ロシアの歴史

長崎はロシアと関係が深い。おじいさんと話たりするとロシア人を露助(ろすけ)と言ったりする。これは現代においてロシア人の蔑称である。

長崎国際墓地にあるロシア人礼拝堂

しかし、ロシア語の形容詞である「ルースキー(русский、英: Russky)」が「ろすけ」に由来し、最初は蔑称じゃなかったことがわかる。

長崎市内の対岸地区の稲佐はロシア村と呼ばれる時期があった。これは明治36年まで続く。

こんな関係なのにロシアの歴史は知らないことが多い。

なのでまとめる事にする。

ロシアの歴史

ロシアと言ってもその領土は広い。「地球儀をぐるりと回さねばならないほどの大きな国」と司馬遼太郎氏も書いているほどである。

ロシアの始まりは意外と新しい。

どんなに過去をさかのぼっても、1000年弱である。日本で言えば平安時代にロシアの起源がある。

ヴァイキングが起源

最初はヴァイキング達が内陸に進出して国を作る。これがスタートである。

ヴァイキングとは北方系ゲルマン人で、海賊、交易、植民を繰り返す略奪経済だったと言われている。

よく見るのは「角のついた兜と毛皮のベストを着た荒くれ者たち」の姿である。

ヴァイキング

地理的に言えば、ヨーロッパのスカンディナヴィア半島にあるスウェーデン、ノルウェー、フィンランドが面するバルト海をメインに、ヨーロッパを海沿いに動き回っていた集団である。

ヴァイキングの航海

この時代は、ロシア地域にはスラブ人たちが住んでいて、彼らはバイキング達にやられ放題だったが、862年にノルマン人のリューリクという傑物がこの地に乗り込んで首長になってしまった。

ロシア1000年記念碑のリューリク像(ノヴゴロド)

キエフ・ルーシ

そして、この地域は、リューリクの属する部族ルスの名前にちなんでルーシと呼ばれるようになるが、この「ルーシ」という地域名が、のちに「ロシア」という国名と結びつけられるようになる。

そして、882年にリューリク一族は、ドニエプル川中流の交易都市キエフを征服し、キエフをルーシの中心に定めた。

これをキエフ・ルーシと呼ぶ。

まあ、元祖ロシアと言ったところだ。

このリューリクさんは、辞書にも「ロシアの建国者」と書かれている半伝説的人物。リューリクの後裔は、キエフ・ルーシから16世紀のロシア・ツァーリ国に至るまで支配者として君臨し、リューリク朝と呼ばれている。

キエフ・ルーシは東ローマ帝国と貿易を盛んにしている。

その時のキエフ・ルーシの最大の輸出品は、ロシアに住んでいたスラブ人たちだったという。この事は、英語で奴隷のことをスレイブ(スラブ人)という事からもよくわかる。(他説あり)

多神教のキエフ・ルーシのウラジーミル大公(王様)は、東ローマ帝国からキリスト教を受容してルーシは国をあげて正教会の信徒となる。

ニコ生ロシア史講座の茂木誠氏によれば、ルーシ(元祖ロシア)がキリスト教を選んだ理由は、酒が飲めるからだと言っている。

同じようにイスラム教も選択肢にあったのだが、イスラム教は一夫多妻だが酒は厳禁だった。それを聞いてウラジーミル大公はキリスト教の洗礼を受けたとある。

ヴァイキングに禁酒はやはり無理だろう。

これにより、キリスト教教会が、ローマ教皇を頂点とする西方教会(カトリック教会)と、東方教会(正教会)に分裂する。

ロシア正教会は、原始キリスト教にギリシャおよび東洋の異教的要素を加えたものと言われている。

ロシアクロス 八端十字架

墓地にある十字架で横棒が多いのがロシア正教で、この十字架は8箇所の先端部分が存在するので八端十字架(はったんじゅうじか)と呼ばれている。

ロシアの黒歴史 タタールのくびき(軛)

その後、このキエフ・ルーシはモンゴル帝国の侵略を受けて、200年間モンゴル帝国の支配下に組み込まれた。

これをタタール(モンゴル)のくびき(軛)という。これがロシアの黒歴史である。

モンゴルといえばジンギスカン(チンギス・カン)である。

チンギス・カン

彼はモンゴル帝国の初代皇帝で、大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一する。

そして、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた人物だ。

まさに空前絶後の傑物である。

オクスフォード大学の遺伝学研究チームは、DNA解析の結果、チンギス・カンが世界中でもっとも子孫を多く残した人物であるという結論を発表した。その数は1600万人という。

