勾玉はイヤリング メイドインジャパンの証

神器とは日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられたという鏡・玉・剣のことである。

三種の神器

八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)という。

改めて言うこともないが、この神器のうち八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)が気になっている。

勾玉は日本独自の宝である。

単純に、なぜあんな形をしているのかが未だに不明である。

例によって推理してみたい。


『記紀』で、『古事記』には「曲玉」、『日本書紀』には「勾玉」の表記が見られる。語源は「曲っている玉」から来ているという説が有力である。

そう、曲がっているのだ。

これが勾玉の最大の謎である。

勾玉について、これまで上がっている説を記す。

動物の牙で作った牙玉を基とする説
胎児の形を模したとする説
魂の姿を象ったとする説
巴形を模したとする説
月の形を模したとする説 等

ナルホドと思う説もある。胎児の形をしているという話は、ドキリとさせられ話題になった。

あの独特の形には、霊的なものや祈りなどが感じられるのだ。

しかし、これは現代の人々の思い入れじゃないのかという思いもある。

少し、冷めた目で見る必要も感じている。

推理する前に、考古学の話をしたい。

勾玉

勾玉は日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古い。朝鮮半島へも伝播し、紀元前6世紀から3世紀初頭の無文土器時代にアマゾナイト製の勾玉が見られる。

アマゾナイトとは微斜長石(びしゃちょうせき)といい、火成岩や変成岩に含まれる造岩鉱物。日本では長野県南木曽が有名である。

縄文時代早期末から前期初頭に滑石や蝋石のものが出現し、縄文中期にはC字形の勾玉が見られ、後期から晩期には複雑化し、材質も多様化する。

縄文時代のものは硬玉、軟玉、蛇紋岩、粘板岩、硅岩(けいがん)、片麻(へんま)岩など多種多様だったということだ。

弥生時代になると硬玉、蛇紋岩、ガラス製のものが多出している。

新潟県・糸魚川市 姫川産 翡翠勾玉

昔、勾玉は硬質の翡翠から作られているので、野蛮な縄文人が作れるはずはないと思われていた。

朝鮮半島から勾玉が発見された時には、それ見たことかという学者の人たちが多かったのだが、翡翠の産地が糸魚川周辺だと科学的な検査で判明した後は、日本のオリジナルという事で確定している。(朝鮮半島では本翡翠は産出されない)

縄文時代は超長いので、とてもゆっくりとした変化だと思うが、とりあえず勾玉は作り続けられていたということである。

ただ、時代と共に変化している点にも注目したい。

さらに、翡翠の勾玉の価値がかなり高いことがわかる事がある。

魏志倭人伝(紀元3世紀中頃)には邪馬台国の王の壱与(卑弥呼の次)から、真珠5000個、青い勾玉2個、高価な織物40反、男女30人魏の国へ貢ぎ物を送ったと書かれている。

品目から言えば、真珠5000個と青い勾玉2個は同じ価値を持っていたとも言える。

つまり、勾玉は超高級品だったのだ。

最初は珠

5500年前の三内丸山遺跡からは勾玉の原型と思われるヒスイ製の大珠が出土している。
http://ta-ichikawa.com/?p=4097

ヒスイ製大珠 | 新潟県立歴史博物館

出土品を見れば、ヒスイ大珠に穴が空いている。

出土された一覧
http://material.miyazaki-c.ed.jp/ipa/sandaimaruyamaiseki/ibutu_kouekihin/hisui/IPA-san1030.htm

ヒスイ大珠・・・ヒスイは約600km離れた新潟県糸魚川周辺から運ばれた。原石、加工途中のもの、完成品の珠などが見つかっている。非常に硬い石で、その加工は熟練した技術と知識が必要である。(写真提供:青森県教育庁文化課)

