形成されていたという。これら信徒は司祭の布教無しに私的にキリスト教を信仰していた。

なんと朝鮮は布教者なしに独学でカトリックを信仰し始めたのである。

しかし、その当時の朝鮮は儒教で支配されている。なので弾圧されている。

かなりあとの時代になるが、弾圧の歴史がある。

李氏朝鮮の大院君政権下の1866年には密入国していたフランス人司祭9名と、カトリック信徒約8,000名が捕縛・処刑される丙寅教獄が起こった(これに対してフランスは朝鮮を攻撃したが、朝鮮軍によって撃退された。これを丙寅洋擾と呼ぶ)が、カトリック信者は続いてその信仰を守った。

それ以外にも弾圧の事実はある。

1801年 – 辛酉教獄: 清国人宣教師周文謨・進士黄嗣永ほか300名あまりを処刑
1839年 – 己亥教獄 : フランス人宣教師ローラン=マリ=ジョゼフ・アンベールほか200名あまりを処刑
1846年 – 丙午教獄: 金大建ほか20名あまりを処刑


韓国を知る上で重要な、朝鮮にキリスト教が根付いた理由と、その歴史
https://www.multilingirl.com/2018/06/history-of-christianity-in-korea.html

(1866年は日本では慶応2年で、京都で 坂本龍馬の仲介で西郷隆盛・小松帯刀と桂小五郎会談。薩長同盟成立した時期である。まだ日本でもキリスト教の弾圧は続いている)

しかし、李氏朝鮮から大韓帝国(1897-1910)、日本統治(1910-1945)、連合軍軍政期(1945-1948)をへて、南北に別れ大韓民国(韓国)の中では、キリスト教は日本よりも格段に信者が多くなっている。

それは、韓国人が熱を持ってキリスト教を求めているとも言える。

神学生はテキストを丸暗記する。信者は数とヴァイタリティはあるが質はなく、「自分たちの家族のためにだけ」祈っているという有様である。

韓国のカトリックは不思議だ
https://spinou.exblog.jp/22530597/

こんなページもあるほど、カトリックの宗教は韓国流にアレンジされている。

またプロテスタントの教義も韓国人は大歓迎をして取り入れたのだが、これまたアレンジがすごい。

韓国でプロテスタントが成長した秘訣は巫俗を受け入れた宗教的熱狂主義に根元を置く心霊復興会にあると指摘した。崔吉城教授(クリスチャン)

つまり、キリスト教が敵対視しているシャーマニズムを韓国プロテスタントは大いに取り入れ、独特のキリスト教になっているという。

まあ国民性なんだろう。

タイ

タイは仏教の国である。そのタイにおけるカトリックの歴史は1513年、アユタヤにポルトガル人が上陸したことに始まる。

フランスがカトリックを利用してタイの属国化を図ろうしたため、フランスからの宣教師の数が圧倒的に多くなった。

この後も、タイ国内ではフランス出身の宣教師が幅を利かすことになる。

ナーラーイ王の死後、宣教師が虐殺され、一時カトリックの活動は衰退したが、チャクリー王朝に入ると徐々に禁教傾向が緩和され、ラーマ3世(モンクット王)の時代には布教がほぼ完全に許された。


ベトナム

ベトナムは仏教の国と思われがちだが、日本と同じような混在の信仰を持つ国である。

17世紀にフランスから宣教師アレクサンドル・ドゥ・ロードが派遣され、6000人以上のベトナム人に洗礼を授けたと報告している。


インドネシア

16世紀前半には、マラッカ海峡に面するスマトラ東岸のほとんどの港市がイスラームに改宗していた。1602年、オランダ東インド会社がジャワ島に進出し、オランダによる植民地化が始まってしまう。

オランダ人たちは前世紀にこの地域にやってきていたポルトガルや、同じ時期にやってきた競争相手のイギリスを追いやってこの地域における主導権を握ってしまった。

植民地化されたということは、宗教もキリスト教が主体になったということである。

フィリピン

スペインは1529年に植民地化している。

征服されたフィリピン原住民は植民地時代の初期にはエンコミエンダ制の下でスペイン人の征服者によって分配され、分配された徴税権や労働徴発権と引き換えにスペイン人はフィリピン原住民に対してカトリックの布教を行うことを義務付けられたが、エンコミエンダ制は原住民組織への打撃が大きかったため、17世紀前半に廃止された。

エンコミエンダ制とは植民地住民支配のための制度で、植民地経営者に征服地と居住民の統治を任せるという、ひどい制度である。つまり奴隷制度といっても良い。

これらがアジア地域のカトリック布教の数々である。

これ以外にも、アメリカ大陸は西洋列国、特にスペインに好き放題されている。


この最悪な大航海時代で植民地にならなかったのは、アジアでは日本とタイ王国だけである。


タイは英仏の2国が狙っていたのだが、自力で中央集権体制を構築し、近代化を出来たからであり、日本の場合戦国時代で最強だったからである。


こんな恐怖の時代にやってきたカトリックである。日本にとってラッキーだったのは信長、秀吉、家康と日本はこれらの覇者により、国としてまとまりを完成していたということである。

キリスト教が悪いというわけではないが、植民地政策と一体としている布教は、その国の存亡に関わるほどの一大事だったのである。


「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」という世界遺産認定は喜ばしいことであるが、当時のヨーロッパ体制の事を抜きにしては語れないだろう。

二十六聖人の真実

長崎に二十六聖人の記念碑がある。この処刑事件にも裏が存在する。

この時代、日本はイエズス会の縄張りであった。

ところがフィリピンからスペイン系のフランシスコ会修道士が渡来し、秀吉の伴天連追放令を無視して、傍若無人に布教活動を開始した事がこの事件の発端である。

この件に関してイエズス会が深く関与しているという説もあり、単なるキリスト教徒の処刑問題ではないと言える。

日本二十六聖人


日本人が残酷でキリシタンを惨殺し続けたというニュアンスは間違いである。

それは世界情勢を見れば一目瞭然であり、断固としてキリスト教を排除し続けた日本の慧眼とも言えるのだ。

キリスト教の悲劇

宗教にいいも悪いもないはずである。

どんな宗教も愛と平和を望む思想である。しかし国がその宗教を利用した場合、悲劇がたち起こってしまう。

いつでも悲しいのは信者たちである。

弾圧の歴史にある悲劇は悼むべきであるが、その時代の情勢もちゃんと知っておくべきである。

長崎で「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を知る時、観光だけでなく、日本人の健気さを知ってほしいと思う。

そしてなぜ悲劇が起きたのかは、最も重要なことだと思う。

そして重ねていうが、信徒たちに罪はない

その純粋さは世界でも稀だったのだ。

そして弾圧した江戸幕府を全否定するのも間違いである。幕臣たちも日本を愛するために行った行為である。

誰が一番悪いのか。長崎人はそれを知る義務があるのだ。

引用、参考 ウィキペディア

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