チンギス・カンの孫である「クビライ」のモンゴル軍は日本にも攻め入っている。

ご存知元寇である。文永の役・1274年、弘安の役・1281年という。日本の場合は、北条時宗以下、鎌倉武士たちの決死の戦いで、日本侵略を防いだ。

元寇

しかし、1223年から1240年の間に陸続きのキエフ大公国は、このモンゴル軍によってあっけなく滅び去ってしまう。

タタールのくびき

モンゴル軍の強さの秘密は、やはり騎兵戦術である。戦術も優れていて、敵が近づくと逃げながら矢を撃ち、敵が逃げると追いかけながら矢を撃つ。

カシアス・クレイのように蝶のように舞い、ハチのように刺すという、華麗なフットワークの上、スパイ活動も卓越しており、相手の弱みを心理戦で揺さぶることも得意だったからである。

このモングル軍に屈し間接統治下にあったルーシの中で、うまく立ち回って権力を得たのが、モスクワ公である。

モスクワ公は地方の弱小豪族だったが、モンゴルにしっかり取り入り、隠れて勢力を広げていく。

面従腹背の見本みたいな王様だった。

その時代、ロシアにはコサックという勢力が台頭してくる。コサックとは国ではなく、独特の軍事的共同体である。

コサック

モンゴル支配時代に、帝政ロシアの農奴制から逃亡した農民や没落貴族で形成されたコサックは、モンゴル人の騎馬戦法を次第に習得していき強い勢力となった。

コサックの風俗で顕著なのが、ヘアースタイルで、コサックはモンゴル人を真似て辮髪(べんぱつ)にしている。またコサック・ダンス何ていうのもある。

モスクワ公国のイヴァン3世は、これらのコサック達の活躍を利用し、力の衰えたモンゴル(キプチャク・ハン国)から独立したというわけである。

モスクワ公国のイヴァン3世

紆余曲折を経て、ついにモスクワ公国のイヴァン3世は1480年にハンからの独立を宣言し貢ぎ物を停止した。

イヴァン3世

また、北西ルーシの強国ノヴゴロド公国を併合し、ルーシ北部の統一をほとんど成し遂げた。

ロシア連邦の首都、モスクワ市の中心を流れるモスクワ川沿いにある旧ロシア帝国の宮殿をクレムリンというが、クリムとは砦を意味するモンゴル語から来ている。

東ローマ(ビザンツ)帝国はオスマン・トルコから侵略される際、キリスト正教会の後継者にモスクワ公を指名し、ローマ皇帝の座を譲ることにする。

この事でモスクワ大公はロシア皇帝と名乗るようになる。

それにより双頭の鷲の紋章はローマ皇帝のみが使用できるものだったが、ロシア皇帝が使うようになった。

双頭の鷲 ロシア帝国の紋章

歴史上ではロシア帝国の始まりである。

余談だが、シビル-ハン(モンゴル)の国をコサックが打ち破り、この地をロシアに献上する。このシビル-ハン(モンゴル)の名前が、シベリアという地名になっている。

モスクワ大公国はロシアのいくつかの公国を併合し、イヴァン3世の時にはロシアの統一を進める

次のヴァシーリー3世、イヴァン3世をへて、雷帝(グローズヌイ)と言われたイヴァン4世は親衛隊を組織し、残虐な手法による大貴族層の抑圧して恐怖政治を行った。

イヴァン4世は長男を殴り殺し、皇帝を次男ヒョードルが継承したが、次男には後継者がなかったため、リューリク朝はここで断絶している。

その後、政治は混乱するが16歳のミハエル=ロマノフが全国会議で新しい皇帝(ツァーリ)が誕生する。

この時代は織田信長、豊臣秀吉から徳川家康が江戸幕府を立ち上げた時代に当たる。

ロマノフ朝(1613年から1917年)

ロシアに君臨したロシアの歴史上最後の300年続いた王朝である。歴史書では近代ロシアの時代という。

ロマノフ家の人々

現在でも単に「ロマノフ朝」といえば「ミハイル・ロマノフからニコライ2世まで連綿と続いたロシアの王朝」と指すのが一般的である。

初代のミハイルとその息子であるアレクセイ、アレクセイの末子と皇帝は続き、ピョートル1世(ピョートル大帝)の時代に大躍進をする。

ピョートル1世

ピョートル大帝は2メートルもある大男で、単身オランダに行き、船大工となり船の作り方を覚えてくるなど、かなりの変人だった。

オスマン帝国と争い、アゾフ海に進出、さらにスウェーデン・バルト帝国と大北方戦争を戦い、バルト海沿岸を獲得、そこを「西欧への窓」と位置付け、首都サンクトペテルブルクを建設し、そこを帝都とした。