縄文人はおしゃれである。

その理由は、現代と同じで、主義主張を持つアーティストは個性的な格好で、自分を表現している。

なので、弥生時代と比べて個性の時代だったと言ってもいい。

ヒスイ(翡翠)は、深緑の半透明な宝石の一つ。東洋(中国)、中南米(インカ文明)では古くから人気が高い宝石であり、金以上に珍重された。古くは玉(ぎょく)と呼ばれた。

ヒスイ原石

このように世界的に見ても大人気の石だった。

勾玉の材料がすべて翡翠だったわけではなく、多くは、瑪瑙、水晶、滑石、琥珀、鼈甲で作られている。

そして本翡翠は硬すぎて、熟練工しか加工できなかったようで、やはり特別な商品だったことは間違いない。

縄文商人

NHK番組『日本人はるかな旅』における「交易」説は、小山修三氏と岡田康博氏が唱えられており、共著『縄文時代の商人たち(洋泉社)』で詳しく述べられている。

縄文時代が海路の交通網が発達した、交易の時代だったというのはよく言われている。

海の住人というのは、外交的であり、閉ざされた集団の意識が乏しいとされている。

なので縄文時代の人たちが交易をとても重要視していたという点は納得がいく。

例えば、三内丸山は、300~500人が居住する、工房、倉庫、宿泊施設、宗教施設、墓地などを備えた極めて特殊な集落だった。

交易(商人)の拠点であり、生産の拠点であり、さらにモノを分配する拠点でもあったとされている。

縄文の遺跡を調べれば、ただ食べて寝るといった生活ではなく、各地域と行き交い、交易していたと思われる遺跡も多数発見されている。

まず、ヒスイの産地である糸魚川市の山間部には玉作りを専門とする集落、長者ヶ原遺跡(中期)がある。

黒曜石をたくさん持つ集落は古くからあり、南茅部の大船C遺跡はその一つで石皿の産地(約6000年前)と言われている。石斧だけを作るムラは新潟県朝日村の奥三面遺跡群(後期)がある。また、東京都北区の中里遺跡は、交易用の貝(カキ)を養殖し加工していたとしか思えない巨大集落(前期後半から後期前半)がある。

こう見れば、縄文時代でも、交易商品としか思えない物を作っている場所が多い。

まるで、現在の日本と同じではないか。

私達は、縄文時代の世界を繰り返しているに過ぎないのかも知れない。

シーパワーの縄文

地政学でいうならシーパワーによる世界を縄文時代は築いたと言える。(そうなれば、弥生時代はランドパワー国となる)

紀元前5000年頃、縄文時代中期の日本は、人口が大幅に増加し、竪穴式住居や貝塚が盛んに作られた。そして丸木舟による漁労活動や交易が盛んに行われる。

縄文時代の丸木舟で世界中を航海するのはかなり困難だと思われるが、ユーラシア大陸東部の日本海沿岸なら、交流はあったと思われる。

通説でも、縄文時代の水運には丸木舟が使われ、硬玉の翡翠で作られた装身具が列島各地に流通して、石器は200キロから300キロの距離を運ばれている。

縄文丸木舟

黒曜石は旧石器時代と縄文時代を通して朝鮮半島やサハリンにも運ばれていたとある。ウィキペディア

なんとなく、縄文人の移動範囲を日本列島だけだと考えている人が多いと思うが、縄文時代は国境のない世界である。

朝鮮半島やユーラシア大陸東部も、その交易範囲だったという事実が発見されている。

遼河文明

中国東北部の内モンゴル自治区から遼寧省にかけて、8,000~7,000年前の新石器時代に高度な玉文化が存在していたことが、明らかとなってきたのである。

日本海文化圏

7,000年前の査海遺跡の玉は、正しく中国最古の玉であることが明確となった。玉の起源は、中国南部ではなく、東北部であったのである。 

けつ状耳飾

縄文早期末から前期に、北海道から九州にかけて一斉に出現したケツ状耳飾は、中国東北部(旧満州)から日本海を縦断して伝播し、桑野遺跡を含む北陸地方を生産拠点として、全国的に拡がったと今では考えられている。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_11_1nihonnkai_bunnkakenn.html