ピョートル大帝の2代後、いろいろあったが、結局後継者不足で知的障害のピョートル3世が皇帝になってしまう。

このピョートル3世の妻エカチェリーナ2世(ドイツ貴族の娘)が凄い女性だった。

彼女は軍のクーデターに便乗してピョートル3世を葬り、女帝として即位する。

女帝エカチェリーナ

エカチェリーナ2世

エカチェリーナ2世は当時ヨーロッパで流行していた啓蒙思想の崇拝者で、啓蒙君主を自任していた。

啓蒙思想とは理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想で、フランスではモンテスキューの法の精神が有名である。

ざっくり言えば、迷信や宗教にとらわれない現代的合理主義である。

しかし、当時のロシア社会は女帝の想像以上に未成熟な状態であり、結局女帝の空回りになる。

そんな、エカチェリーナ2世は領土拡大に熱心で、「ポーランド分割(ポーランドの領地をかすめ取る)」をオーストリア帝国、プロイセン(ドイツ)王国とともに行い、ポーランド東部を獲得した。

南方でも、オスマン帝国との戦争(露土戦争)などにより領土を黒海沿岸やクリミア半島まで拡張しただけではなく、サファヴィー朝(ペルシアを支配したイスラーム王朝)との境のコーカサス地方にも侵略、これを併合した。

エカチェリーナ2世こそ史上最強の女帝という人もいる。それとこの女帝には、ロシア人の血が一滴も入っていない。

しかし、名前もロシア風、宗教もロシア正教に改宗し、さらにはロシア語を懸命に勉強したので、ロシアの国民からも人気だったという。

ピョートル3世の息子だが、これはエカチェリーナ2世の浮気相手の子供である。

性欲もすごく、わかっているだけでも10人の彼氏がいたという。さすがロシアである。

エカチェリーナ2世の息子の統治は、専横な振る舞いが目立ち、さらに先帝が与えた貴族の諸特権を廃止したため不満を受ける。

結局クーデターを起こされ、宮殿内で殺害されてしまう。

ナポレオンとの戦い

1812年6月にナポレオンは約60万人の大兵力を率いてロシアに侵攻した(第一次大祖国戦争)。

1812年ロシア戦役

両軍とも甚大な犠牲を出す戦いとなり、大陸軍はモスクワを占領するが、直後に大火が起きて町は廃墟と化してしまう。

ナポレオンはモスクワを放棄して撤退を開始するが、冬季の退却戦で大損害を出して大陸軍は壊滅状態となり、ロシア遠征はナポレオンにとって破滅的な大敗で終わった。

ロシア軍は敗走するナポレオン軍を追撃して中欧そして西欧にまで進軍し、パリの城門にまで至った。

ナポレオンに対する勝利により、ロシア帝国は19世紀における主導的な国際政治上の地位を占めたものの、農奴制を維持し続けたことにより経済的な発展が阻害されていた。

あのナポレオンに勝ったのだが、国内の制度が駄目だったということである。

なので18世紀後半に始まった産業革命によって西欧諸国は経済成長を果たすが、ロシア経済は大きく立ち遅れており、この事で社会主義の芽が発芽することになる。

19世紀のロシア

アレクサンドル1世はフランス革命に際して対仏大同盟に参加する。

これはフランス革命への干渉,ナポレオン1世への対抗のため,1793~1815年にかけて5次にわたりヨーロッパ諸国が結んだ軍事同盟である。

次のニコライ1世は国内の不満をそらすために、対外戦争に乗り出し、ギリシア独立戦争、エジプト・トルコ戦争に干渉し、「汎スラブ主義」の大義のもと「南下政策」を推し進める。

汎スラブ主義・・スラヴ人とは、中欧・東欧に居住し、各地域のインド・ヨーロッパ語族の総称だが、スラヴ民族の特徴としては、言語の均質性が高いという事が挙げられる。つまり、スラブ人の国同士なら、通訳なしでも意思疎通が出来たとある。

外見的特徴を上げれば、スラブ系民族の多くは白色人種であり、混血が凄いので、体の特徴は個人差がありすぎるのだが、しいて言えば髪は薄い茶色(亜麻色)から黒。ゲルマン系民族と比べて顔が丸く彫が浅い。高身長ではないが骨格に厚みがある。

現代で言えば、ロシア人、チェコ人、ポーランド人、セルビア人、ブルガリア人たちである。

ロシアは不凍港がなく、港を欲しかったので南を目指していたが、オスマン帝国との間で起こしたクリミア戦争では英仏の参戦により敗北し、「南下政策」は頓挫する(東方問題)。

クリミア戦争地図 - 世界の歴史まっぷ https://www.sekainorekisi.com/download/クリミア戦争地図/

イギリスは色んな所でロシアと対峙している。日露戦争のときも、日本と同盟を結び、ロシアの南下を阻止している。

クリミア戦争でロシアが負けたのは、兵器が圧倒的にイギリス、フランスの方が優秀だったからである。

ロシアの近代化

クリミア戦争の敗北でアレクサンドル2世は1861年に「農奴解放令」を発布し、解放された農奴たちは農村で小作農となり、あるいは都市に流入して労働者となった。

そして外国資本を呼び込み、国の経済を活性化させるのだが、結局外国資本とロシアの貴族だけがいい目に会い、農民たちは極貧の生活を強いられ続けていた。

この頃から社会主義社会を志向するナロードニキ運動(農民の啓蒙と革命運動への組織化により帝政を打倒し、自由な農村共同体を基礎にした新社会建設を目指した)が始まったがこの時期では広がらなかった。

ニコライ2世の治世ではヴィッテ財務大臣によるフランス外資の導入による、重工業化が行われた。さらにシベリア鉄道の敷設も行われた。

このニコライ二世は皇太子時代(当時22歳)に日本を訪れている。

長崎を訪問していたニコライ二世

明治24年(1891年)4月27日に長崎に寄港し、その後日本を縦断している。そして大津事件が起きる。

大津にて警護にあたっていた滋賀県巡査の津田三蔵に皇太子が斬りつけられ、頭部を負傷するという大事件なのだが、この事件に対して、天皇自らが謝意を表明したことで事件は沈静化する。

極東方面では清朝の満洲に進出し、遼東半島を足がかりに朝鮮半島への進出を企図したが、ロシアの南下を防止するべくイギリスと日英同盟を締結した日本と衝突。

そして遂に1904年に日露戦争が勃発した。

日本海海戦

ロシア帝国は国力において圧倒的に優勢だったが、満州を舞台に行われた陸戦では奉天会戦の敗北で日本軍の奉天進出を許し、海上でも極東に派遣されたバルチック艦隊が日本海海戦で完全壊滅したため、制海権を握ることは出来なかった。

この日露戦争の間に、ロシア国内では「血の日曜日事件」が起き、これをきっかけに労働者のゼネストが頻発し(ロシア第1革命)、ロシア帝国の体制の根幹をなしてきた「皇帝専制主義(ツァーリズム)」も著しく動揺する。

血の日曜日事件
ロシア帝国の当時の首都サンクトペテルブルクで行われた労働者による皇宮への平和的な請願行進に対し、政府当局に動員された軍隊が発砲し、多数の死傷者を出した事件。