この事実は、今までの中国の文化の姿を大きく変えるものである。

いままで聞いたことのなかった遼河文明が、ヒスイなどの玉製品(ケツ状耳飾)の出土する文化としては中国最古のものであり、なおかつ龍の出現する文化としても中国最古のものであるということなのだ。
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12271241145.html

この発見により、縄文文化は一気に中国大陸内に食い込んでくるのである。

これまでは黄河文明と呼ばれている中国文化がメインだったのが、実は中国東北部の遼河流域で起こった、紀元前6200年ごろから存在したと考えられている中国の古代文明と縄文時代がおおきくリンクしていたのである。

そして、それは「けつ状耳飾」や「玉」の装飾品にハッキリ現れているのである。

以上のように、縄文のけつ状耳飾ブームは中国大陸の東北部から来たと思われる。

中国大陸の宝石事情だが、草創期の玉器には石英や滑石も含むが、故宮博物院に収蔵されているような玉器のほとんどは軟玉である。

つまり、中国には硬玉の産地がない。

という事は、日本の硬玉の珠は中国人にしてみればとっても貴重だった品物である。

これもまた、重要事項だと思う。

今回のテーマは、勾玉はなぜ曲がっているのかという点である。

もし勾玉が輸出品なら、あの独特の形をしていないほうが、装身具として使うならいいと思う。

世界の宝石事情を見ても、殆どが球である。

ネックレスも指輪もイヤリングも丸いほうが加工しやすい。

しかし勾玉は装飾品なのに、曲がっている。

つまりシンメトリーではない。そんな装飾品があるだろうか。

よく勾玉は首輪として使われていた写真が多くある。

それなら、勾玉は、動物の牙で作られた牙玉と呼ばれるものと同一なのだろうか。

しかし、それ以外の用途を匂わせる記述がある。

魏志倭人伝(紀元3世紀中頃)には邪馬台国の王の壱与(卑弥呼の次)から、真珠5000個、青い勾玉2個、高価な織物40反、男女30人魏の国へ貢ぎ物を送ったと書かれている。

ここが引っかかっていた。

青い勾玉2個である。

日本は奇数が大切のはずである。

それが1個でもなく、3個でもなく、2個である。

そこには理由があるはずである。

そうだ。2個で1セットなのだ。

とすれば、勾玉はイヤリングに間違いない。

勾玉の不思議な形だけに目がいってしまって、胎児だとか不思議な方に、引っ張られていってしまった。

邪馬台国の王の壱与は、勾玉をイヤリングとして魏の国へ送ったのだ。

円形の耳飾り

縄文時代の耳飾りは円形,楕円形または三角形に近い形のものもある。

主として滑石,蛇紋岩などでつくられている。

大阪府国府遺跡 (こういせき) で人骨の耳の付近から出土した、中央に穴があいていて,そこから外に一筋の切れ目が出ている耳飾りがある。

国府遺跡出土けつ状耳飾り

これは「けつ状耳飾」とよばれ、縄文時代前期から中期にかけて盛んになっている。

「けつ」とは中国浙江省の新石器時代遺跡の河姆渡(かぼと)文化や紅山(こうざん)文化などでみられるの玉器のことで、けつ状耳飾はこの玉器の「けつ」の形に似ていることからけつ状耳飾と名付けられた。

「けつ状耳飾」は一般的な装飾品といっても誰もが使用していたものではなく、栃木県の根古屋遺跡という遺跡では179体の人骨が発掘されているが、けつ状耳飾を伴っていた人骨は、わずかに2体だけだった。

このようなことから、このけつ状耳飾は特定の人しか装着することができなかったアクセサリーであることが推測されている。

勾玉の誕生

一つ注目したい事象がある。

(要約)縄文時代早期~前期の滋賀県の安土弁天島遺跡のけつ状耳飾だが、出土したものは完全な形のものは1つもなく、どれも途中で折れていて、さらにほとんどのものは穴が開けられています。

弁天島遺跡で見つかった玦状耳飾

これは、折れてしまったものを紐でつなぎ合わせたり、あるいはペンダントとしてぶら下げたりするために開けたようです。
 遠くからもたらされた貴重なアクセサリーは、壊れても大事に使い続けたんですね。
http://shiga-bunkazai.jp/%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%93%A1%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%81%E3%81%AE%E9%80%B8%E5%93%81%E3%80%80no-84/

つまり、それほど固くない素材で作られていない「けつ状耳飾」は、交易での移動の際、全て割れていた。

中空のドーナツ状の耳飾りが半分に割れ、それに穴を開けて使用していたということである。

けつ状耳飾が半分になった形、これは勾玉の形である。

勾玉が半円状なのは、本来丸い「けつ状耳飾」が半分に割れた形である。

縄文期 翡翠製 けつ状 耳飾りからできた垂飾玉

これは勾玉の初期形を見れば、一目瞭然である。

見ても分かる通り、半円状なのだ。

縄文人たちは、この半円の飾りを見て、美しいと感じたのだろう。


ここからは想像である。

「けつ状耳飾」は、紐を通す穴がなく、耳に結構な大きさの穴がないと使えないのだが、半分になったものに穴を開ければ、容易に装着できる。

また、半円を両耳につければ、二つで一つのシンメトリーデザインとなる。

「かっこいいじゃん」と縄文人は思ったのだ。

そんなに悪くない発想だと思う。

そして縄文の職人たちは、この半円の耳飾りを全面的に受け入れたのだと思う。

また、交易のための製品とした場合、個性的なデザインは商品価値を高めてゆく。

日本製の翡翠の勾玉は半円なのだ。

これは何処に持っていっても一目瞭然の日本国ブランド力にもつながっていくのだ。

火焔土器などを見ても、その造形は非対称である。

そんな感性がある縄文人である。半円をベースにした勾玉は、デザインとして定着したのだと推測できる。

日本の美はシンメトリーのものもあるが、侘び寂びなどを含め、不完全なものに対しても美を見出す能力がある。

これは、縄文の美意識が現代にまでつながっている証なのではないだろうか。

遼河(りょうが)文明は、12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化し、約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、後の中国文化へと発達した可能性が指摘されている。

古代朝鮮半島と倭国 七世紀の歴史 文明の曙 http://kobichin.sub.jp/china-bigin/index.htm

これは、縄文晩期に勾玉のデザインが多様化したことにつながると思う。

縄文前期、中期の交易相手だった、遼河(りょうが)文明の住人たちが、変化していった証拠である。

そして弥生時代、日本のブランドである勾玉は、定型化していく。

これは、中国の黄河文明の国々との交易に使われていたせいだと読み取れる。

まあ、弥生人達の美的センスの無さのせいもあると思うのだが。

勾玉は本来半円なのだが、穴を開ける場所が大きいほうが、割れなくてすむし、比較的作業が楽である。

そのために、巴のような形に変化していったのではないかと推測できる。

弥生時代の勾玉


勾玉の形に霊的なものや何かの比喩がベースになっている説と比べると、なんと夢のない説になってしまったと思うのだが、事実はこうだったと推測する。

日本には理由のわからない独特の形が多い。

例えば弥生時代の髪型の角髪(みずら)、前方後円墳の形、縄文土器のデザインなどだ。なぜあんな形になったのかは、やはり不明である。

まあ、むりやり形に説明をつけるとすれば、あの半円は日本列島の形だと思う。

これこそ、メイドインジャパンの形だと思うからである。

勾玉と日本列島


私は鈴木克彦氏という名前も論文も知らなかったが、ウィキペディアにタイトルが上がっている「縄文時代極初期のけつ状耳飾りが原型である」との説と奇しくもおなじになった。

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