翌1905年にはアメリカ合衆国の仲介でポーツマス条約が締結され、満州の利権獲得を断念し、南樺太を日本に割譲することで戦争は終結した。

日露戦争の敗北により、事実上、極東での「南下政策」は失敗したとされる。

ロシア革命

1914年にサラエヴォ事件が発生し第一次世界大戦が勃発すると、イギリス・フランスと共に三国協商を形成していたロシア帝国は連合国側に参戦した。

タンネンベルクの戦いで、ロシア軍は完敗。さらに宮廷では怪僧グレゴリー・ラスプーチンが治世を牛耳るなど政治の腐敗が続く。

このあたりから、ロシア国民の不満が爆発してくる。

1917年に、首都ペトログラードの婦人たちが、「パンをよこせ」というデモを展開した事から始まった二月革命がおき、更に十月革命が起きる。

二月革命の勃発

この二つの事件をロシア革命と呼ぶ。

ニコライ2世は首都での革命的動乱に対して、軍を派遣し、事態の沈静を図ったが、それが悉く失敗。

ついに皇帝位を退くことを決定した。ここに304年続いたロマノフ朝は終焉する。

ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の誕生

ソビエト連邦とは複数のソビエト共和国により構成された連邦国家である。

そしてマルクス・レーニン主義を掲げたソビエト連邦共産党による一党制の社会主義国家でもある。

カール・マルクス

ウラジミール・レーニン

マルクス・レーニン主義を簡単に言えば、階級格差のない自由で平等な社会を目指すため資本家を排除し、労働者による独裁を目指すというものである。

レーニンは、社会主義を確立するために、ロシア国内の民衆を百数十万人殺してしまう。

ここからは、かなり複雑になるので、深く知りたい人は専門書をお勧めする。

ここで社会主義と共産主義の違いを述べる。

マルクスやエンゲルスも、用語上も「社会主義」と「共産主義」を同じ意味で、状況に応じて使っている。

しかし違いはある。

社会主義は、みんなで労働し、成果物を政府が平等に分配する社会で、共産主義は、国民それぞれが能力に応じて働き、必要なものを受け取る成熟した理想社会を目指す考えである。

社会主義の進化系が共産主義であると考えてもいいと思う。

この社会主義を代表する提唱者が、バクーニン(ロシア人)とマルクス(ユダヤ人)である。

バクーニンは暴力革命で資本家を排除した後、政府も廃止しようという考えで無政府主義(アナーキズム)といい、マルクスは暴力革命の後、労働者独裁を目指す共産主義(コミュニズム)である。

ロシアではこの二人の考えで二分されており、常に分裂状態だった。

レーニン亡き後、赤軍司令官トロツキーと共産党書記長スターリンとで権力闘争が起こり、スターリンが勝つ。

ヨシフ・スターリン

その後のスターリンの悪名は世界中に響き渡り、皆さんのご存知のとおりである。

ソビエトの指導者の流れ

ソビエトではこの社会主義に関して二つの流れがある。

それは理想主義を貫く一派と、資本主義と共存を図る改革派と呼ばれる流れである。

当初のレーニンは理想主義で徹底的に国民を統制するやり方だったが、晩年改革派になってしまう。

その後、理想派大悪党のスターリン

スターリンを批判する改革派フルシチョフ

理想主義でアフガン侵攻のブレジネフ

ペレストロイカの改革派ゴルバチョフとなる。

ミハイル・ゴルバチョフソ連大統領

そしてもっと急進的な改革派としてエリツィンが登場する。

ボリス・エリツィン

エリツィンは1990年ソ連邦内のロシア共和国最高会議議長となるのだが、なんと共産党離党し、ロシア共和国大統領になってしまう。

これによりソ連が崩壊する。

しかし、改革派ゴルバチョフとエリツィンの勢力に対して、軍やKGBが反乱を起こすが、失敗してしまう。

その後、脱共産党のエリツィンは外国資本などを国内に入れ、市場経済を活発化させるが、これによりソ連国内はがたがたになってしまう。

ソ連内に独立運動が起き、年金も消滅、社会主義政権では出なかった餓死者が出るようになってしまう。

これにはエリツィンも困惑してしまい、その結果、保守派で秘密警察出身のプーチンに2000年に政権を渡してしまったという流れである。

さて強面プーチン大統領が、これからどう動くのか楽しみでもある。

ウラジーミル・プーチン

コミンテルン

最後に、コミンテルンの事がある。

コミンテルン

コミンテルンとは正式名称を「共産主義インターナショナル」という。ちなみに日本共産党はコミンテルン日本支部である。

日本の敗戦はコミンテルンの謀略であるという論調も強い。

コミンテルンが日本・アメリカ・ドイツ・イギリス・中国などといった第2次世界大戦の主要参戦国に大量のスパイを送り込み、これらの国の政治を裏で操作し、第2次世界大戦へと誘導したと解説する人も多い。

しかし、過去の妄想として否定する達も多く、「ユダヤの陰謀」「フリーメイソンの陰謀」などの陰謀説と同列だと述べている。

さて、どちらだろうか。

ただ、現在の共産主義国家である中国を見れば、世界を共産主義化にしようとする勢力は確かに存在する。

要注意のコミンテルンである。


この文章は茂木誠氏のニコ生ロシア史講義01から04の内容をベースに、ウキペディア、その他HPの資料を元にして書いている。

とくにニコ生ロシア史講義はユーチューブで無料公開しているのでお勧めである。それ以外にもユーチューブの無料講座はたくさん見ている。

それだけロシアの歴史は複雑で、頭の中で整理するのが困難だった。

この拙文「ロシアの歴史」は、私の適当な抜粋であり、間違った理解もあるかもしれないのは再度申し上げる事とする。

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